かつてより工業で栄えてきた「バラのまち」広島県福山市について、い草や畳表などに始まる工業の歴史などを、わかりやすく解説してきます!
福山市の魅力
広島県第二の都市・福山

福山駅(広島県福山市)
広島県福山市は、広島県の東側にある新幹線も停まる重要都市であり、また今回の後半で詳しく解説する通り、工業で非常に栄えてきた都市でもあります。
- もとは海だった、芦田川のまわりを中心に栄えてきた
- 潮待ちの港として、にぎわった鞆の浦
- 福山城のおひざもと
として発展してきたまちです。

福山の地を流れる主な川「芦田川」(山陽本線)(広島県)
福山市の基本的な知識ついては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

鞆の浦については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

かつては福山の北部・内陸部まで、海水が入り込んでいた
はるか昔々の福山は、いまの街の姿から想像もつかないくらい、なんと地域のほとんどが海でした。
つまり現在とは、海岸線が違っていたわけです。
すなわち、
- 江戸時代に人工的に海を埋め立てていったり、
- 堤防を作って水を干上がらせて干拓し、
- 陸地を増やしたりたりして行ったわけなので、
- 昔と現在では海岸線が異なっていて、現在は昔と比べ海が少なく、平地(陸地)が多くなった
というわけです。
かつてはもっと内陸部まで海水が入り込んでいた
また、福山市の東を流れる大きな川である芦田川の入り口は、かつて福山市のやや北の内陸部のエリアである、
- 新市町
- 府中市
のあたりまで海水が内陸部の奥深く入りこんでいたという、今と陸地やその地形が全く違う、いわゆる「穴の海」と呼ばれる海(地形)でした。
潮待ちの港・鞆の浦

福山市街地の南にある、鞆の浦(広島県福山市)
また、福山の景勝地であり広島の宮島とも引けを取らない「鞆の浦」は、
- 瀬戸内海をゆきかう船人たちにとってとても大事な場所として、
- ずっと昔から「船が潮や風を待つための港亅として栄えてきた
というわけです。
というのも、昔は潮の流れに沿って船を動かすしかなかったため、干潮と満潮つまり潮の満ち引きによる船の動きが重要だったというわけです。
すなわち、
- もしも船が逆向きに進んでしまえば、
- 船が全く進まなくなる、というリスクがあるため、
- 海の「潮の向きの待ち合わせ」をするための場所
というのが、福山の鞆の浦という場所だったというわけですね。
近世から現代にかけての福山 老中の阿部氏を輩出

福山駅からの福山城(広島県福山市)
まず、江戸時代の初めにあたる1619年に、徳川家の親戚であり幕府からの信頼も厚かった大名である水野勝成が、福山に藩を作りました。
そして、現在の福山駅の裏側に当たる場所に、福山城を築きました。
福山城は、
- 水野氏
- 松平氏
- 阿部氏
など、たくさんの殿様が入れ替わり、城下町としてにぎわいました。
特に、幕末の阿部正弘は1854年にアメリカとの開国のための条約である日米和親条約を条約を結んだ、時の老中主座です。
老中主座:数ある老中の中で、最も偉い人のことをいいます。
いわば内閣総理大臣のような存在ですね。
「バラのまち」へ(福山)

バラのまち・福山(広島県福山市)
福山の街が太平洋戦争の終わりにあたる1945年の福山大空襲によって、街の約8割が燃えてしまいました。
そのため、市民の心もすさんでしまっていたのでした。
しかしながら、戦後に街を直して復興していく中で、少しでも心を癒そうと、当時の市民の方たちがたくさんのバラを街中に植え始めたことがきっかけとなり、福山市は「ばらのまち」として知られるようになりました。
また、食用バラを育てることもさかんです。
福山が「ばらのまち」になった理由

