
今回は、静岡県沼津市・片浜の千本松原に行ったときの話です!
また、その歴史についてもバッチリ追求していきたいと思います!!
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- 沼津の駿河湾に延々と続く、千本松原
- 「千本」とは、「非常に数が多い」という意味
- 津波・暴風・塩害対策のために植えられた松原
- 千本松原に築かれた堤防と、津波対策
- 若山牧水をはじめ、多くの文人から愛されてきた千本松原
- 戦国時代・武田氏と後北条氏の戦い
- 負けた武田勝頼による「甲相同盟」
- 越後・上杉謙信の病死を機に始まった「御館の乱」
- 武田勝頼の越後(御館の乱)への介入、調停の失敗、甲相同盟の破棄
- 甲相同盟の破綻 武田勝頼と後北条氏は敵同士に
- ようやく本題:沼津・伊豆の海で、武田勝頼と後北条氏の戦いが始まる
- 戦いのとき、伐採されてしまった千本松原
- 伐採された千本松原に、再び松の木を植えていった増誉上人
- その後の武田勝頼と後北条氏
- まとめ
沼津の駿河湾に延々と続く、千本松原

千本松原(せんぼんまつばら)は、静岡県の東・沼津市(ぬまづし)の西側の駿河湾(するがわん)に延々と連なって続いている、約15kmもの長さにもおよぶ松原です。東は沼津市街中心部を流れる狩野川(かのがわ)にはじまり、西は静岡県富士市(ふじし)・田子の浦(たごのうら)にまで至ります。
沼津市(ぬまづし)は、静岡県の東部に位置する街であります。沼津市について詳しくは、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。


千本松原では、美しく連なっている松林の向こう側には、これまた美しい富士山の姿がそびえ立ちます。

「千本」とは、「非常に数が多い」という意味
なお「千本」とはいうものの、実際には現在約30万本以上もの松が植えられているといわれています。
つまり、それだけ松の数の多い松原だというわけです。
なお、日本語において「千(せん、ち)」「八百(やお)」などといった数の表現は、日本の長い歴史において「とても数が多いことの例え」になります。
例えば、
- 千歳(ちとせ):「非常に長い年月」のことを指す表現。
- 千鳥(ちどり):非常にたくさんの群れをなして飛ぶ鳥のこと。
- 八百万(やおよろず):たくさんの、という意味。
- 八千代(やちよ):永遠に、などの意味。
- 八百屋(やおや):多くの野菜を扱っているお店のこと。
などといった表現が、それに該当します。
おそらく昔の日本人にとって「1,000」や「8」といった数字は、縁起のいい数字だと思われてきたのでしょう。
津波・暴風・塩害対策のために植えられた松原

千本松原の松は、元々は津波・暴風・塩害などを防ぐために、昔の人々によって植えられてきたことに、そのルーツがあります。
日本各地にある松原(松林)は、主に以下のような理由で作られ(植えられ)ます。
- まだ防波堤を作る技術が無かった大昔に、津波や高潮などの被害から、町や農地を守るため。
- 海からの風が強いエリア(沼津市も同じ)において、潮風(しおかぜ)からの塩害による被害を軽減するため。
- 景観のため。観光地として人を呼び込める効果もある。
塩害(えんがい)とは、潮風に含まれる塩分が田畑や農地などの地面に溶け込んでしまい、塩の主成分である塩化ナトリウム(NaCl)がその浸透圧によって地面に含まれる水分を吸収してしまい、本来ならば農作物が得るはずの水分を得られなくなってしまい、まともに育たなくなる被害のことをいいます。
ちなみに浸透圧とは説明が難しいですが、例えば
- ナメクジに塩をかけると、体の水分が失われて縮んでしまう
- キュウリに塩をかけると、水分が失われてヒョロヒョロと萎(しな)びてしまう
