村上藩・新発田藩の城下町の歴史や北限の茶どころ、米坂線との分岐から戊辰戦争の裏切りと英断のドラマまで、羽越本線沿線の見どころを徹底解説します。
新潟県村上市へ
列車は三面川を渡り、やがて、
- 村上駅(新潟県村上市)
に着きます。
かつて「村上藩」として栄えてきた
新潟県村上市は、かつて江戸時代、村上藩の拠点として栄えてきました。
村上藩は、村上市にあった武士達の拠点です。
ちなみに新潟県の県庁所在地である新潟市は、江戸時代には長岡藩の管轄でした。
つまり、「新潟藩」という藩は存在しなかった、ということに注意しましょう。
北限の「茶どころ」
村上市は、北限の「茶どころ」として知られます。
お茶は基本的に暖かい土地でしか育ちません。
静岡県のお茶は、その代表格・代表例です。
したがって、村上市がお茶の栽培の「北の限界地」ということになります。
逆にいえば、村上市より北の地域では(お茶の木にとっては)寒すぎて、基本的にはお茶は育ちにくいということです。
育てたところで、静岡や村上のお茶に勝てるわけありません…(^^;
観光都市としての、村上市
現代の村上市は、
- 瀬波温泉
- 絶景・笹川流れ
- 伝統的な町屋通り
- 先述の粟島へ向かうための航路
など、観光都市としての側面が強いといえます。
豊臣政権下では、村上氏の支配
豊臣政権下の1598年に、村上家という一族が現在の村上市にトップ・支配者として入ってきました。
しかし、江戸時代の始めに村上氏は改易(領地を没収され追放されること)されています。
その後、村上ではトップである大名が次々に入れ代わってしまいました。
つまり、村上藩のトップである大名は、江戸時代の前半はなかなか安定せずに、次々に変わっていたということですね。
江戸中期より、内藤家の支配へ
しかし江戸中期の1720年には、後に安定政権を築くことになる内藤家が村上藩に入ってきました。
内藤氏が村上藩のトップになってからは、明治時代になるまでの期間、9代・150年もの長きにわたってずっと統治してゆきました。
つまり、内藤家になってからは、村上藩の政権は安定していったということです。
坂町駅へ 米坂線との分岐駅
やがて荒川という川を渡り、山形県の米沢市から続く、
- 米坂線
との分岐駅となる、
- 坂町駅(新潟県村上市坂町)
に着きます。

坂町駅(新潟県村上市坂町)
米坂線
坂町駅から米坂線に乗り換えると、
- 小国・米沢方面
へと行きます。
米沢と坂町を結ぶ路線なので、米坂線です。
険しい「小国峠」
小国峠は、新潟県と山形県の県境をなす峠であり、とても険しいです。
米坂線もこの小国峠を越えるため、なかなか険しくて閑散とした地域を通ります。
途中にある小国町(山形県西置賜郡)は、米坂線の沿線においても特に重要な町です。
中条駅・胎内市
続いて、中条駅(新潟県胎内市)に着きます。

中条駅(新潟県胎内市)
中条駅は、胎内市の駅です。
「胎内」の由来は!?
「胎内」というとまるで「お母さんの子宮の中」のような意味になるため、なんだか凄い名前のようにも思えますが、その地名の由来には諸説あります。

「胎内」という地名には、様々な由来(諸説)があるようです(画像はあくまでAIによるイメージです。)
アイヌ語由来?
「胎内」の名称は、もしかしたらあのアイヌ語由来ではないか、とも言われています。
確かにアイヌ語由来の地名に「内(ナイ)」がつく地名は多いので、わかるような気もしますね。
アイヌ語では川のことを、
- 「内(ナイ)」
- または「別(ペッ)」
ともいい、川はアイヌ民族にとってはとても重要な存在でした。
したがって、北海道には「〜内」「〜別」という地名がとても多いです。
似た駅名「腹帯駅」

同じような意味合いを持つ駅として「腹帯駅(はらたいえき)」というものも存在(ただし画像は「はらおび」。)(画像はあくまでAIによるイメージです。)
余談ですが、
- 岩手県盛岡市
- 宮古市
を結ぶ路線である山田線にも、腹帯駅(岩手県宮古市腹帯)と呼ばれる駅があります。
まるで妊婦さんが5ヶ月になってからお腹に巻く「腹帯」を連想させる駅ですね!
新発田へ到着 かつての新発田藩の本拠地

羽越本線を進む(新潟県)
羽越本線をさらに進めると、やがて新発田駅(新潟県新発田市)に到着します。

新発田駅(新潟県新発田市)
新発田藩の拠点

どこか歴史ある風情を感じさせる、新発田の街並み(新潟県新発田市)
新潟県新発田市は、江戸時代には新発田藩の拠点として栄えました。
上杉景勝の会津移封と溝口秀勝の入封
戦国時代の終わりの1598年、それまで越後(新潟県)を支配していた上杉景勝は、福島県・会津に移封(=人事異動のようなもの)されることとなってしまいました。
その後、新発田には溝口秀勝というトップが入ってくることになりました。
関ヶ原の戦いでの軍功と新発田藩の成立
溝口秀勝は、1600年の「関ヶ原の戦い」のとき、徳川家の味方である「東軍」について戦い、越後(新潟)におもむいていました。
そして越後で発生した上杉氏(=徳川家の敵)の反乱を制圧したのです。
つまり、徳川家の敵である上杉氏を倒したというわけです。
この功績により、溝口氏は徳川家からとても高く評価されました。
これによって溝口氏は、幕府から新発田の地域を本領安堵(自国の領地であることを幕府から保証されること)され、新発田藩がここに成立することになりました。
湿地帯を豊かな穀倉地帯へ変えた新田開発
干拓と治水による農地拡大の挑戦

