鉄道唱歌 関西編 第54番 和歌山城を散策 紀州藩と、紀州徳川家の歴史 

鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の歌詞(和歌山城、紀州徳川家)・観光・歴史について、わかりやすく解説しています!

和歌山城より(画像はレタッチ加工をAIで施している部分があります)

和歌山城より(和歌山県和歌山市)(画像はレタッチ加工をAIで施している部分があります)

↓まずは原文から!

みかへるあとに立ちのこる
城の天守の白壁しらかべ
しげれる松のの間より
いつまでわれを送るらん

さらに読みやすく!

みかえるあとに 立ちのこる
城の天守の 白壁しらかべ
しげれる松の の間より
いつまでわれを 送るらん

さあ、歌ってみよう!

♪みかえるあーとに たちのこるー
♪しろのてんしゅの しらかべはー
♪しげれるまーつの このまよりー
♪いつまでわれをー おくるらんー
※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。

​現代語訳のまとめ(和歌山城)

まずは、現代語訳から確認してゆきましょう。

  1. 振り返ると、後ろに立ち残っているのは、
  2. 和歌山城天守閣と美しい白壁である。
  3. ​その白壁は、生い茂る松の木の隙間から、
  4. どこまでも続く旅路を行く私を、いつまでも見送ってくれているような気がしてならない。

今回は、和歌山城の話題

今回は「和歌山城」についての話題になります。

和歌山城(和歌山県和歌山市)

和歌山城(和歌山県和歌山市)

紀州藩の藩庁・和歌山城

和歌山城は、紀州藩藩庁はんちょうがおかれた場所です。今でいう県庁のようなものですね。

紀州藩きしゅうはんは、現代の和歌山県(和歌山市)の原型となる藩です。

江戸時代には「県」の代わりに「はん」というエリア分けがなされており、その藩の数は約300もありました。
現代の都道府県が47なので、「藩」はより細かく小さいエリア分けだったといえます。
つまり、”一つの県”に”複数の藩”があったと思ってもらってよいでしょう。

江戸時代初期は、浅野氏の支配だった

紀州藩は、江戸時代の当初は浅野氏あさのしという、後に現代の中国地方を治めることになる一族が仕切っていました。

広島藩・福島正則が、勝手な城バージョンアップにより転封

しかし、1619年に広島藩(現代の広島県)の福島正則ふくしままさのりという大名が幕府に無断で勝手に城の改修・バージョンアップをさせてしまい、徳川幕府不信感を買ってしまい、長野の川中島かわなかじまに飛ばされてしまいました。

当時の”武士の法律”ともいえる「武家諸法度ぶけしょはっと」では、幕府の許可を得ずに城の勝手な改修(バージョンアップ)をすることは禁止されていました。
理由は、城を下手に増強されて勝手に軍事力をつけられると、幕府に反逆する恐れがあり脅威になるからです。

広島藩の福島正則はこれに違反したため、広島から長野の川中島かわなかじまへ(石高を大きく減らされて)強制異動(転封てんぽう/・減封げんぽう/)という措置を受けました。

本人はただ雨漏りの修理をしただけのつもりだったらしいのですが、虚しくも幕府からは理解を得られなかったようです。

​「見せしめ」という側面

当時の徳川幕府は、かつての豊臣秀吉と仲が良かった、いわゆる豊臣家恩顧とよとみけおんこの有力大名たちを、いかに反逆しないように制御するかに苦心していました。

そのため、福島さんが広島から長野に飛ばされてしまったのは、​単に「城の修理」が問題だったというよりは、豊臣秀吉にゆかりの深い有力大名を何としても勢力を削ぎ落としたいと考えていたしていた江戸幕府の意図があったとも言われていますね。
当時の世の中が、戦争の時代から、法律によって管理される「法治ほうちの時代」へと移り変わっていく様子が、この事件からよく伝わってきます。

すなわち、この一件は

  • 「ルールを破れば、たとえ名将であっても厳しく罰する

という、幕府の権力を全国に見せつける絶好の機会だったともいえます。

和歌山の浅野氏が、広島へ

そこで新しい藩士として、和歌山の浅野氏が、広島に(石高を増やされて)異動(転封。こちらは”栄転”)となりました。

代わりに徳川頼宣が、和歌山へ 紀州徳川家のはじまり

そして和歌山へは、徳川家康の10男である徳川頼宣とくがわよりのぶが派遣されました。
これが後述する「紀州徳川家」のおこりです。
しかし、その徳川頼宣も勝手に城を改修したりして(本人は良かれと思ってやったのがやり過ぎた)、こちらも幕府の不信感を買ったりもしたようです。