みたいな現象のことをいいます。これと同じで、農作物を育てている田畑の地面に塩が入り込んでしまうと、土から水分を吸収してしまって農作物が育たなくなってしまうのです。
こうした塩害を防ぐために、田畑や農地に近い海岸では、松をたくさん植えて「松原」を作り、潮風から守ってきたのです。
千本松原の場合も、元々はこうした防潮・防風のため、昔の人々が松の木々をその手で少しずつ植えてきたことにはじまります。
あと、この地域はとても風が強いです。風速6mくらいは余裕であるため、強風オールバック(by ゆこぴ)になります。
千本松原に築かれた堤防と、津波対策

静岡県は、地震対策・津波対策に対する意識がとても高い地域でもあります。
1976年にいわゆる「東海地震説」が発表されてからは、主に駿河湾の海岸地域では津波対策が行われていくようになりました。
東海地震説とは、江戸時代終盤の1854年に静岡県で起きた安政地震(あんせいじしん)のことについて記していた「古文書」が清水市(現:静岡市清水区)において見つかった事がきっかけで生まれた説であり、このとき「もしかしたら、駿河湾を震源とする地震がまた起きるのでは?」という可能性・説が浮上したのでした。
さらに言うと、1854年以降は駿河湾を震源とする大規模な地震が未だ発生していないため、これによって地面の「歪(ゆが)み」が蓄積して(たまって)いる、つまり「地震のパワーが溜まっていっている」との見解が示されたことから生まれた説です。
この「東海地震説」が生まれたことにより、静岡県における地震の防災に対する意識はとても高くなっていったのでした。
このため、千本松原と海岸の間には、とても高くて大きな堤防が築かれています。

もちろん沼津市にもたくさんの防波堤が築かれていて地震対策もたくさんなされているわけですが、2011年3月に起きた東日本大震災がきっかけで沿岸地域に住んでいた人々が、津波の恐怖からか数多く他の地域へと引っ越してしまい、沼津市の人口は減少してしまいました。しかし2015年以降に人気アニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」の舞台・聖地になったことにより、沼津市は再び街の活気を取り戻したという経緯があります。
若山牧水をはじめ、多くの文人から愛されてきた千本松原

千本松原(せんぼんまつばら)は、かつて多くの文人(小説家、作家)たちから愛されてきたという歴史があるということでも知られています。
なかでも昭和はじめの1926年には、沼津市にゆかりある歌人・若山牧水(わかやま ぼくすい)は、静岡県によって行われようとしていた松林の伐採計画に対して、伐採計画の反対運動を率先して引っ張ってきたのでした。彼は後述の通り、千本松原の魅力にひかれて家族みんなで沼津市に引っ越してきたという経緯があるため、きっと「大切な千本松原を奪われたくない」という意気込みが人一倍強かったことでしょう。その懸命な運動の結果、彼は見事に伐採計画を断念させたというエピソードが知られています。
若山牧水(わかやま ぼくすい)とは、明治時代の1885年に宮崎県日向市(ひゅうがし)で生まれた、主に明治時代~大正時代にかけて活躍した歌人・作家です。
彼は旅(旅行)やお酒、自然などをこよなく愛し、また埼玉県秩父市(ちちぶし)などをよく訪れていたことなども知られています。
また彼は沼津をこよなく愛し、先述の通り千本松原をこよなく愛しました。彼は千本松原の景観をとても気に入ったことから、1926年・41歳のときに、家族みんなで沼津に引っ越してきたのでした。そしてここがいわゆる「終の棲家(ついのすみか)」となったのでした。
しかしお酒が好きすぎて長年にわたり酒を飲み過ぎたために体調が悪化してしまい、1928年に沼津において43歳の若さで病死してしまいました。しかし、そのわずか43年という短い生涯の中で、実に9,000首(未発表含む)にもおよぶ、とても多くの歌を残しています。
