東北・日本海側の旅8【前編】 新潟へ到着! 白新線・新発田→新潟【わかりやすく解説】

白新線・新発田~新潟の鉄道旅と、新潟の歴史を、わかりやすく解説してゆきます!
初心者の方にも、やさしく解説してゆきます!

筆者、万代橋前より(2019年頃)(新潟県新潟市)

筆者、万代橋前より(2019年頃)(新潟県新潟市)

青森の第一回から続けてきた東北・日本海側の旅シリーズは、今回の新潟でゴールということにします。
しかし、おまけ・エキストラ編で糸魚川いといがわ大糸線おおいとせんも書いていく予定です。

新発田駅から白新線で、新潟駅へ

前回で新発田駅しばたえき(新潟県新発田市)に到着していました。
しかし、新発田駅からは白新線はくしんせんに乗り換えて、新潟駅にいがたえき(新潟県新潟市)へと向かいます。

羽越本線は、新津駅まで 新発田駅からは、白新線で

ここまで通ってきた羽越本線うえつほんせんは、新発田駅から先は、新潟駅のやや南の、

  • 新津駅にいつえき(新潟県新潟市秋葉区)

までの路線になります。
羽越本線でそのまま行くと、基本的には新津駅での乗り換えが必須になります。

そのため、新潟吉田よしだ(新潟よりもさらに西の駅です)方面へ向かうのであれば、白新線の方が便利だからです。

「白新線」の由来

ちなみに白新線はくしんせんの由来ですが、これは新潟駅のすぐ西に白山駅はくさんえきという駅があり、昔の建設当初は白山駅~新発田駅を結ぶ予定の路線だったため、「白新線」という路線名になっています。
これを知らないと、なかなか想像つきませんよね。

ちなみに白山駅は、現在は

  • 新潟駅
  • 柏崎駅かしわざきえき(新潟県柏崎市)

の区間を結ぶ、越後線えちごせんの駅になっています。

磐越西線に沿って流れる、阿賀野川

新発田駅を出て新潟方面へ向かうと、阿賀野川あがのがわという大きな川を渡ります。

阿賀野川は、はるか内陸の福島県・会津あいづ地方のかなり奥の方から流れる川であり、全国第10位の長さを持つ川です。
そして磐越西線ばんえつさいせんに沿って流れる川であり、県によって川の名前が変わります

  • 福島県阿賀川あがかわ
  • 新潟県阿賀野川あがのがわ

です。

「白鳥の湖」のある、阿賀野市

そして先述の羽越本線における、新発田~新津間には阿賀野市あがのしという自治体があります。

阿賀野市には、白鳥だらけの湖である、瓢湖ひょうこがあります。
瓢湖にはたくさんの白鳥が訪れるため、人気があります。

新潟駅に到着

ほどなくして、新潟駅にいがたえき(新潟県新潟市)に到着です。

新潟駅(新潟県新潟市)

新潟駅(新潟県新潟市)

新潟駅(新潟県新潟市)

夜の新潟駅前(新潟県新潟市)

新潟の歴史を、以前よりもさらに深掘り! 名高き新潟港は、どのようにして誕生したか

新潟の歴史において、例えば

  • 沼垂駅ぬったりえき
  • 万代橋ばんだいばし

などの基本的な知識については、以下の各記事でも解説しておりますので、ご覧ください。

【新津】鉄道唱歌 北陸編を、わかりやすく解説!
鉄道唱歌 北陸編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます! 新津(新潟)の観光・歴史などを、わかりやすく解説してゆきます!
万代橋(新潟県新潟市)

万代橋(新潟県新潟市)

今回は、新潟の歴史について、前回よりもさらに深掘りしていこうと思います。
しかし、なるべく旅行初心者の方にもなるべくわかりやすく、噛み砕いて説明していこうと思います

「新潟」の地名の由来

新潟にいがた」という地名が歴史の記録に出てくるようになるのは、戦国時代ころからようやく、という感じです。
昔の日本では今の新潟県を「新潟」とは呼んでおらず、「越後えちご」というのが基本でした。

新潟」という記載がある最も古い史料は、1520年の「越後過去名簿」という書類になります。
つまり、それ以前に書かれた歴史書においては、「新潟」という言葉がどこにも出てこないわけです。

そのため、大昔の人々によって「新潟」と呼ばれていたという根拠がどこにも無いというわけです。

戦国時代から存在していたとされる、新潟港

今では「開港五港ごこう」と呼ばれる名高き新潟港は、この戦国時代ころから存在していたものと思われます。
本当に最初期の新潟港は、同じく新潟に存在する

  • 蒲原津かんばらのつ
  • 沼垂湊ぬったりみなと

と合わせて、「三か津」と呼ばれていました。

ちなみに蒲原かんばらとは、現在の新潟駅から約500mほど北東の地域であり、沼垂ぬったりとは新潟駅のやや東の地域になります。
そして戦国時代までは、この蒲原・沼垂の方が港としてはメインだったのでした。

「津」「湊」「港」はどう違う?

