【豆相人車鉄道】熱海復活への執念!熱海鉄道の波乱の歴史を徹底的に解説!

かつて熱海の温泉街を救おうとした豆相人車鉄道から、熱海鉄道へ。度重なる危機や震災、そして国鉄の台頭まで、やさしく解説してゆきます!

明治時代の豆相人車鉄道(画像はAIによるイメージです)

明治時代の豆相人車鉄道

本記事で掲載している画像は、あくまでAIによるイメージです。実物とは異なる描写がある可能性がありますので、ご了承ください。
この豆相人車鉄道シリーズは、全3回(前編・中編・後編)あります。
今回は後編(第3回)ラストになります。

熱海の衰退から復活まで(豆相人車鉄道関連)

熱海の危機:御殿場ルートによる「放置」

明治時代、日本の大動脈となるはずの東海道本線が、山を大きく迂回する御殿場経由(現在の御殿場線ルート)で開通したのでした。

しかし、このことは観光地としての発展を夢見ていた熱海にとっては、まさに目の前が真っ暗になるような、見過ごせない大事件になってしまったのでした。

​取り残された温泉街

かつて熱海温泉は、あの天下の徳川家康公も、わざわざお湯を江戸まで運ばせるほど深く愛した歴史ある名湯だったのです。

であるにもかかわらず、もはや陸の孤島のようになってしまい、近代化の主役である鉄道が街にやって来なくなったのでした。

このせいで、東京からのアクセスが悪くなってしまい、その上他の観光地に押されてしまい、熱海ではもはや客足が激しく遠のいてしまったというわけです。

執念の鉄道建設 豆相人車鉄道の建設へ

このように、

このままでは熱海がダメになる!

という、地元の存亡をかけた強烈な危機感から、

  • 国や大企業に頼るのをやめ、
  • 地元の有志の皆さんが、自らの私財を惜しみなく投じて、
  • 自らの手で必死に作り上げた

というのが、人の力で車両を押して進むという極めてユニークな豆相人車鉄道だったというわけです。

したがって、これは単なる移動手段ではなく、まさに地元のプライドと執念が生んだ奇跡の鉄道だというわけですね。

「豆相」の名前と、伊豆箱根鉄道との関係

  • この時、熱海小田原をそれぞれ結んだ豆相人車鉄道
  • 現在の伊豆箱根鉄道駿豆線の原型となった、豆相鉄道

​しかし、この2つは名前が似ているため現代の私たちが歴史を振り返るときには、他の路線と非常に混乱しやすいポイントになっています。

しかしながら、実はその背景には面白い歴史のつながりがあるというわけです。

​熱海の「冬の時代」と執念の復活劇(豆相人車鉄道関連)

すなわち、明治22年(1889年)に東海道線が全通したときには、熱海は完全に険しい箱根の山に阻まれてしまって「ルート外」になったのでした。

そのため、熱海の街は一時的に厳しい冬の時代を迎えることになったのでした。

​温泉街の危機感

このように、かつて江戸時代には将軍も愛した子供熱海ですが、そのうち鉄道がないせいで「行くのが大変な秘境」のようになってしまいました。
当時の旅行客は、小田原から馬車徒歩という手段によって、険しい道を行くしかなかったというわけです。

​「ならば自分たちで引く!

この状況を打破するために生まれたのが、豆相人車鉄道でした。

予算不足で蒸気機関車が無理でも、人力列車であればいけた

また、巨額の資金が必要な蒸気機関車

無理でも、人力なら…という、いわば「執念の代わりの策」だったというわけですね。

まさに、夢を現実に変えようとした、地元のプライドの塊というわけです!