沼津市と出身地の宮崎県に、それぞれ記念館があります。
戦国時代・武田氏と後北条氏の戦い
千本松原の海岸は、戦国時代の1580年に、甲斐国(かいのくに:山梨県):武田勝頼(かつより)と、相模国(さがみのくに:神奈川県西部)と伊豆国(いずのくに:静岡県の伊豆半島のエリア)を支配していた後北条氏(ごほうじょうし)が戦った場所でもあります。
後北条氏とは、戦国時代に相模・伊豆を支配していた北条早雲(ほうじょう そううん)から始まる一族です。確かに「北条」の姓を名乗ってはいますが、鎌倉時代の執権だった北条氏とは全く血縁関係は無く、シンプルに「“北条氏”のネームバリュー(知名度)が良い」ということで「北条」の姓を名乗ったことにはじまっています。北条早雲は、元々は伊勢宗瑞(いせ そうずい)という名前でした。鎌倉時代の北条氏と区別するために、「後北条氏(ごほうじょうし)」と呼ばれるわけです。
戦国時代、甲斐国(かいのくに:山梨県)のトップとして支配していた武田氏(たけだし)は、戦国時代において最強クラスだった武将である武田信玄(しんげん)の支配による全盛期が築かれていました。
武田信玄は、晩年には西の京都に向かって進軍してゆく西上作戦(せいじょうさくせん)を行っていました。
西上作戦(せいじょうさくせん)とは、武田信玄による、京都に向かってのぼり攻め進んでいく、という軍事的作戦です。
なぜ武田信玄が「西上作戦」を行っていたのかというと、例えば「天皇」または「将軍」に「攻撃・支配せよ」という命令を出させることで、自身の全国支配に対する「正統性」を認めてもらうためだった、と言われています。
例えば、もし武田信玄が誰からの許可や命令も無くいきなり各地を攻めて勝ったとしても、いきなりやってきた信玄に対して人々はなかなか従ってくれないかもしれません。
しかし「これは天皇や将軍からの命令で攻撃した」ということにすれば、人々はもしかしたら納得して従ってくれるかもしれません。
なので建前上は「天皇」や「将軍」から「各地を滅ぼして支配せよ」という命令を出させて、これによって自身の行いを正当化するという、ちょっと回りくどい手法が取られたというわけです。
室町時代後半、つまり戦国時代には「天皇」や「将軍」の権力はほとんど失われてしまっており、(力が強い)戦国大名の言いなりとなり、都合のいいように使われてしまうことが多くなっていたのです。
話が少しズレましたが、武田信玄はこの「西上作戦」により、京都に向かっていたのでした。
しかし、武田信玄は1573年に病死したため、武田の軍はやむを得ず撤退することになってしまいました。
その西上作戦は、息子の武田勝頼(かつより)が後を継ぐことになりました。
しかし、武田勝頼の時代に1575年の「長篠の戦い(ながしののたたかい)」において織田・徳川の連合軍に対して大敗してしまったことをきっかけに、武田氏は大きく衰退していくこととなり、また持っている領国を維持していくことが困難となっていったのでした。
長篠の戦いについては、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
負けた武田勝頼による「甲相同盟」
1575年の「長篠の戦い」に負けた武田勝頼は、甲相同盟(こうそうどうめい)を強化することに努めてゆきました。
甲(こう):甲斐国(かいのくに)山梨県。武田氏の支配する領域。
相(そう):相模国(さがみのくに):神奈川県西部。後北条氏の支配する領域。
つまり、甲斐・相模それぞれの同盟ということで、甲相同盟(こうそうどうめい)というわけです。
甲相同盟は、計2回にわたって結ばれています。以下は、今回に関係ある簡単な年表です。後で詳しく解説しますので、今は以下ザッと読み流すだけでOKです!
