群馬県沼田市の誇るお姫様であり、また真田信之の妻でもあった小松姫について、その壮烈なエピソードをわかりやすく解説してゆきます!
沼田城を守った勇敢な女性、小松姫
群馬県の沼田城にまつわる歴史の中で、欠かせない人物が小松姫ですね!
彼女は戦国時代から江戸時代にかけて活躍した、まさに「賢妻」であり「女傑」と呼ぶにふさわしい女性です。
今回は彼女の魅力をいくつか、分かりやすく整理してお伝えしますね。
小松姫の生い立ちと結婚
小松姫(1573年〜1620年)は、群馬県沼田市にある沼田城のシンボルとも言うべき、戦国時代から江戸時代かけて活躍した女性です。
沼田城をめぐる激動の歴史と、知られざるエピソード
沼田城は、まさに戦国時代の「台風の目」のような場所でしたね!
関東・越後の防波堤●
なぜそれほどまでに多くの武将たちがこの城(沼田城)を欲しがったのか、その理由や利根川との深い関係について解説してゆきます。
上杉・武田・北条が沼田城を狙った理由
まず、戦国時代の沼田という土地は防御力も高く、また交通の便も非常に良い場所だったので、常にいろんな大名や権力者が奪い合っているような土地でした。
戦国時代の強豪中の強豪である上杉・武田・北条というこの三つの勢力にとって、沼田城は北関東(関東北部)を制圧するための重要な「鍵」となる土地にありました。
- 上杉謙信にとっては、越後(新潟)から関東へ進出するための重要な入り口でした。
- 武田信玄にとっては、上野国(群馬)を支配し、信濃(長野)との連携を強めるための拠点でした。
- 後北条氏にとっては、関東全域を支配下に置くために、どうしても手に入れておきたい北の防波堤でした。
すなわち、
と言っても過言ではなかったほど、防御面でも交通面でも何もかも適した重要な土地だったというわけです!
したがって、この沼田という土地を巡っては、
- いつの時代も土地の奪い合いが絶えず、
- (城のリーダーである)城主が、目まぐるしく何度も変わる
ような、まさに激戦地となっていました。
上野国:現在の群馬県にあたる昔の地名です。
関東の軍事的な要所として、多くの武将が争いました。
沼田城が「難攻不落」と言われた理由
河岸段丘という、自然の巨大な城壁が作る防御力
沼田城は、自然の地形を最大限に活かした「天然の要塞」となっています。
城の西側と南側は、深い崖になっています。
これは、利根川と片品川が削り取った「河岸段丘」という地形によるものになります。
河岸段丘:川の流れが地面を深く削り、階段のような段差になった地形のことをいいます。
沼田市の市街地は、まさにこの高い段丘の上という鉄壁の守りの高さにあります。
自然が作った巨大なバリア とても攻められにくい土地
したがって、この河岸段丘を登って、敵が崖の下から攻め上がってくるというのは、当時の技術では物理的にほぼ不可能だったのでした。
すなわち、守る側は少人数の兵でも、大軍を迎え撃つことができたというわけです!
