まずは原文から!
花はみよしの嵐山(あらしやま)
天下一つの梅林(ばいりん)と
きこえし名所は此山(このやま)ぞ
さらに読みやすく!
花はみよしの嵐山(あらしやま)
天下一つの梅林(ばいりん)と
きこえし名所は此山(このやま)ぞ
さあ、歌ってみよう!
♪はーなはみよしの あらしやまー
♪てーんかひとつの ばいりんとー
♪きこえしめいしょは このやまぞー
木津駅→加茂駅
(関西本線)
加茂駅→笠置駅→(木津川橋りょう)→大河原駅→月ヶ瀬口→伊賀上野駅→佐那具駅→柘植駅→(鈴鹿峠のトンネル)→関駅→亀山駅→四日市駅→桑名駅→長島駅(→至・名古屋駅)
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
三重県西部・伊賀地方「月ヶ瀬梅林」
今回は三重県西部・伊賀地方(いがちほう)にある、月ヶ瀬梅林(つきがせばいりん)についての話題になります。

まずは歌詞の意味・語句を、一つ一つ確認
まず、歌詞に出てくる様々な名所について確認していきましょう。
「姨捨(おばすて)」とは?
姨捨山(おばすてやま)とは、長野県にある山であり、別名「冠着山(かむりきやま)」とも呼ばれます。
月が美しい棚田(たなだ。山の斜面に沿って段々に広がる田んぼのこと)に映る、月が田んぼごとに映るような景色が美しいことで知られます。これを「田毎の月(たごとのつき)」と言います。
姨捨山については、以下の各記事でも解説していますのでご覧ください。
「須磨(すま)」とは?
須磨(すま)とは、現在の兵庫県神戸市須磨区(すまく)にあたる地名です。
源平合戦のときは、「一ノ谷の戦い」の舞台となったり、無念にも敗れた平敦盛(あつもり)が持っていた「青葉の笛」が置かれている「須磨寺(すまでら)」があります。
鉄道唱歌 山陽・九州編 第2番~第4番にかけて歌われおり、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
「明石(あかし)」とは?
明石(あかし)とは、現在の兵庫県明石市にあたる地名です。
上記の須磨区と(垂水区を間に入れて)隣接しています。
向こう岸の淡路島(あわじしま)との間にかかる明石海峡大橋や、「朝霧(あさぎり)の~」と明石の浦を奈良時代に歌に詠んだ柿本人麻呂(かきのもと ひとまろ)で有名な場所です。
鉄道唱歌 第6番でも歌われており、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
「月の名所」との関連は?
しかし、須磨区や明石が歌詞の通りに月の名所と呼ばれる所以(ゆえん)については、調べたのですがわかりませんでした。
もちろん明石海峡は月の景色は想像しただけでも素晴らしいと思いますし、もしかしたら柿本人麻呂の歌にも関係あるのかもしれません。
ここに関してはもう少し詳しく調べてもよかったのですが、ここに時間を費やしすぎると先へ進めないので、一旦ここでギブアップさせてください。(敗北宣言)
わかり次第、追って加筆します!
「嵐山」とは?
嵐山(あらしやま)とは、現代の我々が知るところでは「京都の嵐山」が真っ先に思いつきます。
歌詞によれば、嵐山は花の名所であるという言及がなされています。
鉄道唱歌 東海道編 第50番においても
とあり、いわゆる「仁和寺(にんなじ)」というお寺の「御室桜(おむろざくら)」が知られます。
嵐山のある一帯の観光地は、古く(平安時代の頃)から「嵯峨野(さがの)」と呼ばれ、天皇をはじめとする皇族のリフレッシュや、余暇を過ごすための場所として使われてきました。
今でも京都の超人気観光スポットであり、桂川(かつらがわ)に架かる渡月橋(とげつきょう)が印象的です。
嵯峨嵐山については、以下の各記事でも解説しておりますので、ご覧ください。
↓さらに詳しく解説バージョン
月ヶ瀬村の歴史を、より詳しく
月ヶ瀬村(つきがせむら)には、前回解説したとおり、梅の名所で有名な月ヶ瀬梅林(つきがせばいりん)というものがあります。
歌詞によれば、月ヶ瀬梅林は「天下に一つの梅林」と言及されています。
その月ヶ瀬梅林の歴史について、少し深掘りしてみましょう。
元々「塗料」を採るために植えられた、梅の花
月ヶ瀬梅林は、元々は梅の花を用いた塗料(化粧に用いるもの)を造って販売するために植えられ、栄えました。
梅の花は、口紅などの「赤く染める」材料として役に立つからです。
江戸時代、平地があまりなく、農業に向かなかったこの地域
江戸時代、年貢の取り立てが厳しいことに月ヶ瀬の人々は困り果てていました。
しかし、月ヶ瀬は周囲が山がちで、平らな土地があまりなく、農業に適していない地域だったのでした。
そのため、他の地域のように農作物を作って売って利益を上げることができませんでした。
利益が上がらなければ、年貢(税金)を収めることもできないからです。
農業の代わりに、梅を育て、大ヒット
そこで、その代わりに梅の木々を育てて、その梅から取れる(化粧や口紅の着色料となる)材料を京都や大阪の町にたくさん売り、大きな利益を上げることができました。
こうして、月ヶ瀬の人々はようやく暮らしが安定して良くなったとされています。
たくさん植えた梅の花が、見事な景観・梅の名所に
このようにしてたくさん植えられた梅の木々が、やがてそれは(辺り一面ピンク色に染まる)見事な景観となったのでした。
そして、江戸時代や明治時代以降の観光の名所として「月ヶ瀬梅林」は知られるようになったのです。
「材木置き場」でもあった
さらに、月ヶ瀬は奈良時代には「材木置き場」としての役割を果たしていました。
奈良時代、奈良の「お寺」を造るにも「お屋敷」を造るにも、木材はたくさん必要でした。
そのため、山林の多い月ヶ瀬一帯の木々を、木津川(きづがわ)の舟に載せて運んでいたのでした。
昔はトラックも貨物列車もありませんでしたから、舟に載せて大量の木材を運ぶのが一番効率が良かったのです。
木材を一時的に貯めておき、必要に応じて発送・出荷するための場所
しかし、山から採った木材はいっぺんに運ぶのではなく、必要になったときに必要な分だけ運ぶ必要があります(今の時代でいう「オンデマンド(On Demand)」)。
そのため、一時的に木材をある場所に溜めておいて、必要になったときだけ舟に載せて運ぶということをやっていました。
その場所が月ヶ瀬というわけです。
港などでよく見かける「倉庫」も、必要になるまでそこに保管・ためておくための設備になります。
東京の「新木場」は、まさに「材木置き場」だったことに由来
こうした「木材を一時的に置いて置く場所」は、東京都江東区(こうとうく)の
- 「木場(きば)」
- 「新木場(しんきば)」
という地名がその由来を持っています。
木場・新木場も、江戸時代に一時的に木材をためておく場所だったことから、このような地名になりました。
「木津」も、同じように「木を貯めておく船場」という由来
関西の木津(きづ)も、木材をたくさん保管しておく場所(舟を泊めておくための港(津)のような場所)だったことから、木津という名前がつきました。
次は、柘植へ
次は、柘植駅(つげえき)に止まります!
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