- 1544年 甲相同盟(一回目)締結。
- 1568年 甲相同盟(一回目)破棄。
- 1569年 後北条氏が武田信玄に対抗するため、越後国(新潟県)の上杉氏と越相同盟(えっそうどうめい)を結ぶ。
- 1569年 三増峠(みませとうげ)の戦い。武田信玄と後北条氏の戦い。武田信玄の勝利。
- 1573年 武田信玄が病死。京都へのぼってゆく西上作戦は断念し、あとは息子の勝頼に引き継がれる。
- 1575年 長篠の戦い。武田勝頼が織田信長の鉄砲隊により惨敗、これ以降は武田氏は一気に衰退してゆくことに。
- 1578年 上杉謙信が病死。
- 1578年 謙信の後継者の座をめぐって、上杉景勝(かげかつ)と上杉景虎(かげとら)が身内同士で戦う「御館の乱(おたてのらん)」が、新潟県上越市の地において起こる。これに対し、派遣されてきた武田勝頼が2人の調停(和解)に努めるも、後北条氏の味方である上杉景虎が敗北してしまい、自害。これによって武田勝頼は後北条氏の怒りを買い、甲相同盟(二回目)が再び破棄される。
- 1579年 甲相同盟(二回目)の破棄により、後北条氏は武田氏の敵になってしまい、後北条氏は徳川家康と同盟を結んで味方同士に。武田勝頼は両者との間で「挟み撃ち」状態に陥ってしまう。
- 1580年 武田氏は敵となった後北条氏を倒すため、伊豆侵攻へ。駿河湾・内浦湾(沼津市)において戦い。しかし徳川家康の軍に背後から襲われたため、武田勝頼は敗退。(←今回のメイン)
- 1582年 織田信長・徳川家康・後北条氏らから甲斐国(山梨県)を一気に攻められたことにより、武田勝頼は滅亡。
越後・上杉謙信の病死を機に始まった「御館の乱」
1578年、越後国(えちごのくに:新潟県)では武田信玄の最強のライバル・上杉謙信が病死してしまいました。
上杉謙信は武田信玄と並んで当時の最強戦国武将であり、しかも戦(いくさ)では一度も負けたことがないという「無敗の帝王」ともいうべき存在だったわけです。また、当時の多くの武将はその最期は「戦死」でしたが、彼の場合はあくまで「病死」だったわけです。つまり、彼の存命中は、どの武将も彼の命を絶つことができなかった(倒せなかった)というわけです。戦乱の世の中にあって、寿命を全(まっと)うした武将なんて、本当にすごいことです。
そんな上杉謙信の死後、その後継者の座をめぐって1578年、彼の養子である上杉景虎(かげとら:北条氏康の七男)と、上杉景勝(かげかつ)の2人が対立してしまい、やがては「御館の乱(おたてのらん)」というお家騒動にまで発展するのでした。
御館(おたて)とは、現在の新潟県上越市(じょうえつし)・直江津駅(なおえつえき)あたりの地域のことをいいます。
上杉景勝(かげかつ)は上杉謙信の甥(おい)にあたる人物であり、また「御館の乱」に勝利したことで、後に江戸時代の米沢藩(よねざわはん:山形県米沢市)における、初代藩主となる人物になります。
上杉景虎(かげとら)は、1569年に(上杉氏のライバル・武田信玄に対抗するために)相模国・後北条氏との間に結ばれた越相同盟(えつそうどうめい)のときに、上杉謙信の養子となった北条氏康(うじやす)の子(七男)になります。
つまり上杉景虎は「元々は後北条氏からの出身だった」わけですが、彼が上杉家に入ったとき、上杉謙信の元々の名前であった長尾景虎(ながお かげとら)から名前をもらって、上杉景虎と名乗ったのでした。
つまり、景虎側は北条氏の側(味方)だったということになります。
しかし景虎は結果的に「御館の乱」において敗北してしまい、自害することとなりました。そのため、後北条氏は結果的に身内の上杉景虎を守れなかった武田勝頼に対して憤り、やがて甲相同盟の破棄へとつながるのです。
武田勝頼の越後(御館の乱)への介入、調停の失敗、甲相同盟の破棄
この「御館の乱(おたてのらん)」をなんとか鎮めたいと思っていた後北条氏の北条氏政(うじまさ)でしたが、その時は自身をとりまく関東地方の状態が不安定だったこともあり余裕が無く、わざわざ越後国(新潟県)まではなかなか動けない、という状況にあったのでした。
そのため「甲相同盟」を根拠として(この時点では味方同士だった)武田勝頼に対し、身内である上杉景虎を支援するよう、越後国・新潟県への出兵を依頼したのでした。
こうして越後国(新潟県)への出兵を依頼された武田勝頼は、当初は景勝・景虎の両者に仲介して、なんとか調停(和解)させることを試みたのでした。
しかし後述するように、結果的には上杉景勝側がこの身内争いに勝利してしまい、後北条氏側が守りたい(守るべき)上杉景虎は負けて自害してしまいました。