バラのまち・福山(広島県福山市)
福山市は、なぜ「ばらのまち」と呼ばれるようになったのか。
それは、戦争の後に焼けてしまったまちに元気を取り戻そうと、住民の方たちがバラを植えたことがきっかけです。
戦後の復興、住民の「バラを植えていく」活動
また、戦争が終わった後の福山市は、まちのほとんどが焼けてしまい、市民の心も荒んでしまっていました。
そこで、住民の方たちは公園や空き地にバラを植えてゆき、少しでも心をいやそうとしたのでした。
とくに、南公園のまわりの住民が中心となり、バラの苗を植え、お世話をし続けました。
その結果、バラはとても美しく咲き、市民の心を明るくしてくれました。
「ばらのまち」としての現在の福山
いま、福山市は「ばらのまち」として日本中に有名になり、バラに関するイベントや施設もたくさんあります。
また、食べられるバラや、バラを使った商品も作られていて、これらも福山の新しい魅力となっています。
また、福山市は東近隣の岡山県倉敷市と同じように、デニムの大きな産地としても知られており、備後絣という昔からの技術を引き継いでいます。
備後絣:江戸時代から広島県福山市周辺で作られている綿織物(和服)のことをいいます。
い草・畳表と並んで、江戸時代の福山の町の貴重な収入源でした。
元々は海の底で塩分が多く、米がまともに育たなかった福山の干拓地
まず、かつて江戸時代辺りより、福山において畳の表側の生地である畳表が盛んだった理由についてみていきましょう。
従来、かつての福山に広がっていた海を埋め立ててできた陸地である干拓地においては、かつてそこは海の底だったために塩分が多く、米の生産ができなかったからでした。
干拓:海や湖を堤防で囲み、中の水を抜いて干上がらせて、陸地にすることをいます。
一般的な埋め立てとは違い、もともと海底だった場所を陸地・農地として利用します。
お米がまともに育たなかった代わりに、「い草」を育てた
というのも、米は塩分に弱く、例えば福山や倉敷の干拓地のような(かつて海の底だった)塩分の強い場所においては、お米はまともに育ってくれないというわけです。
そこで塩分にも強い、畳の原料となる「い草」が育てられるようになったのでした。
まさにピンチをチャンスに変えたようなエピソードですね。
福山藩の重要な収入源だった「畳表」
ちなみに畳表というのは、シンプルに畳の表側の黄色い部分のことを言います。
このように、畳の原料となる「い草」の場合は比較的塩分に強いため、お米の代わりの収入源として、当時の福山藩(阿部氏)により奨励されていたというわけです。
高品質な「備後表」 江戸にもお土産品として持ち帰られ・献上された
そしてこの広い干拓地において育った「い草」は、非常に質が良く、とても高いクオリティを誇っていました。
そのため、福山市で作られる「備後表」は最高級品として、全国に広く知られるようになりました。
また、古くから山陽道を行き交う多くの旅人たちにとってお土産として買っていかれたほか、参勤交代の時にも大名が江戸に献上する大きな土産品となりました。
このように、かつて元々は海の底だったという厳しい土地環境を逆手に取ったという知恵が、江戸時代から福山の町に大きな利益をもたらしてきた一大産業を生んだというわけですね!
福山の製造業
1972年ウルトラマンA第1話でも言及された、福山の街の発展ぶり
また、1972年放送の特撮番組であるウルトラマンAの第1話の冒頭のナレーションでも語られている通り(マニアックな話ですみません…あの超獣ベロクロンが出てきた話です)、福山の街は高度経済成長期以降に巨大な工業都市として著しい発展を見せてきたのでした。
1972年といえばまさに日本の高度経済成長期真っ只中であり、急速に発展した福山市における、例えば巨大な煙突や工場、さらに石油コンビナートといったミニチュアのセットは、特撮スタッフからしても「映える演出」だったんでしょうかね。
「世界一大きな」製鉄所を持つ福山市
そんな福山の街は、1つの工場としては世界で初めてとなる、鉄の生産量の合計が4億トンというとてつもないレベルに達した、世界で一番大きな製鉄所である
- 銑鋼一貫製鉄所(JFEスチール)
が存在するという、とてもスケールの大きい重工業のものを作るまちです。
福山市の製鉄所が世界一の理由
なぜ福山が世界一なのか、広い世界には福山以外にも世界一の製鉄所があってもよさそうなものですよね。
- もともと干拓などにより、福山には広い平地があった
- 福山藩の奨励により、「い草」の技術が発展した
- 江戸時代の「い草」の時に培われたノウハウが、明治時代の紡績業につながった
- 紡績業の機械の技術が、戦後の製鉄業のノウハウにつながった
大きな工場があることが、街の発展につながった
