開港5港から上越線開通、幻の原爆投下候補地まで!明治から現代に至る新潟港と新潟市の激動の近代史を、独自の視点を交えて分かりやすく解説します。

明治時代初め頃の新潟の海付近(画像はAIによるイメージです)

明治時代の新潟港(画像はあくまでAIによるイメージです。史実とは異なる描写がある可能性がありますので、ご了承ください。)
近代の荒波を越えた新潟港と新潟市の歩み
前回は江戸時代までの新潟港の基本について学んできました。
今回は、明治以降における新潟港の歩みについて詳しく見ていきましょう。
まだご覧になっていない方は、ぜひ前回の記事もあわせてチェックしてみてくださいね!

明治時代、新潟港は「開港5港」の1つに

明治時代の新潟港(画像はあくまでAIによるイメージです。)
1858年に締結された日米修好通商条約によって、幕末に開港された「開港5港」の一つとして、新潟港は日本海側における外国人にとっての日本の玄関口の1つとなりました。
開港5港とは、
- 函館
- 横浜
- 新潟
- 神戸
- 長崎
の5つになります。

江戸時代の新潟港(画像はあくまでAIによるイメージです。)
戊辰戦争の一つ・北越戦争の舞台となり、壊滅
しかし10年後の1868年に、新政府軍と旧幕府側との争いである戊辰戦争が勃発します。
とりわけ、新潟県で起きた戊辰戦争の一部を北越戦争といいます。
ちなみに「北越」とは、越後国(新潟県)の北部、という意味です。
1868年7月の北越戦争において、新潟の町は戦場となってしまい、戦災によって市街地は焼失してボロボロの状態となってしまいました。
そんなボロボロの状態で、明治維新を迎えることとなりました。
後述のように太平洋戦争(大東亜戦争)のときは空襲の被害に遭わず、市街地が無傷の状態で終戦を迎えたのとは対照的です。
新潟県が発足
明治時代になると、1870年には越後国・長岡藩を改め「新潟県」が新たに発足します。
そして新潟町(当時)は、新潟県の県庁所在地となりました。
やがて新潟町は、1889年に新潟市となり、現代に至ります。
新潟市の憩いの場ともいえる白山公園の開設や、第四銀行といった大きな銀行が設立されてゆきました。
さらには、新潟県会(現代の県議会)の開設などが次々に行われてゆきました。
このようにして、近代的な機能を備えた(明治の新しい日本らしい)街へと進化・発展していくことになります。
新津油田の掘削、石油の出る町に
明治時代の後半になると、新津油田における、機械による掘削(地面や岩などを削って掘ること)が本格化してゆきます。
つまり機械の力を使って、石油をガッポリ掘ってやろう!ということですね。
これによって新潟県は国内でも珍しい、石油の採れる場所になります。
大正時代になると、新潟市の南部にあたる新津町は「石油の町」として栄えてゆきました。
そして日本を代表する「国内最大の油田」となり、新潟では石油産業がどんどん発達していくことになります。
しかし当時はまだまだ石炭が主流の時代であり、石油が本格的に一般的になるのは1960年代頃からはじまった「エネルギー革命」からになります。
ガソリンスタンドでお馴染みのENEOS(エネオス)も、元々は新潟県が発祥となります。
1930年代、上越線の開通 東京~新潟の交通が圧倒的便利に
昭和に入り、1931年になると、上越線が全通します。
これによって、
- 東京~新潟の所要時間が、11時間→7時間
と、大幅に短縮されることになりました。
それまでのルートは、
- 軽井沢・長野・直江津経由
の「鉄道唱歌 北陸編」で歌われているまさしくそのルートであり、当時は約11時間かかっていました。
しかし、群馬県と新潟県の間にある、上越国境となる長大トンネル(清水トンネル:全長9,702m)が開通したことにより、関東地方と新潟県が一直線で結ばれることになったのでした。
- 上:上野国(群馬県)
- 越:越後国(新潟県)
で、「上越」です。
新潟県上越市の「上越」とは意味が異なりますので、注意しましょう。
上越線の開通により、東京~新潟の移動が4時間短縮され、約7時間となったわけです。
ちなみに清水トンネルは、川端康成の小説「雪国」の有名な冒頭にある「国境の長いトンネル」のことであるとされています。