​「豆相」という名前に込められた壮大な夢

​「豆相」という言葉には、伊豆(豆)相模(相)をそれぞれ繋ぐというロマンが詰まっていました。

  • 熱海側の「豆相」:小田原(相模)から熱海(伊豆)を結び、さらにその先の下田まで伸ばしたいという野望。
  • 三島側の「豆相」:三島から修善寺、さらには伊豆半島を縦断しようとした別の「豆相鉄道」。

​これらはそれぞれ別会社でしたが、どちらも

東海道本線から見放された伊豆を、自分たちの手で鉄道網に組み込みたい

という、共通の強い願いを持っていたのでした。

したがって、当時は伊豆のあちこちにおいて、

鉄道さえ来れば、かつての賑わいが戻るはずだ!

という希望(あるいは悲願)が語られていたのでしょうね。

​歴史の皮肉と結末(豆相人車鉄道→熱海鉄道)

​しかし、そんな「豆相」たちの夢は、自然の猛威国策によって、まさかの形を変えていくことになります。

​関東大震災の悲劇

1923年、ようやく蒸気機関車で賑わっていた熱海鉄道=豆相人車鉄道が蒸気機関車に進化したもの)を大地震が襲いました。

線路は寸断され、復旧を断念せざるを得ないほどの打撃を受けてしまったというわけです。

​国鉄の「手のひら返し」

熱海鉄道関東大震災によって壊滅的な被害を負ってしまった一方で、国は

「やっぱり御殿場回りの勾配はきついな…」

と、当初は避けていた熱海ルートに目を戻します。

そのため、1918年から難工事の末に丹那トンネルを開通させ、皮肉にも地元の私鉄(熱海鉄道)が関東大震災によって力尽きた後に、最強の「東海道本線」として、熱海鉄道が帰ってきたというわけです。

ちなみに丹那たんなトンネルとは、熱海函南かんなみをそれぞれ結ぶ、全長約7.8kmのトンネルです。
16年もの歳月をかけ、多くの犠牲を払って完成した、当時の日本土木技術の結晶です。

​豆相人車鉄道→熱海鉄道:まとめ

このように、当時の伊豆各地でいわゆる「豆相」構想が乱立してしまったのには、これはもはや単なるビジネスチャンスというより、むしろ

「時代の主役(鉄道)から置いていかれたくない!

という、地元の人々の切実な願いだったのかもしれませんね。

そう思うと、今の熱海駅の賑わいや、修善寺へ向かう伊豆箱根鉄道の姿が、より一層感慨深く見えてきますね!

豆相(ずそう)というワードの響き

豆相ずそう」という言葉は、今で言えば「リニア」や「宇宙旅行」のような、まだ見ぬ明るい未来を象徴するようなキラキラワードだったのかもしれません。

そして、当時の状況を考えると、地元と国の「モチベーションの温度差」は、本当に雲泥の差がありました。

​「豆相」というフライング気味のロマン

当時は、

  1. とりあえず「伊豆と相模を結ぶぞ!」という志さえあれば、
  2. たとえ実力(例えば資金や技術)が伴っていなくても、
  3. なんと「豆相」と名付けてしまう

ような、まさに熱い時代だったようです。

「豆相」​ネーミング先行の夢 「いつかは伊豆と相模をつなげる!」

現在の伊豆箱根鉄道の原型だった「豆相鉄道(すなわち、現在の駿豆線)」の方も、当初は「豆相」の名前を掲げながらも、実際には伊豆(豆)の中だけで完結していて、相模(相)までは届いていなかったのでした。

駿豆線すんずせん三島修善寺をそれぞれ結ぶ、現在の伊豆箱根鉄道の路線です。
昔の国名である「駿河するが」と「伊豆いず」からそれぞれ一文字ずつ取られています。

しかし、それでもその「豆相」の名を冠したのは、

いつかは伊豆と相模をつなげるんだ!
いつかは小田原まで繋がって、首都圏と直結するんだ!

