羽越本線・鶴岡~新発田の鉄道旅と、粟島・笹川流れなどの地理・歴史を、初心者の方にも、わかりやすく解説してゆきます!
鶴岡駅を出て、鼠ヶ関・村上方面へ
鶴岡駅(山形県鶴岡市)を出ると、羽越本線をひたすら南下してゆきます。
そして現代では県境となる鼠ヶ関より新潟県に入り、
- 村上
- 坂町
- 中条
- 新発田
を経て、白新線から、今回の旅のゴール・新潟に至ります。
奥州三大関所・鼠ヶ関(ねずがせき)を通る
鶴岡駅を南下していくと、山形県はここまでであり、徐々に新潟県との県境に入ってゆきます。
そして、奥州三大関所の1つといわれる鼠ヶ関を通ります。

歴史的な奥州三大関所の一つ・鼠ヶ関(画像はあくまでAIによるイメージです。)
奥州三大関所とは?
奥州三大関所とは、以下の三つになります。
・白河の関
・勿来の関
・鼠ヶ関
白河の関は、栃木県と福島県との県境にあり、今も昔も「東北地方への入口」として認識されている、名高い関所です。
勿来の関は、茨城県と福島県の県境にある、太平洋側の「東北地方への入口」になります。
白河の関については、以下の記事でも分かりやすく解説しているため、ご覧ください。

勿来の関については、以下の記事でも分かりやすく解説しているため、ご覧ください。

県境の位置にあることが多い、関所
関所は、やはり現代でも「県境の位置」に存在していることがよくあります。
鼠ヶ関も、現代でも山形県と新潟県の県境となっています。
かつて義経も通ったことがあるとされる、鼠ヶ関

歴史的な奥州三大関所の一つ・鼠ヶ関(画像はあくまでAIによるイメージです。)
鼠ヶ関は、かつて九郎判官と呼ばれた源義経が、兄の源頼朝と対立して、頼朝の追っ手から逃れるために、東北地方へ逃れるために通った関所でもあります。
この鼠ヶ関から東北地方に入った義経は、岩手県・平泉に本拠地を構えていた奥州藤原氏によって匿ってもらうのですが、これが頼朝にバレてしまい、義経と奥州藤原氏は滅ぼされてしまいます。
義経と平泉・奥州藤原氏については、以下の記事でも分かりやすく解説しているため、ご覧ください。