まさに、自然が作り出した最強のバリアーであり、防御壁であるということですね。
利根川の舟(水運)を使った、交通の利便性の良さ
さらに、沼田という土地は利根川による水運ルートまでもが存在するという、まさにどんな権力者であっても欲しがるような交通の利便性があったというわけです。
このように、沼田という土地にはこれだけの利便性があるため、それは戦国時代からしたら時の大名からしたら、この沼田という土地は、
- 誰も欲しくなるような、まさに奪い合いに発展しそうな土地
になるというのはわかる気がしますね。
関ヶ原の戦いで真田家が「あえて二つに別れて」戦った理由
どちらが負けても、真田家が残るようにした
ちなみに1600年の関ヶ原の戦いの時に真田家が
- 東軍(兄・信之)
- 西軍(父・昌幸、弟・幸村)
という2つのチームにそれぞれ別れたのは、たとえ関ヶ原の戦いにおいてどちらが負けたとしても、真田家が江戸時代の後も生き残っていくための、とても賢い壮絶な戦略でした。
つまりこれは、関ヶ原の戦いにおいて例えどちらの真田家が勝っても、真田家の血筋と領地を後の世代に対して残していくためでした。
これを「犬伏の別れ」と呼び、家族がまさに敵と味方に別れるという苦渋の決断を下したというわけです。
小松姫は「元・家族」にも冷徹に接し、あくまで沼田城を守り抜いた
したがって、小松姫がこの時に(子供に会いたいと言ってきた)義父たちを沼田城において追い返したのも、それは単なる冷徹さではなく、あくまで真田家を守るための必死の行動だったというわけですね。
もちろん彼女も感情面・感情的には辛かったはずですが、その後にこっそり別の場所で、孫に会わせてあげるというエピソードもあり、まさしく武家の誇りを感じるエピソードです!
沼田城と利根川の水運・「エンヤードット」
また沼田市のそばを流れている利根川は防御だけでなく、物流ルートの要としても機能していました。
水運:川や海を使って、船で荷物や人を運ぶことです。
貨物列車もなかった当時 利根川による水運はとても重要だった
江戸時代、沼田から江戸へと物資を運ぶためには、利根川の船を使った水運が活用されました。
昔は長距離トラックも航空輸送もなかったため、船で大量の荷物運ぶ方が効率が良かったのでした。
「エンヤードット」という掛け声
そしてその時、みんなで一斉に船を漕ぐ時に生まれたのが「エンヤードット」という掛け声です。
つまりこれは、
- みんなで同時に、船を引き上げるとき
- みんなで同時に船を漕いで、荷物を運ぶとき
のリズムを合わせるための掛け声だったというわけです。
すなわち、これは現代で言うところの「エイサ、ホイサ」のようなものですね!
もちろんこの掛け声には、単にリズムを合わせるだけではなく、
- みんなで一緒に、一体になって船を漕いでるんだ
っていう、仲間意識を高めるための掛け声でもありました。
危険な現場における、仲間意識を高めるための掛け声でもあった
なぜここまで徹底してリズムや仲間意識を高めるのかというと、当時の川の流れは非常に急で険しく、非常に危険であり、一歩間違えると船で事故を起こしたりなどして、非常に危険な現場だったからなのでした。
こうした当時の厳しい川の流れを乗りこなす船頭さんたちによる掛け声の、力強い息遣いが聞こえてきそうです。
小松姫の強烈な個性が光る!驚きの結婚と鉄壁の守備
さて、ここからは小松姫がいかに「ただ者ではない女性」だったかがよく分かる有名なエピソードをご紹介しますね。
彼女の行動力と決断力には、現代の私たちも圧倒されてしまいます!
小松姫が夫を選んだ「逆面接」エピソード
まず1586年に彼女の結婚相手を決める時に、時の権力者である徳川家康は、彼女の旦那候補となる若い武将たちを大広間に集めました。
そこで小松姫が取った行動が、実に大胆だったのです!
並んだ男性たちに対して、超上から目線の品定めを始める
1586年、彼女は、
- 並み居る力強い武将たちの前に現れると、
- なんと一人一人の「髪の毛(髻)」を掴んで顔を上げさせ、
- 「超上から目線」の品定めを始めた
のでした。
髻:昔の男性の髪型で、頭の上で束ねた部分のことです。
武士にとって、ここを掴まれるということは非常に屈辱的なことでした
現代の婚活でこれをやってしまったら、一発で相手の男性から断られること確定ですよね…(^^;)
しかしその時の多くの武将たちは、
- たとえどれだけ恥ずかしい扱いを受けたとしても、
- (時の権力者である徳川家康の養女である)彼女のこうした無礼な振る舞いに対しても、
- 黙って耐え抜くしかなかった
というわけです。
パフォーマンス説●
真田信之だけ、唯一彼女の無礼な振る舞いに対して、堂々と振る舞った
しかし、真田信之だけは違いました!
