旧国鉄・胆振線(いぶりせん)の歴史について、鉱山開発から1986年の廃止まで、わかりやすく解説してゆきます!

蝦夷富士・羊蹄山をバックに走る胆振線(画像はあくまでAIによるイメージです。実際の景色・車両等ではありませんので、ご了承ください。)
胆振線の歴史と、廃線への軌跡とは
かつて鉱山開発と木材輸送を担った路線

旧国鉄・胆振線のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
胆振線は、かつて北海道の(伊達市などを中心とする)胆振地方から(倶知安やニセコなどを中心とする)後志地方にかけて、鉱山開発や木材輸送を主な目的として建設された路線です。
現在では残念ながら廃止されています。
今回はそんな胆振線について解説していきます。
そもそも:胆振地方(いぶりちほう)とは?
ちなみに胆振地方とは、わかりやすく言えば
- 現在でも胆振総合振興局の所在地であり、胆振地方の中心である室蘭市
- 登別温泉で有名な登別市
- さらには洞爺湖や伊達市など
の様々な名所などがある、北海道の南側の海岸のエリアのことですね。
- 胆振総合振興局:室蘭市に置かれている、室蘭市を中心とした胆振エリア全体をまとめる中央の役所のような存在です。
- 振興局:広大な北海道を14の地域に分けて、サポートを行う行政窓口のことです。
北海道は広すぎるため、札幌市だけでは全ての道内の面倒を見きれないため、このような振興局が置かれているわけです。
胆振地方は太平洋側に面しているため、冬でも厳しい極寒にはなりにくく、沿岸部では真冬でも雪がほとんど積もらない年もあるほど、比較的温暖な気候として知られています。
また、胆振線はかつて蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山の麓を優雅に走っていた路線でもあります。

蝦夷富士・羊蹄山(画像はあくまでAIによるイメージです。)
胆振線が結んだ、後志地方の倶知安とニセコ
ちなみに、
- 当時の胆振線のゴールとなる、羊蹄山の麓に広がる街である倶知安町
- そこを拠点とするスキーの名所である、ニセコの山々
は、こちらは胆振地方ではなく、後志地方に該当します。

ニセコアンヌプリと羊蹄山からなる、後志地方のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。実際の地形とは異なっている箇所がありますのでご了承ください)
私鉄から国鉄へと受け継がれた胆振線の歩み
そんなかつての胆振線は、元々は大正時代終わりの1919年頃から、地元の民間有力者たちがお金を出し合って作った私鉄から始まりました。
しかし、歴史の中で戦争中における国からの買収を経て、やがて国が正式に運営する国鉄の路線へと成長してゆきました。

旧国鉄・胆振線のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
このように戦前から戦後の1960年代頃にかけて、まだ自動車が普及していなかった時代の人々の通勤・通学の足として親しまれてきた胆振線は、地域の生活路線や観光路線として大活躍しました。
しかし、その後の自動車の普及による利用者減少などもあり、赤字のため1986年に廃止となりました。
羊蹄山などの山々のそばを走り、さらには地域の産業を支え抜いたという列車の姿が、かつてそこにはあったわけです。
胆振(いぶり)の由来
古代の歴史書『日本書紀』に記された「胆振鉏」
ちなみに「胆振」という地名は、1300年以上も昔に書かれた日本の古代の歴史書『日本書紀』に登場する「胆振鉏」という言葉に由来しています。
飛鳥時代の当時、北方遠征(つまり蝦夷地の平定)のために朝廷から派遣された阿倍比羅夫の蝦夷平定に関連する言葉ですね。

飛鳥時代の阿倍比羅夫と、蝦夷富士・羊蹄山(画像はあくまでAIによるイメージです。)
ちなみに鉏とは、昔の言葉で「土地の境目」や「防衛の拠点」を表す意味合いがあり、北の守りを固める要所のことを示していたと考えられています。
つまりこの地点は、飛鳥時代の阿倍比羅夫の時代には蝦夷平定の拠点だったということがわかるわけですね。
松浦武四郎の提案によって誕生した「胆振国」
明治時代になり、それまで蝦夷地と呼ばれていた北海道が正式に日本の領土として組み込まれました。
そのとき、
- 政府から命じられて北海道の探検や調査を行っていた、北海道という地名の名付け親である松浦武四郎が、
- この辺りの地域の国名を決めるにあたり、
- 先述の阿倍比羅夫に関連する歴史ある言葉を提案したことで、
- ここで晴れて「胆振国」が誕生した
ということになります。
つまり明治時代になって、それまで本州では当たり前だった「〜の国」といったエリア分けのネーミングが北海道にも適用されたわけです。
すなわち、阿倍比羅夫という歴史の故事に基づいた、非常に説得力のある命名だったわけですね。
松浦武四郎については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