ちなみに、

  • みなと
  • みなと

は、基本的にどれも同じような意味にはなります。
しかし、「津」であれば本当に大昔の、小さな舟(木で出来た舟)がそこそこ泊まっているような、まるで小さな漁村というイメージです。
そして「港」というと「本当に現代的な大きな船が泊まっているような港湾都市」みたいなイメージですかね(若干筆者の主観も混じっています)。
もちろん、現代の新潟市・新潟港は立派な港湾都市です。

新潟港の発展、既存の港の衰退

話がズレましたが、新潟津新潟港)が戦国時代に新しく出てきてからは、それまでの既存の蒲原津かんばらつは衰えてしまいました

それ以降は、新しくできた新潟津新潟港)の方が、より中心的な港となってゆきました。

戦国時代の、新潟港の権益をめぐる争い

戦国時代も後半にあたる1580年になると、新発田氏しばたしという一族が、新潟の港を占拠してしまいました。
しかし新潟といえば、越後の神様というべき存在である上杉家うえすぎけがいました。
あの「戦いの神様」とも呼ばれ、戦国時代に無敵を誇った上杉謙信けんしんが有名ですね。

そんな上杉氏が、新潟港を我が物顔で乗っ取ろうとする新発田氏のやりたい放題を、黙って見ているわけにはいきません。

ここに上杉景勝かげかつ(上杉謙信の後継者)と、新発田家との間で抗争が始まったのでした。

新発田 VS 上杉 の戦いです。

上杉の勝利、新潟港の掌握

しかし1586年になり、それまで新発田家に味方していた新潟・沼垂ぬったりの町民たちが、上杉うえすぎの側へと寝返った(味方についた)のです。
これはもしかしたら住民たちの新発田家への反発や、上杉家への尊敬の念などがあったのかもしれません。
その結果、上杉側は新潟・沼垂ぬったりの地域を再び制圧し、平和に治めることができたのでした。

一方、この戦いに敗れ、新潟津(新潟港)を失ってしまった新発田氏は、ついには翌年の1587年に滅ぼされてしまいます。
すると上杉氏にとっての邪魔者がいなくなった越後国(新潟県)は、上杉景勝かげかつによって統一されることになりました。

上杉家のその後 会津、米沢へ

まさに当時の越後・新潟県は上杉の天下だったわけです。
ただし後の1598年に豊臣秀吉の命令によって福島県・会津あいづに、石高を大きく増やされた上での栄転となります。

しかし「関ヶ原の戦い」で徳川家に逆らった罪で、江戸時代には大きく石高こくだかを減らされて山形県・米沢よねざわへと飛ばされてしまったのです。

江戸時代には、長岡藩の管轄だった新潟港

江戸時代に入ってからの新潟港は、現在の新潟県長岡市ながおかしにあたる長岡藩ながおかはんの領土・管轄下におかれるようになりました。
つまり、江戸時代の新潟県(越後国)の中心地は、新潟市ではなく長岡市だったということです。
そして長岡藩が、新潟港の管理・管轄を行っていたのでした。
新潟港を人々に使わせてあげる代わりに、料金を取って、その収入が長岡藩の利益となっていたわけです。

つまりそのビジネスモデルは、新潟港を船乗り・働く人々・荷物を載せたり下ろしたりする人々にとって満足にいくような港にするために、港のバージョンアップ・改修・修理などをしたりして、新潟港を利用する人の顧客満足度(?)を高めます。
その代わり、港の利用料金を徴収してゆき、それが新潟港を所有する長岡藩の利益となるわけです。

現代の港でも、港湾管理者が、利用する船から使用料を徴収しています。
港湾管理者が、船にとって満足できるような港を提供するために、または港の安全性を維持するために、港の整備・維持・修理・バージョンアップなどの仕事をすることの対価というわけです。

江戸時代に大量増産した、新潟の田・お米

江戸時代は、新田開発が盛んに行われていた時期でした。
それは戦国の世が終わって争いがなくなると、平均寿命が伸びて人口爆発がおきるようになり、人々(世の中)はたくさんのお米を必要とするようになってくるからです。
江戸時代にはこうした「人口増加」などの背景から、どの藩もせっせと田んぼを耕し、農地を増やし、川などから水を引っ張ってきて稲の生産量を増やしてゆきました。
こうして、越後平野えちごへいやの生産力もどんどん増加してゆきました。