という、まさにフライング気味の期待と、当時の人々の熱量・気合いが込められていたからでしょうね。

明治時代の三島駅(現:下土狩駅)を起点としていた豆相鉄道については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますのでご覧ください。

​実現の壁:箱根の険しい山々

しかし、実際には険しい箱根の山熱海の断崖が立ちふさがり、民間の力だけではその「ロマン」を形にするのは限界がありました

​モチベーションの差:温泉街 vs 国家の命運

そして、そもそもの「地元地域」と「国」では、鉄道建設のためのそもそもの目的やモチベーションは、全く異なっていました

  • ​地元:あくまで「(熱海や伊豆の)温泉に来てほしい!」という願い
  • 国:「鉄道建設が失敗すると、戦争に負けて国が滅んでしまう!」という恐怖にも近いような目的

これだけモチベーションの差があるわけなので、鉄道建設に対して注ぎ込まれるエネルギーが全く違いました。

​地元の願い:生活と観光

まず、熱海伊豆の人々にとっての鉄道建設というものは、あくまでも自分たちの温泉街観光地など対してお客さんがたくさん来てほしいという、「街が生き残るための命綱」でした。

もちろん地元の人たちも、お客さんが来てくれないことには生活できないわけなので、これはこれでとても重要なことです。

​国の目的:兵員と物資の輸送(軍事)

しかし一方で、国にとっての東海道線は、日本という国家を支える「大動脈」です。
つまり、もし戦争になったら兵士・食料・武器・弾薬などを全て鉄道で運ばなければなりません。
当時は戦車航空機などがまだ一般的ではなかったので、鉄道戦争における命綱と言ってもいいぐらいの扱いでした。

すなわち、先の日清・日露戦争を経て、

御殿場の急坂を越えるのに時間がかかるようでは、戦争に負けてしまう!

という強い危機感が生まれていたのでした。

したがって、国が16年もかけて命懸けの丹那トンネルの大工事に挑んだのは、決して単なる移動の利便性のためではなく、戦争に負けて国が滅ぼされないための「国防上の至上命令」だったというわけです。

​震災がすべてをリセットした 熱海鉄道の終えん

しかし​皮肉なことに、民間の人々がコツコツと地道に積み上げてきた「夢の鉄道」を無残にも終わらせてしまったのが、まさに1923年に起きてしまった関東大震災でした。

この大地震により、相模湾に面した崖っぷちを走る線路は、無残に崩れ落ちてしまいました。
しかもその上、なんとか線路を復旧させようにも、民間企業にはもはや直すだけの体力が残っていませんでした。

いや、仮に線路を直したとしても、国鉄熱海線(現在の東海道本線の小田原〜熱海間にあたる線路)が隣を通るわけなので、復活したところで下手に競合するだけであり(国の線路が相手では勝ち目無し)、この時はすでに復旧する意味すら薄れてしまっていたのでした。

​国の「本気」が歴史を上書き

この関東大震災の後、国は

  • たとえ何年かかっても、いくら予算がかかっても、このトンネル(旦那トンネル)を掘り抜く!

と言わんばかりの意気込みで、まさに旦那トンネルを掘るための命がけの難工事を続行しました。

結果として、民間のロマン(熱海鉄道)は国の「国家プロジェクト」に飲み込まれる形で、現在の東海道本線へと繋がっていったというわけです。

豆相人車鉄道・熱海鉄道​ まとめ

​地元の人々が「豆相」の名に込めた小さな夢と、国が戦争を背景に進めた巨大な力が、熱海という場所で交差した歴史は本当にドラマチックですね。

今の熱海の発展は、やはり「国の本気」があったからこそというわけですね。

​おわりに・まとめ

いかがだったでしょうか。

豆相人車鉄道の物語、ついに完結です。
熱海の人々が温泉街の復活を願って挑んだ人力鉄道には、単なる移動手段を超えた「地域の絆」が宿っていましたね。

夢半ばで終焉を迎えましたが、人々の熱意が今の観光地・熱海の土台を作ったといっても過言ではありません。
歴史を振り返ると、単なる効率性経済性だけでは測れない、人々の「執念」や「ロマン」の大きさに心を打たれますよね。

この物語が、あなたの熱海への旅をより深く、魅力的なものにしてくれることを願っています!

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