私鉄から始まった胆振線の歴史と駅の歩み
南北から少しずつ線路を伸ばした路線の黎明期
胆振線は、最初から一本の国鉄線として作られたわけではありませんでした。
すなわち、南北の両端から少しずつ線路が延ばされていったというわけです。
胆振線の主な駅と、路線の詳細
駅一覧
南→北の流れになります。
- 伊達紋別駅(北海道伊達市):現在も伊達市にある、室蘭本線と接続する南側の起点駅です。
沿線の物資を室蘭港へと送り出すための拠点でした。 - 壮瞥駅(北海道有珠郡壮瞥町)※洞爺湖のすぐ右側あたり。
- 蟠渓駅(北海道有珠郡壮瞥町)
- 北湯沢駅(北海道伊達市大滝区)
- 新大滝駅(北海道伊達市大滝区):かつて旧大滝村(現在の伊達市大滝区)にあった鉱山や温泉への玄関口です。
- (以上、伊達紋別側)
- (険しい山岳地帯)
- (以下、倶知安側)
- 御園駅(北海道虻田郡喜茂別町)
- 喜茂別駅(北海道虻田郡喜茂別町):こちらも、かつて喜茂別町にあった山あいの木材や農産物を集めてきて(または各地に運んで)、長らく路線の終点として賑わった主要駅です。
- 京極駅(北海道虻田郡京極町):かつて存在した羊蹄山の湧き水で知られる京極町にあった駅です。
その羊蹄山などの名峰を間近に望むという、観光客にとっても要所の駅でした。 - 倶知安駅(北海道虻田郡倶知安町)
路線名など
- 胆振縦貫鉄道:沿線の豊かな鉄鉱石や木材を運ぶため、伊達紋別から北へ線路を伸ばしてきた私鉄です。
1941年に倶知安・京極側から伸びてきていた胆振鉄道を合併して、それを吸収するような形で1つの大きな胆振縦貫鉄道となりました。
その後、1944年に国に買収されて国鉄「胆振線」になるわけです。
産業を支え全線開通を果たした、胆振線の軌跡
地域の資源を運び出した鉄道路線の役割

羊蹄山と倶知安の自然景観(画像はあくまでAIによるイメージです。)
胆振線は、元々は沿線の鉱山から採れる鉄鉱石や硫黄、豊かな森林から切り出される木材を運ぶために、急ピッチで工事が進められました。
というのも、この地域で採れる資源は北海道ならではの貴重なものであり、それらがなかなか採れにくい本州では高い需要がありました。
そのため本州へ運んで出荷すれば大きな利益につながったわけですね。
また、地元での消費だけでは商売の利益にも限界があるため、各地へ広く物資・商品を輸送するためにも、鉄道は極めて重宝されたのでした。
1941年に全通 胆振鉄道と胆振縦貫鉄道の合併、中間の峠を貫通
また、戦前のこの時はまだ真ん中の山岳地帯だけ線路が通っていなく、1本の線としては繋がっていませんでした。
そして、胆振地方と後志地方それぞれを結ぶという鉄道構想からしばらくの年月を経て、1941年にようやく倶知安駅と伊達紋別駅が、それぞれ一本の線路で結ばれました。
つまり倶知安・京極側から伸びてきた胆振鉄道と、伊達紋別側から伸びてきた胆振縦貫鉄道がそれぞれ1941年に合併して、それが決まった後に峠をぶち抜いて、めでたく全通したっていうことになります。
そして合併により、それまでの胆振鉄道は消滅し、胆振縦貫鉄道の単体になりました。
そして(先ほども述べたとおり)3年後の1944年に国に(倶知安〜京極間に元々存在した「京極線」も含めて)買収されて、国鉄「胆振線」になっています。
胆振線が険しい峠を越えて全通を迎えた瞬間は、地域の方々にとっても本当に待ち望んだ歓喜の時だったはずですね!
戦時体制と国有化への道
軍事物資の輸送ルートとして注目された胆振線
胆振線は、始めはそんな民間企業が作った路線として、北海道の北の大地をのどかに走る列車として始まったのでした。
しかし、第二次世界大戦が激しくなると胆振線(当時は胆振縦貫鉄道)は戦争に必要な鉱物資源を運ぶためのルートとしての重要性が、一気に高まってきました。
元々はそんな軍事物資を運ぶために作った路線ではないのに、時代の波に飲まれて戦争の路線として使われてしまうのは、ちょっと切ない気持ちになりますよね。
国家による戦時買収と「山岳分断」の時代
そして国は戦争に負けないために、より効率よく軍事物資を輸送するため、元々は民間の運営だった(今回の胆振縦貫鉄道のような)鉄道を買い取って、国の管理下に置くことにしました(国有化・戦時買収)。
そして1944年に国鉄「胆振線」となりました。
これによって、戦争によって万が一函館本線の長万部周辺で何かあったとしても、 胆振線がバイパス路線(迂回路線)として機能することができるようになったのでした。
話を戻しますが、つまり戦争に必要だからと言って国から無理やり奪われた(拒否したら「非国民扱い」される)というわけではなく、あくまで買収だったことがまだ救いですね。

