紀勢本線のその壮烈な歴史(例:雨の多い紀伊半島や、その地形との戦いなど)について、わかりやすく解説して行きます!
紀勢本線の魅力を紐解く

紀勢本線からの景色(和歌山県)
日本一の半島である紀伊半島をぐるりと一周する紀勢本線は、三重県の亀山駅から和歌山県を経て、和歌山市の和歌山市駅までを結ぶ、紀伊半島をぐるりと巡る壮大な路線ですね!
紀勢本線の車窓から見える太平洋の絶景には、思わずため息が出てしまいますね。
地理:本州の「端っこ」を攻める

本州最南端の地・潮岬(和歌山県東牟婁郡串本町)
この紀勢本線という果てしなくとてつもなく長い路線の地理的な一番のポイントは、なんといっても紀伊半島の最南端(いや、それどころか本州の最南端)の地点である「潮岬」の近くを通ることです。

本州最南端の地・潮岬(和歌山県東牟婁郡串本町)
潮岬については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

本州最南端の駅
紀伊半島の南端にする串本駅は、本州で最も南に位置する駅として有名です。
近くには本州最南端の地である潮岬があり、かつて明治時代にトルコのエルトゥールル号が遭難した場所としても知られます。
海と山のせめぎ合い

山が海に飛び出しているかのような、険しい崖の海岸線の多い紀伊半島(画像はAIによるイメージです)
また、紀伊半島の多くは険しい山が海にすぐ迫っているという、とても急な崖が多い地形になっています。
そのため、そういった崖を避けるためにトンネルと橋梁が連続するという、とてもダイナミックな風景が楽しめます。
橋梁:川や海、谷などの上に架けられた、列車が通るための橋のことです。
紀伊半島の険しい地形の成りたちについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

紀伊半島の最南端部分に当たる橋杭岩は、とても衝撃的でしょう。

江戸時代の橋杭岩のイメージ(画像はAIによるイメージです)
紀勢本線:全通まで70年かかった「難工事」の歴史

紀勢本線の新宮付近の海の景色(和歌山県)
この路線が一本に繋がったのは、戦後の1959年のことです。
それまで長い間、東側と西側でバラバラに建設が進められていました。
つまり、紀勢本線の線路は一度に全部作ったわけではなく、両端から線路を徐々に伸ばしていったというイメージになります。
最後の難所「熊野市〜尾鷲」間
この「熊野市〜尾鷲」の区間は、かつて「矢ノ川峠」という険しい山を越える必要がありました。
大正から昭和初期にかけて、紀勢本線がまだ全線開通していなかった頃、この険しい矢ノ川峠が、三重県(尾鷲)と和歌山・熊野側を阻む最大の難関・難所として立ちはだかっていました。
そのため、昔はあまりの険しさに、一時は鉄道を諦めてバスで連絡していた時期もあったほどです!
トンネルだらけの要塞
紀勢本線の建設には、線路が(地震や大雨などが起きると)すぐに沈んでしまうような柔らかい地盤や、急峻な崖に阻まれてしまうという区間が多かったのでした。
そのため、たとえわずかな短い区間に対してでも無数のトンネルを掘る必要がありました。
したがって、紀勢本線の工事には工事費も時間も膨大にかかり、多くの作業員の方々が命がけで挑んできたという歴史があります。
紀伊半島の雨雲が非常に溜まりやすい地形(紀勢本線)
年間で、東京の3倍の雨が降る土地
紀伊半島のこの地域は、日本有数の豪雨地帯です。
簡単に言うと、東京都に年間で降り注ぐ量(1,500mm)の3倍の雨(4,000mm)が、この紀伊半島に対して降り注ぐわけです。
したがって、東京の人が「3年間かけて経験する雨の量」が、ここではたったの1年で全部降ってしまうというわけですね!
東京の「数ヶ月分の雨」がたった1日で降る、尾鷲
特に、紀伊半島の東側に当たる三重県尾鷲市のあたりは、東京都の数ヶ月分の雨が、たった1日で尾鷲に降り注ぐほどすごい雨になります。
すなわち、目の前を巨大な雨水という壁が覆い尽くし、数メートル先の視界ですら見えないぐらいの大雨が降るわけです。