徳川御三家

先述の通り、和歌山では紀州徳川家きいとくがわけという徳川家の分派、つまり系統の分かれた家系がありました。
他にも、

  • 名古屋(愛知県)には「尾張徳川家
  • 水戸(茨城県)には「水戸徳川家

がありました。

イメージとしては、徳川家康の何人もいた子を和歌山・名古屋・水戸にそれぞれ派遣して、彼らを先祖として代々(子孫に)受け継がれていったのが紀州徳川家・尾張徳川家・水戸徳川家になります。

この紀州・尾張・水戸の三つの徳川家を、「御三家ごさんけ」といいます。
特に尾張・名古屋は御三家の中でも筆頭格であり、一番石高こくだかが高かったのです。
水戸も、奥州(東北地方)から攻めてくる敵から江戸を守るための重要地とされました。

後述しますが、かつて「享保の改革きょうほうのかいかく」を行ったことで有名な、8代将軍の徳川吉宗よしむねも、紀州徳川家の出身です。

紀州藩出身の藩主が将軍になるというのは、当時の紀州の人々にとって、言葉にできないほどの名誉なことでした。
したがって、紀州には今でも「将軍を輩出した藩」としての誇りが強く根付いているのですよ!

なぜ、徳川家の分家が存在していたのか?

ではなぜ、徳川家の分家が存在していたのかというと、それは徳川家の本家の血統が、万が一途絶えたときのバックアップの意味合いがあったからです。

もし徳川家康だけの家系しかおらず、しかも嫁さんが1人で子どもが2、3人くらいしかいないとどうなるか。
もし彼らが早く亡くなってしていなくなった時に、それ以上徳川家を継ぐ者はいなくなり、徳川の系統は途絶えてしまいます

そうなると、幕府の権威やネームバリューは失墜、討幕運動が起こり江戸時代の終焉になりかねません。すると、再び戦国時代のような戦乱の世の中になってしまいます。

徳川家康には、10人の側室そくしつがいて20人の子どもがいました。
それは昔の子どもは、産まれたらすぐに亡くなる可能性があったからです。
側室」とは、複数の嫁さんのことです。いわゆる、「一夫多妻制」です。

7代将軍家継の時に、徳川秀忠からの血筋は途絶える

実際、7代将軍家継いえつぐの時に、徳川秀忠とくがわひでただからの血筋は途絶えてしまいました。

徳川秀忠とくがわひでただとは、江戸幕府の2代目将軍です。その秀忠の後、

  • 3代目将軍・家光いえみつ
  • 4代目将軍・家綱いえつな
  • 5代目将軍・綱吉つなよし
  • 6代目将軍・家宣いえのぶ
  • 7代目将軍・家継いえつぐ

は、秀忠の子孫としての血統で続いてきていました。

しかし、6代目将軍・家宣の子(養女を除く)の6人のうち、5人は生まれてすぐ1年以内に亡くなってしまいました。
そのうち唯一、5歳まで生きていた家継が7代目将軍に就任するも、残念ながら8歳で亡くなってしまいました。
そのため、これによって秀忠から続いてきた系統が途絶えてしまいました。

歴史の分岐点:家継の死

​1716年、8歳という若さで徳川家継が病死したことは、当時の幕府にとって「緊急事態」でした。

​直系の断絶

このようにして、

  • 徳川家康-徳川秀忠-徳川家光

と続いてきた将軍の血筋は、この家継ストップしてしまいました。
すなわち、後継者候補となるべき実子が将軍家に一人もいなくなったのです。

​危機管理の真価

ここでようやく、家康が準備していた「御三家」というシステムが火を噴くことになります。

  • 「本家がダメでも、分家から新しい将軍を立てる」

という事前のルールがあったおかげで、幕府は混乱することなく、紀州徳川家徳川吉宗を第8代将軍として迎えることができました。

もしこのバックアップシステムがなかったら、幕府の権威は地に落ち、大名たちの間で「次なるリーダー」の座をめぐる争いが勃発していたことでしょう。
すなわち、御三家の存在こそが、江戸幕府を長続きさせた「最大の功労者」といえるのです。

享保の改革を行った、紀州藩出身・徳川吉宗

このようにして、8代目将軍・吉宗のときから、「紀州徳川家」に変わりました。  
徳川吉宗とくがわよしむねは、その紀州徳川家の出身です。
紀州徳川家出身とはいえ、吉宗も(先述の通り)先祖をたどれば家康に行きつきます。

そのため、徳川家の権威ある血筋であることには間違いなく、徳川家の威厳は保てています。
吉宗は、先ほど述べた家康の十男であり初代紀州藩主の頼宣よりのぶの孫だからです。

