鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の歌詞(奈良・吉野・如意輪寺・楠木正行)について、鉄道に詳しくない方にもわかりやすく解説しています!
↓まずは原文から!
聲より猶も身にしむは
如意輪堂の寶藏に
のこる鏃の文字の跡
さらに読みやすく!
声より猶も 身にしむは
如意輪堂の 宝蔵に
のこる鏃の 文字の跡
さあ、歌ってみよう!
♪こえよりなおもー みにしむはー
♪にょいりんどうの ほうぞうにー
♪のーこるやじりの もじのあとー
吉野の「如意輪寺」
今回も、前回に引き続き、奈良県の吉野になります。
如意輪寺は、吉野にあるお寺です。
前回説明した吉野の吉水神社よりも、さらに奥の方に存在します。
「宝蔵」とは?
宝蔵とは、昔の偉い人たちが使っていた貴重な物などを保管しておくためのものです。
この宝蔵には、楠木正成の息子である楠木正行の残した鏃の文字があります。
鏃とは、刃物の武器の一種です。
これから戦いに挑む、正行の最期の文字
この文字には、
「これから俺は戦って、死にに行くのだ」
という内容が書かれ、正行の強い意志が感じられます。
「四条畷の戦い」で敗れた正行
時代は、後醍醐天皇が「建武の新政」に失敗し、足利尊氏の勢いがつき、楠木正成が神戸の湊川で戦死したあとでした(湊川の戦い:1336年)。
父亡き後、息子の正行が足利尊氏の軍と戦ったのが、大阪府四条畷市にて1348年に行われた「四条畷の戦い」になります。
四条畷とは、大阪府の北東にある地域です。
また四条畷は、楠木正行が「いざ、戦うぞ」と出陣した場所になります。
この四条畷において、正行が足利尊氏軍の高師直と戦って、残念ながら無念にも負けてしまいました。
「四条畷の戦い」は、鉄道唱歌 関西・参宮・南海編 第4番・第5番でも歌われています。
「四条畷に仰ぎ見る
小楠公の宮とごろ
ながれも清き菊水の
旗風いまも香らせて」
小楠公とは、ここでは息子の正行になります。
対して、大楠公とは、父の楠木正成のことになります。
「宮どころ」とは、ここでは四条畷神社のことをいいます。
菊水とは、楠木家の旗にかかげる紋章・シンボルのことをいいます。
さらに詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

桜井の別れ
「心の花も桜井の 父の遺訓を身にしめて
引きは返さぬ武士の
戦死の跡はこの土地よ」
「桜井」とは、大阪府の北東の、東海道線・島本駅(大阪府三島郡島本町桜井)がある場所です。
父の正成が、神戸の湊川へと、最期を覚悟して、足利尊氏軍と戦おうと向かおうとしていたときでした。
そのとき、息子・正行の「引き留め」を拒否して、
「お前はここに残れ。そして母上を大事にするのだぞ」
と遺言を残して、涙ながらに別れた場所です。
この別れた出来事を、「桜井の別れ」といいます。
詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

湊川で敗れた父・楠木正成
このあと、父・正成は神戸の湊川で戦って敗れ、
と言い残して、亡くなったのでした。
これは鉄道唱歌 東海道編 第64番でも歌われています。
詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

如意輪寺に残る、鏃の文字の跡
残された楠木正行は先述の通り、(四条畷へ向かう)出陣の前に、吉野の如意輪寺において
「俺はこれから戦って、死にに行くのだ」
という意思を、宝蔵の壁に鏃で文字を彫りつけたのです。
作者が訪れたときは、夕暮れ時だった?
歌詞の内容から察するに、鉄道唱歌の旅のときに作者の大和田建樹さんが訪れたこの時間帯は、恐らく夕暮れ時だったのではないかと察しがつきます。
鳴き声よりもさらに切ないのは、
如意輪寺の宝蔵に、
残る鏃の文字の跡なのだ。
というわけです。なんだか、切ない歌詞ですよね。
和歌山県の高野山のときも、どことなく秋のもの寂しい雰囲気がありましたが、吉野の場合も、どことなく切ない雰囲気の歌詞ですよね。
浮き世からちょっと離れ、ホッとする吉野山
私(筆者)も吉野に初めて行ったときは、山深くもの静かなこの場所で、
- 騒がしい世間(つまり、浮き世・憂き世)
- 普段の日常
を離れて、少しホッとできたりリラックスできたような気がしました。

吉野の山々(奈良県)
ここまでの「高野山」「吉野」までの行程において感慨深くなった後は、いよいよ再び列車(和歌山線)に乗り、粉河駅より和歌山方面に向かってゆきます!
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