険しい紀伊山地(画像AIによるイメージです)
中央構造線という日本最大級の断層がもたらした険しくて非常に高い山に囲まれているという、独特の地形となっています。
そのため、雨雲が非常にたまりやすい地形になっているため、日本有数の豪雨地帯になります。
大雨など自然の脅威との戦い
紀勢本線では、歴史的にこうした相次ぐ豪雨のために、
- せっかく作った線路や路盤が、
- 台風や相次ぐ大雨などによる土砂崩れで何度も流され、
- その度に線路を作り直す
という、まるで自然との根競べのような状態でした。
路盤:線路のレールや枕木を支えるための、土台となる地面のこと。
ここが雨でドロドロに緩んでしまうと、線路が歪んで危険な状態になってしまいます。
大雨・豪雨との戦い(紀勢本線の歴史)
例えば、JR九州も毎年のように豪雨に悩まされては線路が流されてしまい、不通区間が多いエリアとなっています。
しかし、紀伊半島の紀勢本線も、それに負けじと劣らずの豪雨に悩まされています。
紀伊半島には崖っぷちのような地形が多いため、降った雨がまるでゴロゴロとエグいくらいにく地面を削るように流れてきます。
そうなると、線路は一気に大量の雨水に飲み込まれやすくなります。
崖のような鋭い険しい山々が多く、土砂崩れも起きやすい地形
また、紀伊半島はその他の地域と比べても激しい雨の降り方をするため、土砂崩れも起きやすく、それによって線路が飲み込まれたりするわけです。
山に降った大量の雨は、手当たり次第にその辺の川へと流れ込みます。
そうなると川も増水してしまいますよね。
紀勢本線は橋を渡る区間が多いですが、その大雨のせいで橋が飲み込まれてしまったという事例も、過去に多く存在しています。
現代では、雨の量が一定数を超えると安全に列車が止められるセンサーを用意するなどして、鉄道会社では安全に務めています。
命がけで鉄道を繋げた「3つの大きな理由」
これほどまでの苦労をして紀勢本線を繋げた背景には、当時の日本の
という切実な事情がありました。
その道のりを青春18きっぷで攻略しようとするのは、現代の鉄道ファンにとっても「最難関」の一つと言える挑戦ですね!
そもそも当時は、「鉄道で紀伊半島を一周すること」自体に価値があった
まだ自動車が普及し始めたかぐらいの時、すなわち道路網(自動車が通るための道路)が未発達だった時代、
- 紀伊半島を一周することを計画される鉄道
には、国を挙げた期待が背負わされていました。

江戸時代、まだ車も鉄道も無かった頃の険しい紀伊半島の旅・熊野古道(画像はAIによるイメージです)
本州の南端にあり、険しい山も多く、まるで「秘境」のような場所だった 紀伊半島
というのも、紀伊半島の南側(尾鷲や熊野など)は、険しすぎる山と海に阻まれた地形により、まさに日本の「秘境」のような場所でした。
そこを一周の鉄路で結ぶことは、
- 古くから多くの人々によって聖地とされ、(険しい山岳地帯を通ってまで)多くの人が参拝の旅へとやってきた熊野三山へのアクセスを飛躍的に高め、
- さらに、孤立していた地域の産業(木材や水産物)を全国へと運び出す
ための、まさに「命綱のようなルート」になることを目標にかがけていたでした。
紀伊半島の旅の歴史については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