羊蹄山麓から海へと広がる雄大な地形イメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)

かつての胆振線(画像はあくまでAIによるイメージです。)
観光路線としての黄金期と循環急行
そして戦後、昭和30〜40年代(1960年代から1970年ぐらい)にかけて、胆振線は地域の生活の足としてだけでなく、観光ルートとしても脚光を浴びました。
- 洞爺湖や羊蹄山の雄大な景色を楽しめる車窓。
- 周辺にある温泉へと向かう、湯治客の足として。
- 1960年代から運行された循環急行「いぶり」の大活躍。
- 冬にはスキー客たちを乗せ、真冬の雪が作り出す銀世界を鉄道は元気に駆け抜けました。
循環急行:ひとつの駅から出発してぐるりと輪を描くように一周し、再び元の駅へと戻ってくる急行列車の運行形態のことです。
札幌から北海道を巡る、循環急行「いぶり」の旅
急行「いぶり」は、札幌駅を出発して千歳線・室蘭本線・胆振線・函館本線を巡り、また札幌駅に戻るという非常に珍しいルートを走っていました。
ぐるっと北海道の景色を巡る旅なんて、鉄道好きにはたまらないロマンを感じますね!
循環急行「いぶり」の運行ルート(外回り便の例)
モータリゼーションの到来と胆振線の終焉
時代の変化がもたらした胆振線の経営難
しかしながら、そのように観光需要で大きく盛り上がっていた胆振線も、昭和40年代(1970年代くらい)以降、胆振線を取り巻く環境は急激に厳しくなっていきました。
つまり自動車が普及したことによって人々は鉄道ではなく自動車で移動するようになってしまったためですね(モータリゼーション)。
そして1986年11月、国鉄分割民営化(JR発足)を翌年春に控えたタイミングで、惜しまれつつ廃止されることになりました。
モータリゼーションと閉山が招いた、胆振線の終焉
このようにして、かつて地域で長年愛されてきた胆振線は、その役目を代替バスへと引き継ぎ、半世紀以上の歴史に幕を閉じることになりました。

北海道の廃線跡(画像はあくまでAIによるイメージです。実物・実際の景色ではありませんので、ご了承ください。)
現在でも沿線には駅跡や橋脚などが残っており、当時の温かい面影を静かに今に伝えています。
おわりに・まとめ

かつての胆振線(画像はあくまでAIによるイメージです。)
かつて北海道の鉱山開発や木材輸送の重責を担い、循環急行「いぶり」などで観光客にも親しまれた胆振線。
胆振線は、時代の波に押されて廃線となったものの、かつて険しい山々を切り拓いて地域経済を支え抜いた先人たちの情熱は、今でも色あせることがないわけですね。
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