江戸時代が約260年間も長く続いたのは、徳川家康がこのようにして過去の

  • 室町幕府
  • 戦国時代の数々の大名(武田信玄・織田信長・豊臣秀吉など)

たちが数代と続かなかったことを見習って、つまり反面教師にして、 

  1. この御三家をはじめとした、
  2. 数々の子孫代々続く仕組みを、
  3. 彼(家康)が生きてる間に整えた

という、非常に用意周到で頭のいい制度を作ったからですね。

「享保の改革」とは

徳川吉宗は8代将軍として就任すると、「享保の改革きょうほうのかいかく」といって、たくさんの政策を打ち出してました。

「質素倹約」「経費削減」

享保の改革」において、吉宗はまず、紀州藩のときに

  • 質素倹約
  • 経費削減

によりそれまで悪化していた藩の財政を立て直したという実績を元に、江戸幕府においてもこれらの「質素倹約」「経費削減」を実践することで、なんとか藩財政を立て直そうとしていたのでした。

当時は飢饉ききんや災害などにより、日本中どこでもお米がまともに採れず、年貢による幕府収入が下がっていたのです。

米の生産を上げる「新田開発」

それによって公務員(当時は武士)を削減したり、新田開発しんでんかいはつを行いました。

これにより、当時としては新しく進んだ技術によって田んぼを耕してゆき、より多くのお米が採れるように(そして、幕府に納めてもらうように)したのでした。

消防のルーツ「町火消し」

また、「火事と喧嘩は江戸の花」と言われたほど火事が多かった(木造家屋が主流だった)江戸に、「町火消し」という制度を置きました。
現代の消防のルーツの1つです。

ちなみに、それまでも1657年の「明暦の大火」以降も「火消し」役は存在していました。
しかしこれは、あくまで武家のみに限定されていたのでした。
なので、民衆や町にまでを対象に本格的に「火消し」が制度化されたのは、「享保の改革」が初めてです。

一定のお米を納めさせる「上米の制」と、参勤交代の半減

さらに「上米あげまいの制」を置き、全国各地の藩に対し、お米を一定の割合で納めさせることで、幕府の安定的な収入を維持させようとしました。

しかし、これだけだと大名から不満が出るため、それまで大名や藩にとって大きな負担となっていた参勤交代の期間を半減させました。

庶民の意見を聞いた「目安箱」

吉宗は、目安箱めやすばこを設けて、庶民の意見を聞きました。

そして、庶民のための病院である小石川養生所こいしかわようじょうしょを設けました。
これにより、それまで金持ちしか受けられなかった医療を、貧しい人にまで無償で提供できるようになりました。

ちなみに小石川こいしかわとは、東京都文京区ぶんきょうくの、「東京ドーム」や「小石川後楽園」などがある場所です。

一定の成果を挙げた、享保の改革 しかし・・・

このようにして、「享保の改革」は一定の成果を挙げました。
しかし、むしろ質素倹約が行き過ぎて、人々の楽しみを奪ってしまい、消費(購買)がろくに行われずに、かえって経済が困窮してしまいました。

また、凶作でなかなか作物が採れないにも関わらず、税負担も上げてしまったため、百姓一揆が頻発してしまったのでした。

和歌山からは、船で徳島もほど近くに

和歌山市駅からは、「南海和歌山港線」で和歌山港駅わかやまこうえきまで一駅です。
そのため、(日程に余裕がある場合は)和歌山港からフェリーで徳島へ寄ってみるのもアリでしょう。

徳島市については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

【徳島県】徳島市を探訪!藍や阿波踊りなどの歴史を、わかりやすく解説!
今回の話題は、徳島県徳島市です。本サイトでは、初の四国編になります!徳島市に観光に行ったときに知っておくと便利な基本的知識について、わかりやすく解説します!和歌山港から、フェリーで徳島港へ私の場合は、和歌山港からスタートしました。和歌山市駅...

歌詞の意味についても確認 和歌山城を後にする

最後に、歌詞の意味について少し触れておきます。

和歌山城の天守の白壁は
生い茂った松の木々の間より
いつまでこの私を見送るのだろう。

歌詞の「見返る跡に立ち残る」の意味がよくわかりづらいのですが、もしかしたら和歌山をこれから列車で出発というときに、ふと振り返ったときに和歌山城の天守が自分を見送っていた、という意味なのかもしれません。

当時は駅を出ていく列車の窓から、和歌山城とその天守の白壁が見えたのかもしれませんね!

和歌山城(和歌山県和歌山市)

和歌山城(和歌山県和歌山市)

次は、和歌山を出発し、大阪方面へ

おわりに:次は、いよいよ和歌山を出発し、大阪方面へ向かってゆきます!

鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の旅も、いよいよ大詰めです!

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