「陸の孤島」からの脱却と、産業振興のため

かつての東紀州や南紀エリアは、海側つまり船からしでかアクセスできないという、「陸の孤島」というような状態でした。
陸の孤島:交通の便が非常に悪く、まるで周りから切り離されたようになっている場所のことを言います。
鉄道ができたことで、紀州名物も各地 へ運びやすくなった
こうした交通事情の悪さから、当時は紀州産の
- 紀伊半島でガッポリ取れる豊かな木材(和歌山産や三重産の杉・檜など)。※
- 黒潮がもたらす新鮮な海産物
といった「紀州名物」を全国各地へと素早く運ぶためにも、
- 一度に、たくさんの荷物を大量輸送できる鉄道
は、まさに紀伊半島で働いて生活する人たちにとっては不可欠な「生命線」だったというわけです。
※昔、多くの建物に使われていた木材として貴重な木がたくさん多いことは、紀伊国という地名の由来になってます。
つまり「木の国」→「紀の国」となったわけです。
紀伊半島をうるおすのに不可欠な「木材」「魚介類」
それまでは近隣の地域に売るか、あるいは命がけで船に乗せて運ぶしかなかったため、鉄道ができたことで全国各地に「販路が拡大」したことは、地元の人にとっては大きなありがたい利益をもたらすことになりました。
あと、黒潮という「魚の宝庫」に恵まれた紀伊半島へ移住すればほぼ必ず大量のマグロが採れるわけなので(特に那智勝浦あたり)、
- 「(紀伊半島へ移住すれば)家族を養えるどころか、むしろ大金持ちになれる」
といった評判が広まり、かつて多くの漁師たちが紀伊半島に移住したことがありました。
戦前における、国防と兵站の確保のため
戦前から、当時の紀伊半島は太平洋に面した重要な防衛拠点でした。
兵站:戦場において、食料や武器、燃料などの物資を補給し、届けるための活動のことをいいます。
こうしたことから、もし海上輸送が海外から攻撃された場合であっても、
- もし紀伊半島を一周できる線路があれば、
- 軍事物資や、戦闘に必要な人員を内陸から、確実に輸送できる
というメリットがあったのでした。
そのため、紀勢本線に求められた役割は、軍事・戦略上の目的も強かったというわけです。
「紀伊半島(むしろ日本)を一周する鉄道路線」の価値
また昔は、日本を一周するような主要な幹線ネットワーク(ここでは鉄道)を完成させることは、当時の国のプライドでもあったのでした。
つまり、鉄道で日本中に線路をめぐらせることは、当時の日本にとっても「夢」であり、「目標」でもあったというわけです。
したがって、紀勢本線はたとえどんなに崖が険しくても、またトンネルだらけになったとしても、「繋ぐこと自体」に巨大な価値がありました。
房総半島も紀伊半島と似ている
千葉県の銚子も、黒潮の最前線
千葉県の銚子も、たくさんのお魚が採れる場所であり、また東京といった関東圏の販売マーケットが近いため、かつて多くの漁師たちが「ここに移住すれば儲かる」といって多く移住したたような時期がありました。
千葉県銚子市については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

千葉県の「勝浦」は、やはり 那智勝浦の漁師たちが移住してきたからか?
千葉県の勝浦は、この紀伊半島の漁師の皆さん達が、房総半島に対してお魚が大量に出るという一攫千金を求めて移住してきた時に、
という風に思ったため、地元・那智勝浦のプライドと誇りをかけて「勝浦」という人に名付けたという、そんな説があります。
千葉県勝浦市については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

外房線のありがたさ
そんな千葉県・勝浦の漁師さんたちにとって、外房線という鉄道の開通は本当にありがたいものでした。
鉄道がない時代は馬などで運ぶしかありませんでしたが、主なお客さんの多い都市圏まで運ぼうと思ったら、長い時間をかけて運んでいる間に魚の鮮度が落ちてしまって、腐ってマズくなってしまい、値段が下がってしまいます。
しかし、鉄道ができたことによって鮮度を保ったまま主な販売マーケットである都市圏にまで運ぶことができるようになったため、漁師の皆さんにとっても鉄道の開通は本当にありがたいものでした。
日本一大きな紀伊半島 普通列車だけでは到底無理ゲー