こうした工業の大発展は、高度経済成長期の福山において大きな利益を町の人々にもたらしてきました。
これにより、さらに市に入ってくる税収も大きくなってくることになり、さらに街の発展へとつながってゆきました。
平地が多いことも、工場を建てるためのアドバンテージになった
また、周辺地域の尾道市や倉敷市と比べたら、
- 福山市街地には平地もとてもとても多く、
- 工場を建てるための立地がとても多かった
ことも、福山市の工業成長を支える理由になりました。
例えば尾道市はすぐ後ろに山が迫ってますし(これが「坂の町」である尾道の景観を作った要因)、倉敷にも美観地区のような歴史的な景観を持った街並みが多いため、工場を拡大するにはどうしても限界があったわけですね。
山陰地方や高知県の工場の数も上回る 福山市
しかも、福山市の工場の数はなんと1,200と、山陰地方の全部の工場の数を超えているという、とんでもない数の工場の多さになります。
しかも福山市は高知県にある全ての工場の数の約4倍という、日本でも有数の大きさの巨大工場マンモス都市となっています。
伝統産業から生まれた近代工業
広島県福山市で工業がさかんになった理由
では、なぜここまで福山市では、こんなにも工業が盛んになったんでしょうか。
それは江戸時代から盛んだった「い草」の時から培われてきた工業のノウハウが、時代とともに形を変えて成長し、現在に至るまで生かされているからです。
すなわち、江戸時代から続く「備後絣」や「い草」(備後表)」の知識と技術が深く関わっています。
このように、福山市では昔からの伝統が今のものづくりを支えているのですね!
「い草」の知識がどのように生かされたか
福山ではかつて江戸時代よりより盛んだった、畳の原料となる「い草」を織るための機械(織機)」の技術が、時代を変えて成長・変化してゆき、現在の工業へと進化してゆきました。
やがて明治時代になると、「い草」をさらに効率よく織るための当時のハイテク機器である「自動織機」が開発されてゆきます。
機械工業への転換 江戸時代から培われてきたノウハウが生かされた
まず織機を作るためには、高度な金属加工の技術が必要です。
つまり織機を修理したり作ったりする技術が、そのまま戦後の「工作機械」や「自動車部品」の製造するための技術へとつながっていったというわけです。
それだけ福山には、昔から機械の技術に明るい人が多かったというわけです。
織機技術のデニム生産への応用
「い草」や絣を織るための技術というものは、厚手の布を織ると言った技術にも通じます。
つまり、かつての同じ技術をそのまま別のジャンルにも応用できたというわけです。
その結果、福山市は現在、近隣の倉敷市と並ぶ、日本有数のデニム生地の産地となりました。
豊田佐吉氏の発明と福山の工業
明治時代の機織り機(自動織機)の進化には、豊田佐吉氏の発明も非常に大きな影響を与えています。
明治時代に起きた「手動」から「機械」への産業革命
現在のトヨタ自動車の創業者である豊田佐吉氏が発明した「G型自動織機」などは、それまではわざわざ手で作っていた織物(すなわち、オーダーメイドで作る当時の日本の和服)を、自動で作れるようにしたという革命が起きたのでした。
そのため、大量生産が可能になり、当時の日本の繊維産業を劇的に変えました。
福山市の織物業者も、こうした最新の技術の変化や発展を取り入れってゆき、畳の原料となる「い草」や、和服である綿織物を、より効率的に生産しようと切磋琢磨したというわけです。
かつての織機の技術が、製鉄業の技術につながった
また、かつてトヨタ自動車の元祖である佐吉氏が、自動で機械で織物を、つまり 当時の日本の伝統的な和服をおるという織機の研究から始まりました。
その時の工業技術の基本が、やがてトヨタ自動車へと繋がる基礎を築いったのでした。
それと同じようにように、福山市の職人たちも、同じように「織機を作る技術」を磨いてゆきました。
そして、それがやがて、今の福山市の発展に繋がる工作機械や自動車部品づくりへと進化していくことになりました。
このように、お互いにそれぞれものづくりの歴史が似ているのも、なんだか運命的ですね!
隣り合う産地の物語と帽子の歴史
岡山県倉敷市(特に、南側の瀬戸大橋に近い児島地区)においては福山市と同じく、デニムの聖地として非常に有名ですね!
福山市と倉敷市はそれぞれ隣同士ということもあり、産業の歴史がとてもよく似ている部分がよくあるというわけですね。
また、い草や綿から派生する麦わら帽子についても、実は深い関わりがあります!
デニムの聖地・倉敷市については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