満州国との連絡拠点になった、新潟市
翌年の1932年(昭和7年)には、中国の東北部に満洲国が建国されます。
「満州国」とは?
満州国とは、前年の満州事変で、わざと「自作自演」で満州の鉄道を爆破させて、これを「中国軍の仕業だ」などと言い掛かりをつけ、それに対する「仕返し」という名目で満州を占領して、出来た国です。
まあ、めちゃくちゃな理由で勝手に造られたという国ですね。
しかしこれが日本の「自作自演」だということは国際社会からもアッサリとバレてしまったので、国際社会からの批判を受けることになります。
一応日本も、批判を避けるために、満州国のトップには中国王朝からの王様を担ぎ出してきて、いかにも中国の一部である(日本が侵略したわけではない)という体裁をとりました。
このようにして一応、建前上は「日本は侵略しておらず、中国の一部だ」として世界からの批判を免れようとしたのでしたが、誰がどう考えても満州国は日本によって占領された、傀儡(あやつり人形のこと)政権であることは明白でした。
余談:建前(タテマエ)は、日本独特の文化?
これは建前(タテマエ。英語:Tatemae)を使って表向きをごまかそうとするという、いかにも日本人らしいテクニックです(※ディスる意図はありません)。
しかし「タテマエ文化」の存在しない海外の人々からすれば、こんな小細工は残念ながら通用しないわけです。
「建前」は英語で「Tatemae」であり、つまりそれに該当する英語が無いのです。
つまり「建前」とは日本独特の文化であり、アメリカ人などが日本で生活するとこの「建前」が理解できず、とても苦労するそうです。
例えば「たくさん食べてね!」と言われると、日本人ならば「これは建前だな」と判断して、空気を読んで食べすぎるのを遠慮するわけですが、アメリカ人の子供や私(筆者)のような発達障害(ASD)の人は、この「たくさん食べてね!」を本当に真に受けてしまい、遠慮なく全部食べてしまって、後から怒られる・嫌われるというパターンです。
私(筆者)も「建前」が全く通用しないので、空気を読むことが苦手で子供の頃からどれだけ怒られたかわかりません(^^;
※一応補足しておくと、英語で「建前」はpublic stance(=表向きの立場)などの表現があり、アメリカでも(日本ほどではないものの)建前文化は存在しているようです。
昭和恐慌の中、国際的に批判を受けつつも出来た満州国
話がだいぶズレましたが、このようにして国際的な批判を浴びつつも、満州国は出来上がりました。
当時は昭和恐慌の時代であり、この恐慌を打破するためには「満州を手に入れるしかない!(満州は我が国の生命線)」というスローガンが、当時の絶望した日本国内に漂っていたのでした。
「貧すれば鈍する」という言葉があるように、人間は切羽詰まると、愚かな行動や判断をするようになるものです。
「満州国に最も近い港」だった新潟港
新潟港は、その満州国に最も近い港として機能していました。
当時は航空機がまだ充実していませんでしたから、船で外国へ行くというのが一般的だったからです。
ともあれ満州をなんとか占領した日本は、満州国を「日本の一部」としてどんどん強くしていく必要性があったので、満州との交通・輸送力をどんどん強化してゆきました。
そして先述の通り、前年に上越線が開通していたことに加え、政府は新潟~満州を結ぶ「日満航路」を開設しました。
国の命令で建設する航路なのですから、国の税金・予算がこれでもかと惜しみ無く投入されていくわけで、よほどの気合いの入れようです。
ここでもしお金(軍事費)をケチったら、戦争に負けて国が滅ぶことを意味するというような時代だったからです。
こうして新潟港は「東京から鉄道で満州に最も近い、日本海側の港」となりました。
こうして東京~新潟~満州という、一大軍事ルートが出来上がったわけです。
太平洋戦争 無傷・無人で戦争を終えた新潟市
1941年12月8日の真珠湾攻撃がきっかけで開戦した太平洋戦争(大東亜戦争)は、1942年6月のミッドウェー海戦で敗北してからは、戦局がどんどん悪化してゆきます。
そして、1944年7月にサイパン島が陥落したことが原因で、日本列島は一気にピンチになります。