彼は小松姫の手をパシッと扇子で叩き落とし、「無作法である!」と一喝したのでした。
その時彼女は、彼のこの「自分に屈しない強い気概」に対して惚れ込み、自ら結婚相手に選んだと言われています。
したがって、この二人はまさに「似た者夫婦」として、強い絆で結ばれることになったというわけですね!
敵となった義父・真田昌幸を追い返した「鉄壁の守備」
1600年の関ヶ原の戦いが始まる直前になって、徳川家康の敵である西軍に付くことになった義父・昌幸と弟・幸村が、孫に会うために2人で沼田城へと立ち寄りました。
しかし、ここでの小松姫の対応は、まさに「戦国女武芸者」そのものでした。
真田昌幸は「孫の顔が見たい、門を開けてくれ」と、まるで情に訴えかけるかのような作戦に出ました。
しかし、夫の信之が不在であるという留守を預かっていた小松姫は、決してそれには騙されるということはありませんでした。
彼女はなんと、フル装備の武装姿で、城門の上に現れたのです!
門を開けることは、断じてまかり成りません!」
と凛とした声で拒絶したのでした。
すなわち、この時の彼女は「情」よりも、「城を守るという責任」を最優先したというわけです。
したがって、稀代の策士として知られている真田昌幸ですらも、
と感心して、引き返したと伝えられています。
厳しさの裏にある「優しさ」
しかしながら、このように門を閉ざしたままでは決して終わらないのが、小松姫の素敵なところです。
彼女はその後密かに城下の寺(正覚寺)に使いを出し、そこで義父たちと孫を対面させるという場を設けました。
すなわち、彼女は公の場ではあくまで「敵」として厳しく接しつつ、私的な場では「家族」としての情けをかけたというです。
この絶妙なバランス感覚こそ、彼女が「賢妻」として語り継がれる最大の理由ですね!
病気療養 群馬県の草津温泉へ向かう途中、鴻巣でなくなる
晩年の1620年頃の小松姫は体調を崩してしまい、病気療養のために草津温泉(群馬県)へと向かっていました。
草津温泉:群馬県にある日本を代表するとても有名な温泉です。
強酸性の泉質が特徴で、昔から様々な病気・万病に効く温泉であると言われてきました。
現代でもそうですが、昔は特に医学が発達しなかったので、温泉による病気療養(これは湯治といいます)はとても重要視されていました。
当時、彼女は江戸にいましたが、体調を崩してしまったのでした。
そこで、名湯として知られる草津での湯治を目指して旅に出ました。
湯治:温泉に入って病気や怪我の治療をすることをいいます。
昔は医学が今ほど発達していなかったため、病気を治すためには今よりもずっと温泉の力を信じて大切にしていました。
しかし、現在のように北陸新幹線なや関越自動車道などですぐに着くわけではないので、中山道と呼ばれる幕府が用意した道で、何日もかけて馬または徒歩で向かうしかなかったのでした。
現在では鉄道や高速道路などで日帰り旅行もできそうなものですが、当時はもう何日もかけて行くような、まさに命がけの「旅」ともいえるようなものでした。
こうして江戸を出発した小松姫は、残念ながらその道中の武蔵国すなわち現在の埼玉県の大宮のやや北西・群馬県側にある鴻巣市において、ついに力尽きて亡くなってしまいました。
病を患っていて 既に体力が落ちていた彼女にとっては、治りたいという一心のみで草津温泉を目指したのかもしれません。
しかし、残念ながら途中の埼玉県の真ん中あたりの地(鴻巣の地)で力尽きてしまったというわけです。
最愛の夫である真田信之は、彼女の死を深く悲しみました。
「我が家から光が消えた」と嘆いたという話も残っています。
したがって、彼女が目指した草津温泉への旅は、家族にとっても非常に切ない結末となってしまったというわけです。
愛する人のために最後まで歩みを進めようとした姿に、心打たれますね!
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