デニムの双璧「福山」と「倉敷」
この2つのエリアは、かつて「備中の綿、備後の絣」とも呼ばれ、江戸時代から綿織物が非常にさかんでした。
塩分に強い「綿花」の栽培 元々福山に存在した工業技術
福山市が「い草」を選んだのに対し、倉敷市の干拓地においては「綿」の栽培がさかんになりました。
もちろん「い草」からデニムができるわけじゃありません。
しかしながら、先ほども述べた通り、福山には元々「い草」を作る工業技術があったのでした。
そのため、他の場所から綿を仕入れてきて、まるで倉敷と同じようにデニムもつくることができるようになったというわけです。
すなわち、どちらも「お米が作れない、元々は海の底だった塩分を含んだ土地」において生き抜くために、当時の昔の人々は工芸作物を育て始めたというわけです。
繊維産業の聖地へ
倉敷市は綿から「厚手の帆布」や「学生服」、そして「デニム」へと発展しました。
一方、福山市においては絣や「い草」から、やがて世界に誇る「デニム生地」の生産地となりました。
すなわち、福山市と倉敷市は、お互いに切磋琢磨しながら、瀬戸内を世界的な繊維ベルトに成長させたという事実は素晴らしいことですね。
福山と麦わら帽子の関係
さて、埼玉県の春日部や岡山の倉敷でも有名な「麦わら帽子」についてですが、実は福山市でもかつては生産されていました!
麦わら帽子生産の歴史
福山市(特に神辺町周辺)では、裏作(つまり、お米を作らない時期に他の作物を作る副業)として、小麦の栽培がさかんでした。
しかしその小麦の大量に生産すると、麦わらという副産物が大量に出てくることになります。
これは余ったからといって捨てるのは、非常にもったいないです。
そのため、麦の大量収穫の副産物である「麦わら」を使って、帽子を編むという内職が盛んに行われていた時期があったというわけです。
春日部や倉敷との違い
麦わら帽子が特に盛んな場所として知られる埼玉県春日部市や岡山県倉敷市(特に鴨方周辺地域)においては、現在もで伝統工芸や産業としてブランド化されています。
しかしその一方で、福山市の場合は、麦わら帽子の製造技術がそのまま「帽子全般」や「繊維加工」へと形を変えって言ったため、春日部や倉敷ほどは特定の「麦わら帽子ブランド」としては目立たなくなったという背景があるわけです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
かつては海だった場所を人々の手に乗って干拓し、陸地を広げてゆき広大な平野を手に入れた福山でしたね。
そして、かつて海の底だったことによる塩分が強い土地であり、米がまともに育たないことからい草の栽培をはじめ、それが福山の名物の畳表に変化・進化しました。
そうしたい草で培ったノウハウが明治時代の紡績業につながり、そして戦後になって市民の願いとしてたくさんのバラを植えていきました。
やがてその広大な平地と歴史的に培ってきた工業のノウハウで、世界レベルの製鉄所が並ぶ工業都市になったというわけです。
今度福山を訪れる際には、こうしたことを踏まえて旅行すると、より充実したものになるかもしれませんね!
コメント