ここからは、中部地方へ
新潟県に入ると、ここからは中部地方に入ります。
つまりここからは東北地方ではなく、中部地方に入るというわけです。
海の絶景「笹川流れ」
新潟県に入り、羽越本線をさらに南下すると、窓の右側(海側)には笹川流れの景色が登場します。
笹川流れとは、新潟県村上市にある絶好の景勝地になります。
窓の右側の日本海側には、
- 鷹巣岩
- 恐竜岩
などといった、様々な特徴的な岩が登場します。
越後早川駅(新潟県村上市)は、早川寺といったお寺にちなんでいます。
新潟の日本海に浮かぶ「粟島あわしま」
日本海の向こう側には、粟島というポツリと浮かぶ島があります。
粟島は、佐渡島のやや北東に位置する、小さな島になります。
かつて蝦夷が逃れてきた、粟島
粟島の歴史については、明確な根拠が残っているわけではないのですが、たとえば以下のような伝承(=言い伝え)があります。
飛鳥時代、奈良県に拠点を置いていた大和朝廷は、蝦夷征伐を行い、阿倍比羅夫といったツワモノを東北地方や北海道に送り込みました。
大和朝廷からすると、東北地方・北海道の人々は蝦夷と呼ばれ、朝廷の言うことを聞かない者達として、征伐の対象となっていたのでした。
その大和朝廷・阿倍比羅夫らによる蝦夷平定によって、地元の東北地方・北海道などの土地を追われてきた蝦夷たちが、粟島に上陸してきて、住み着くことになったのでした。
まだ当時ほとんど何もなかった粟島の土地に、例えば田畑を耕し、家を建て、洪水や干ばつ・飢餓などに苦しめられ・・・といった具合で、初期の粟島での暮らしは決して一筋縄ではいかなかったことでしょう。
平安時代 松浦党の、粟島への進出
しかし平安時代の西暦800年代になって、九州に拠点を置く松浦党の一族が、粟島の東海岸地域へと上陸してきます。
松浦党とは?
松浦党とは、現在の長崎県佐世保市の北あたりにある、松浦市あたりで勢いづいていた武士チームのことです。
現在でも「松浦鉄道」という鉄道路線がでていますね。
松浦党が、東海岸へ住み着く
その松浦党が、先述のように元々粟島の東海岸に住んでいた蝦夷たちを、なんと西海岸へと追い払ってしまい、東海岸の地域に生活するようになりました。
粟島の東海岸は、現代でもメインの港がある、村上市や新潟市との「海のつなぎ口」のような重要な地域にあたります。
したがって、東海岸は非常に便利な土地であり、粟島に住むのなら誰もがここに住みたくなるような土地です。
そのため、後から急に入ってきた松浦さんたちが、この土地を欲しくなるという気持ちもよく分かりますね!
一方、蝦夷の人々は住みかを追われる
しかし、先に住んでいた蝦夷の皆さんたちからすれば、急に他所から入ってきた松浦氏によって土地を奪われるというのは、かなり忸怩たる思いだったでしょうね・・・。
元々は大和朝廷の手によって東北地方の地元を無理やり追放されてしまい、命からがら粟島に逃れてきて、必死の思いで粟島での生活の地盤を整えたのに、そこへ松浦氏がやってきて東海岸地域を追放されて、西海岸へ追いやられてしまったわけです。
ちなみになぜ九州の松浦党が、わざわざ新潟県の島である粟島までやってきたのかというと、日本海を北上する優れた航海術を持った水軍勢力であり、交易ルートの開拓や漁場・拠点の確保を目指して北進を続けた結果、日本海の要衝である粟島にたどり着いたという説が有力です。
松浦氏も、後から来た本保氏に住みかを追われる
しかし、その半世紀(約50年)後、今度は越前国(現代の福井県)の本保氏一族たちが、松浦氏が住んでいた粟島の東海岸へと上陸してきます。
そして、既に住んでいた松浦一族を、なんと西海岸へ追い払い、松浦氏たちは仕方なくそこで住むようになったといいます。
松浦氏からすれば「過去にやったことが、自分達もやり返された」という形になってしまったわけです。
蝦夷は、さらに北の地域へ
しかし松浦一族は、今度は西海岸で生活していた(しかもかつて自分達が追い払った)蝦夷たちを追放して、さらに北に追い払ったのでした。
これで、蝦夷は2回も追放されてしまったことになります。
かつて松浦氏に東海岸を乗っ取られ、今度は西海岸をせっかく開拓してなんとか生活基盤が整ってきたところを、再び松浦氏に乗っ取られ、北へと追いやられてしまったわけです。
ここまでくると、蝦夷さんたち、さすがに可哀想になってきますね!
やはり、東海岸の地域の方が住みやすい地域
ここまででわかることは、粟島の東海岸地域は「誰もが住みたい地域」「最も栄えた地域」であるため、歴史的に奪い合いになっていたということですね。
やがて北に追放された蝦夷たちはむなしくも絶滅してしまい、島には東海岸の本保一族と、西海岸の松浦一族のみが残ったということです。
粟島の北部地域は、ほとんど海に面した崖のようになっていて、平地が少なく、とても農業をやったり居住したりするのに適した場所とは言い難いです。
現代でも粟島の北部地域には、目立った集落はあまり存在していません。
したがって、北へ追い詰められてしまった蝦夷たちは、北部地域での生活がままならず、むなしくも絶滅の運命をたどることになってしまったのでしょう。
調べたら、粟島では今でも「松浦さん」「本保さん」という苗字の方々が多いようです。
現代では(過去の出来事にとらわれず)島内でお互いが仲良くされていることを願うばかりです。
しかし、あくまで私個人の想像にはなりますが、過去には「松浦(本保)の者と結婚してはいけない」などといった結婚差別も、恐らくですが存在したことでしょう。
昔は今よりも差別が酷かったですから、このように過去のイザコザにより、相手の家柄などが原因で近代の結婚差別につながった、といった事例は多いのです。
明治時代の1889年には「粟島浦村」が成立し、そのまま現在に至っています。
「観光地」としての粟島
「新潟県の島」といえば「佐渡島」のイメージがとても強いですが、粟島も「隠れた観光名所」のような感じで認知度が広まってきている印象があります。
近年では多くのYouTuberの方が粟島の観光動画をアップされていたり、ネットでもたくさん紹介されている影響もあってか、観光地としての知名度がどんどん増していっているイメージです。
新潟県の移住先・粟島
粟島の唯一の自治体である粟島浦村は、現在では移住にとても力を入れておられます。
やはり粟島の魅力は「自然がたっぷりあること」でしょう。
都会での暮らしであれば、遊びやお休みの過ごし方は例えば必然的に「お金のかかる趣味」になると思いますが、自然を楽しむ力があれば、お金のかからない生活が期待できます。
お金のかからない、自由なライフスタイルへ
粟島では「自然が遊びのフィールド」となるため、お金のかからない遊びがいくらでも作り出せます。
すなわち、「自分で遊びを作り出す」ことができるわけです。
完全にテレワークができる環境がある(会社に出社せずに、自宅で仕事をできる環境がある)方や、FIRE(資産を築いた上での早期リタイア)が達成できた人であれば、粟島をはじめとする自然たっぷりの地方都市への移住もよいものかもしれません。
次は、村上・新発田へ
おわりに:羽越本線の車窓から望む笹川流れの奇岩絶景や、歴史ロマンあふれる粟島の知られざる伝承など、日本海沿いには魅力が満載です。
次回は歴史情緒漂う城下町の村上、そして新発田方面へと旅を続けてゆきます!
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