それは、もしサイパン島の飛行場が米軍のものになると、B29といった大型爆撃機がサイパン島から飛べるように飛行場・滑走路が大型化し、B29が日本本土にまで飛んでこられるようになるからです。
そうなると、日本列島がB29による空襲の範囲に収まってしまうということになります。
新潟市が、原爆投下のターゲットとなった可能性
しかし新潟市は、B29による大規模空襲は、ずっと受けてきませんでした。
ところが広島・長崎に原爆が投下された後の1945年8月11日、とうとう新潟にも原子爆弾が投下される恐れが高くなっているとして、市民に対して緊急疎開(安全な田舎などに逃げること)が布告されるようになります。
というのも、当時既に広島・長崎に原爆投下されていたため、新潟市が次のターゲットになることは十分考えられたからです。
それは先述の通り、新潟市はまだ空襲も行われていない無傷の状態だったため、アメリカ軍にとっては原爆の威力を実験・検証するのにとても適していたためです。
アメリカの、原爆投下の「真の目的」とは
近隣の長岡市は既に大空襲(長岡大空襲)を受けており、街が既に壊滅状態にあったため、アメリカ軍にとって長岡市に原爆を投下する意義はほぼありませんでした。
なのでまだ大空襲を受けていなかった新潟市は、原爆投下の格好のターゲットとなる可能性があったのでした。
なぜなら、当時のアメリカにとって原爆投下は、
- 「世界に対する見せしめのため」
- 「核兵器の威力を計測・検証するため」
- 「今後の核実験の参考にするため」
などの様々な目的・思惑もあったため、既に壊滅状態にあった長岡市などの街に原爆を投下したとしても原爆の正しい破壊力が計測できず、意義が薄れてしまうというわけです。
疎開で無人となり、無傷で終戦を迎えた新潟市
なので、まだ空襲を受けていない新潟市が原爆投下のターゲットになることは、十分に考えられたのでした。
そのため、子供を含む市民たちはみんな遠くへ疎開してしまったため、新潟市街地はほとんど無人の状態となってしまいました。
しかし結局、後述の理由により原爆の投下はなんとか免れました。
そして市街地は無人に近い状態で終戦を迎えることになりました。
そして新潟市街地(街並み)も、無傷の状態で終戦を迎えたことになります。
もし日本政府が「ポツダム宣言」を受け入れずにそのまま戦争継続していたら、新潟市も原爆投下のターゲットになっていたかもしれません。
アメリカから、実際に原爆投下の候補地に挙がっていた?
ちなみにアメリカによると、実際に新潟は原爆投下の候補地の一つとしての案はあったそうです。
しかし、
- 「新潟は工業地域・小さな工場のある地域・人々が居住地域がそれぞれ互いに離れている(一点集中していない)ため、原爆投下の対象としては不適当である」
などの理由から、最終的に原爆投下の候補からは外されることになったのでした。
原爆は一点集中型の攻撃ですから、市街地がお互いに離れておらずに密集しているほど、大きな効果を発揮する、というわけです。
したがって、工業地帯と住宅地が大きく離れていた当時の新潟市街地は、原爆投下による効果は薄く、不適切だと判断されたということです。
戦後も発展を続けた、新潟市
戦後の新潟県は、田中角栄という偉人政治家が出たこともあり、
- 1982年の上越新幹線の建設
- 関越自動車道といった高速道路ができた
こともあり、東京~新潟のアクセスは格段に向上していきました。
新潟市は今や日本海側におけるとても重要な都市となっています。
田中角栄および新潟の交通の歴史については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

まとめ 歴史を知ると、観光も楽しくなる
おわりに:今回は特に歴史の話ばかりになってしまい申し訳ありませんでしたが、ここまで新潟市の歴史を振り返ってきて、私自身も新潟市の歴史についての見方がかなり変わり、かなり興味深くもなりました。
あなたの何らかの参考になれば幸いです。
今回で東北・日本海側の旅シリーズは終えたいと思いますが、エキストラ編で糸魚川・大糸線についても書いていく予定です。
今回はここまでです!
お疲れ様でした!
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