江戸時代の稲作の例(画像はAIによるイメージです)
しかし当初の新発田は、草が生い茂る何もない湿地帯であり、農業には適していない土地でした。
そこで新発田藩と住民たちは、干拓(海や沼の水を干上がらせて、陸地を作ること)や治水(川の水を引いてきて、田畑に水を供給すること)などに力を注ぎ、新田開発(=米の生産量を大幅に上げること)を進めていきました。
つまり、土地を次々に耕し、海や沼の水を抜いて陸地を作り、川などから水を引いてたくさんの農地を確保し、米の生産量を増大させていったわけです。

江戸時代の稲作の例(画像はAIによるイメージです)
江戸時代の人口増加と新発田の地名の由来
江戸時代は戦国時代と異なり平和な世の中となったため、平均寿命も上がり、人口爆発が起きました。
それにともなって、たくさんのお米が必要になってきます。
したがって、こうした新田開発は、江戸時代になってとても重要になっていったのでした。
こうして新しくできた田んぼが、「新発田」という地名の由来になったとする説もあります。

(画像はあくまでAIによるイメージです。)
実高40万石への大躍進と表向きの石高
その結果、新発田の地域は穀倉地帯となるまでに開発が進みました。
つまり、広大な農地として大発展していったわけですね!
その収穫高は、表向きの石高の数値を大きく上回るまでにもなっていきました。
表向きの石高は6万石でしたが、実際の内高は40万石にも達していたという説もあります。

(画像はあくまでAIによるイメージです。)
ちなみに、参勤交代のときに江戸へ全国の大名が集結した際、大名ごとのランク付け(格付け)の基準となったのは「表向き」の石高です。
この表向きの石高が高い大名の方が、江戸で優遇され良い気分(?)になることができました。
戊辰戦争、「裏切り」か「英断」か
新発田藩は、幕末の戊辰戦争においては、当初は新政府側の立場をとろうとしました。
なぜかというと、旧幕府軍は不利であり、近代的な装備を備えた新政府軍に対しては到底勝ち目のない戦いだったからです。
奥羽越列藩同盟の圧力と新政府軍への合流
奥羽越列藩同盟からの強烈な圧力
しかし、東北地方の周辺の藩が結託して結成した「奥羽越列藩同盟」からは、
「もちろんお前達も、俺たちの仲間につくよな?」
という強烈な圧力をかけられてしまい、逆らいきれずに、やむなくこの同盟に加入しました。
しかしこれは、明治新政府を敵に回し、天皇の敵である「朝敵」という扱いを受けることになります。
もちろん負けたら、ただでは済みません。
同じく旧幕府軍側だった新選組の近藤勇のように斬首されたり、また土方歳三のように壮絶な最期を遂げたりすることもあります。

土方歳三(画像はあくまでAIによるイメージです。史実とは異なる描写がある可能性がありますので、ご了承ください。)
戊辰戦争と土方歳三の最期については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

あくまで新政府軍について抗戦の道を選択(新発田藩)
藩主の人質工作と、同盟側の謀略阻止
奥羽越列藩同盟は、まずは新発田藩を自分達の仲間に引き入れて参戦させようと、謀略をめぐらせます。
つまり、新発田藩主(リーダー)の溝口直正を、人質にとろうと画策したのです。
しかしこの作戦は、新発田藩の領民・住民たちからの強い抵抗に遭ったため、なんとか阻止されることになりました。
新政府軍への合流と、長岡藩への「裏切り」
その後、新発田藩は同盟につくことはなく、あくまで当初の予定通り、新政府軍に合流して参戦することとなります。
もちろんこれは、奥羽越列藩同盟に対する「裏切り」行為です。
そして近隣の長岡藩(現在の新潟県長岡市)は同盟側についていたため、これがお隣の長岡藩に対する裏切り行為でもあったのでした。
もちろん新発田藩にとっては、この判断によって領内が戦場となることを回避できたため、「英断」でもありました。
新発田藩の判断
戦火を免れた新発田と、壊滅した長岡
その「裏切り」とも「英断」とも取れる判断の結果、官軍(明治新政府軍)のターゲットとなる予定だった新発田の地は、戦火・戦禍から守られることとなりました。
その代わり、同盟側についていた近隣の長岡藩の城下は、新政府軍によって猛攻撃を受けるターゲットにされてしまい、長岡の街は戦場となり壊滅状態に陥ってしまいました。
長岡大空襲と「不死鳥の街」としての復興
ちなみに長岡市は太平洋戦争のときにも米軍による大空襲(長岡大空襲)によって壊滅状態に陥ったのですが、その後、不死鳥(フェニックス)のように見事に復興を遂げています。
そのため、長岡市は「不死鳥の街」とも呼ばれていますね!
地域間に残された、深い遺恨と葛藤
新発田藩は、先述の「裏切り行為」から、以降は周辺地域との間に大きな遺恨を残すことにもなりました。
そのため、両地域の間には長く根深い感情を残してしまったのです。
そうなると、前回の粟島のケースと同様に、かつては長岡・新発田それぞれの出身者同士の結婚に反対が起きるなど、複雑な摩擦もあったことでしょう。
地域対立は本人の責任ではない部分で評価されてしまう面があるため、歴史の重みを感じさせられますね。
新発田からは、白新線で新潟へ
おわりに:新発田駅からは、白新線で新潟へ向かいます。
こちらは次回以降にじっくり解説しますね。
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
コメント