日本一のお米の産地・新潟

今や新潟県は、日本一のお米の産地です。
それは「食の宝庫」ともいわれる北海道(全国第2位)すら凌いでいるのです。

北前船によって栄えてきた、新潟港

新潟港は、江戸時代に「北前船きたまえぶね」が寄って停泊する港としても、大いに賑わい、発展してくることになりました。

江戸時代の大金持ち商人であった河村瑞賢かわむらずいけんは、日本海の海のルートである北前船きたまえぶねを開拓・整備してゆきました。

北前船は「西回り航路」ともいいます。

それは、

  1. 日本海をぐるっと大回りし、
  2. 山口県・関門海峡かんもんかいきょうから瀬戸内海せとないかいに入り、
  3. 天下の台所・大坂(大阪)へと至る

というルートです。

昔は貨物列車や高速トラック等がなかったため、舟で大量の荷物を運んだ方が効率が良かったためです。
また、各地で徴収された年貢米(税金)は、こうした北前船に載せられて、大坂へと運ばれていったのでした。

日本海側屈指の港へと成長

新潟港は、北前船のルートにおける各地の港の中では、日本海側では屈指の港にまで発展するに至りました。
つまり日本海側ではトップクラスの港ということであり、多くの舟が立ち寄る場所になっていたのでした。

舟がたくさん来るということは、荷物を載せたり(下ろしたり)、舟を修理したりといった、港で働く人たちが増えることにもつながります。
また、舟人などが泊まるための宿場やお店なども増えてゆきます。こうして港町が発展してゆくというわけです。

幕末に起きた、新潟港をめぐる様々なトラブル

新潟明和騒動

江戸時代の後半にあたる1768年、長岡藩による御用金ごようきんを原因とする一揆である新潟明和騒動にいがためいわそうどうが発生します。

御用金ごようきんとは、幕府や藩が各地・住民らに対して、何らかの理由で(理由をつけて)徴収するお金のことです。
それは緊急時の対策や災害時支援など、様々な名目をつけて徴収するお金のことです。

今回の場合は、当時火災や洪水などで財政難に陥っていた長岡藩が、新潟町(今の新潟市)に対して多額の御用金を請求したことが原因でした。

不況により、「御用金」が払えず 処罰に対して反乱

当時は、新潟港にもあまり船が来てくれない(利用者が少ない)ことにより、新潟の町も不景気に陥っていたのでした。
そのため、長岡藩に対してなかなか御用金が支払えませんでした。

これに対して藩は「反逆行為」だとして、新潟港の町民を処罰してしまったのです。
そして、これにより、藩に対する町民たちの反感を招いてしまい、一揆を起こされてしまったというわけです。

これはある意味、年貢を課されすぎて、百姓一揆などがおこってしまうのと一緒ですよね。
いつの時代も、理不尽な要求というのは誰にとっても受け入れられませんし、反感を招いてしまうものです。

密輸がバレて、新潟港の規制へ

江戸時代後期、新潟港では密輸みつゆが行われていたことがバレてしまい、幕府は新潟港の規制を強化することになります。
密輸みつゆとは、本来貿易してはいけないものを貿易することです。わかりやすい例が、日本の法律では許可されてない(けど外国では許可されている)物を輸入したりすること等です。

つまり、新潟港で勝手に密輸をやっちゃってしまったため、港を所有する長岡藩は、幕府の怒りと不信感を買ってしまったということです。

川越藩へ転封の危機

この不祥事がきっかけで、長岡藩は罰として当時財政的に厳しかった川越藩かわごえはん(埼玉県川越市)への転封てんぽう(左遷させること)をさせるという案が持ち上がったのでした。

しかし、前々回解説したとおり庄内藩しょうないはん猛反対にあい、実現とはなりませんでした。

「新潟上知」幕府の直轄領へ

江戸時代後期の1843年には、新潟町(現在の新潟市にあたる地域)を「幕府領」にしました。
つまり「天領」ということであり、長岡藩の管轄・所有ではなくなったということを意味します。

これを「新潟上知にいがたあげち」といいます。

理由はおそらくですが、先述の不祥事のために、幕府の長岡藩不信感が増したことにも原因があることでしょう。
当時はただでさえ、外国船が日本近海に出没していたような時期です。
世界中で船の性能が向上し、日本にも開国貿易を迫るように、外国船がたくさん接近してくるような時代に突入していました。

もし新潟港で密輸でもやらせてしまったら、外国から最新鋭の武器などを輸入されてしまい、幕府の脅威になる可能性もあったはずです。
なので幕末に、幕府新潟港を幕府の所有にしたのかもしれません。

おわりに・まとめ

今回は、戦国時代から江戸時代末期にかけて、日本海側屈指の拠点へと発展していった新潟港の歴史について学んできました。
次回は、明治から現代に至る激動の時代の中で、新潟港がどのような歩みと発展を遂げていったのかを詳しく解説していきます!

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