紀勢本線からの紀伊半島の海(和歌山県)
紀伊半島は日本一大きな半島なので、
- 特急列車なしで乗る
- すなわち青春18きっぷだけ・普通列車だけで紀伊半島1周する
というのは、時間的にも体力的にもかなり厳しいでしょう。
そのため、観光などしている余裕などほとんどなく、ほぼ乗り鉄状態になってしまうかもしれませんね。
歴史:紀勢本線を一つにつなげるための「執念」
開通したのは、鉄道の歴史の中でも比較的新しい「戦後」
先ほども少し述べたと思いますが、紀勢本線が全線開通したのは、1959年(昭和34年)と、実は戦後のことになります。
これは、明治時代の1872年にその歴史が始まった日本の鉄道の歴史としては、比較的遅い時期に開通した部類の鉄道路線になります。
それまでは、険しい地形が壁となり、なかなか一つにつながりませんでした。
最後に繋がったミッシングリンク 三木里駅から新鹿駅
やがて最後に残っていた区間であり、ミッシングリンクとも言える
- 三木里駅(三重県尾鷲市三木里町)
- 新鹿駅(三重県熊野市新鹿町)
の区間が最後に開通し、ようやく紀伊半島を一周する形が完成しました。
ちなみにミッシングリンクとは、いわゆる途切れている区間のことをいいます。
ここでは、紀勢本線の建設途中において鉄道網の中で最後までつながっていなかった未開通区間のことをいいます。
空転を起こしてしまうメカニズム
かつては急勾配を克服するために、力強い蒸気機関車が活躍していました。
ちなみに急勾配というのは、シンプルに 急な坂道のことであり、坂道の傾きが非常に急なことを言います。
鉄道は鉄の車輪を使っているため、レールとの摩擦の強さがあまり良くなく、このような急な坂を登るのがとても苦手です。
このように、車輪がレールの上でが滑ってしまうという、いわゆる空転という現象を起こしてしまうわけです。
列車が急勾配で「空転」を起こすとどうなるか?
鉄道にとって「坂道」と「水(雨)」は最大の天敵です。
もし、紀伊半島の急勾配で列車の車輪が空転してしまうと、以下のような事態が起こります。
空転(くうてん)とは?
空転とは、エンジンの力に対して、車輪とレールの摩擦(グリップ力)が足りず、車輪がその場でクルクル回ってしまうことを言います。
この空転は、雨の日や落ち葉が多い時期に起きやすくなります。
坂を登れず立ち往生 レールや車輪が削れ、熱を持ってしまう
車輪が空回りしてしまい推進力が得られなくなると、列車はそれ以上前に進めなくなってしまいます。
最悪の場合、重力に負けてしまい、坂をゆっくり後退してしまうというリスクすらあります。
また、鉄の車輪が鉄のレールの上で高速回転してしまうため、凄まじい摩擦熱が発生してしまいます。
これにより、レールが凹んでしまったり(傷ついたり)、あるいは車輪の表面が変質したりして、設備を傷めてしまうことになります。
緊急停止と「砂撒き」
また、もしも空転を検知すると、列車は自動的にパワーを絞ったり、ブレーキをかけたりします。
運転士さんは、例えば車輪とレールの間に対して「砂」を撒いて摩擦を増やし、なんとか車輪をレールに食い付かせようと奮闘することもあります。
その他、紀勢本線に関する面白い話題
紀伊半島の名所と「パンダくろしお」
パンダと不思議な境界線
紀伊半島を走破する紀勢本線は、乗るだけでワクワクするような、ユニークなトピックもたくさんあります。
パンダだらけの特急
和歌山県・紀伊半島の西側にある白浜駅の近くにあるアドベンチャーワールドにちなんで、車両がパンダのデザインになった「パンダくろしお」が走っています。
車内の座席カバーまでパンダなのは、本当に可愛らしいですよね!
古くから「湯治」で重宝されてきた白浜温泉
白浜温泉はかつて「湯崎」とも呼ばれ、歴史的に奈良・京都の朝廷からも天皇や貴族の方々が湯治(つまりお湯の力を使って病を治すこと)に来られた歴史があります。
まだ医学が現在ほど発展していなかった時代、昔の紀伊半島の旅は険しいものでしたが、それでも「ここへ来れば病が治る」と多くの人々に信じられ、「無理をしてでも来るほどの価値がある場所」という歴史があったのでした。
また、白浜温泉はザ・ドリフターズ(ドリフ)の楽曲である「いい湯だな」でも歌われました。
JR西日本とJR東海の境界線となる「新宮駅」(紀勢本線)
同じ紀勢本線でも、新宮駅を境に列車の色も、それまでの列車の運行の雰囲気もガラリと変わります。
- 新宮駅より北側では、JR東海の運営であり、駅名標がオレンジを基調としたたものになります。
- 新宮駅より南側では、JR西日本の運営になり、駅名標が青色などを基調としたものになります。
したがって、一つの路線なのに二つの異なる性格を楽しめる、珍しい路線といえます。
おわりに・まとめ
いかがだったでしょうか。
紀伊半島の豊かな自然と、それを克服した先人たちの努力が詰まった紀勢本線。
あの険しい山岳地帯に、あえて鉄路を通そうとした先人たちの情熱には、本当に頭が下がります。
今でも特急「南紀」や「くろしお」が力強く坂を登っていく姿を見ると、胸が熱くなりますね!
いつか、のんびりと各駅停車の旅に出てみるのも素敵だと思いませんか?
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