そこで武田勝頼は争いに勝った上杉景勝との接触(つまり、仲良くなること)によって外交方針を変更し、越後国・新潟県との同盟である「甲越同盟」を結んだのでした。
しかしこれは明らかに、後北条氏に対する裏切り行為となります。
繰り返しにはなりますが、この「御館の乱(おたてのらん)」は結果的に1579年、上杉景勝が制しており、負けた側(後北条氏側)の上杉景虎は自害してしまいます。
こうして武田勝頼が(勝利した)上杉景勝の側となったために、後北条氏の北条氏政(うじまさ)は武田氏と断交することを決定してしまいました。
これにより、2回目に結ばれた甲相同盟(こうそうどうめい)は、再度破綻してしまったのでした。
甲相同盟の破綻 武田勝頼と後北条氏は敵同士に
この甲相同盟の再破綻により、武田勝頼による群馬県の西部において沼田領(群馬県沼田市)への侵攻をしたことなどによって、そこを支配していた後北条氏と対峙してしまいました。
これにより、甲斐国・山梨県と相模国(さがみのくに:神奈川県西部)の対立は決定的なものとなってしまいました。
そして、北条氏政(うじまさ)は1579年、徳川家康と同盟を結んだことで味方同士となりました。
徳川家康は武田氏の敵なので、武田氏はもはや周囲が敵だらけとなってしまいました。
そして徳川家康という強い味方をつけた後北条氏は、駿河国(するがのくに:静岡県東部)における武田氏の領地に対して、どんどん侵攻してゆくことになるのです。
こうして甲相同盟が破綻し、それまでは味方同士だった後北条氏が敵に回り徳川家康と同盟を結んだことによって、武田勝頼は両者・両方から「挟み撃ち」される事態となってしまいました。また、武田勝頼はそれまで持っていた領国・領地を維持していくことが、さらに困難になっていったのでした。
ようやく本題:沼津・伊豆の海で、武田勝頼と後北条氏の戦いが始まる
かなり長くなりましたが、ここまでが、武田氏と後北条氏が、戦国時代の沼津・伊豆で戦うことになった前提知識です。そしてここに、武田勝頼VS後北条氏の戦いがはじまります。
1580年になり、伊豆に拠点を構える後北条氏の軍が出陣していったことに対抗して、武田勝頼の軍も駿河湾の海へと出陣していったのでした。
そして沼津市街地のやや南西にある内浦重須(うちうらおもす)にあった後北条氏の拠点(港)からは、後北条氏の水軍の船たちが武田軍と戦うべく、それぞれ沼津の海の沖合へと進軍していったのでした。
内浦重須(うちうらおもす)は、沼津市街地の南西にある後北条氏の「水軍の拠点(港)」が置かれていた場所であり、アニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」に登場する「浦の星女学院」のある「長井崎(ながいさき)」の近くにある地域になります。
内浦重須と長浜城跡については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
ここに北条水軍の軍隊と、武田水軍の軍隊による「海戦(=海の上でのドンパチ)」に突入したのでした。
ちなみに水軍(すいぐん)とは、主君(リーダー)の命令に従って正式に攻撃をする、海で敵と戦うための武士のチームです。「武装した軍」という点ではいわゆる「海賊」と似ていますが、海賊は略奪行為を行ったり、海上を通りたい船から通行料を徴収したりして生計を立てているという、そもそも目的や収入源が違う人達なので、「水軍」と「海賊」は厳密には異なります。
陸上にいた武田軍は、東側(伊豆方面)の海から攻めてくる北条水軍に対して攻めてゆく武田水軍を助けるため、弓・鉄砲を持った兵士たちが千本松原の砂浜に出て戦っていったのでした。
さらに武田軍の兵は、腰まで海水に浸(つか)かりながらひたすら撃ち続け、海から攻めてくる北条水軍の軍船を迎え撃つために攻撃を続けていったのでした。
北条水軍も弓や鉄砲で攻めてくる武田軍に対して戦い、ずっと海で激しい撃ち合いが続いたのだといいます。

この合戦では、武田水軍のメンバーの中でも多数の戦死者を出すなど、武田軍側は被害が大きかったのでした。
結局は、先述の通り後北条氏と同盟を結んでいた徳川家康の軍から背後をつかれてしまい(挟み撃ち)、武田軍は撤退することになってしまいます。
戦いのとき、伐採されてしまった千本松原
武田勝頼は、この戦いのときに「千本松原の松を全て伐採した」と伝わっています。理由についてはよくわかりませんが、おそらく
- これから(陸から)海に攻めてゆこうとする武田軍の兵にとって、松原の存在が邪魔だったため
- 海から攻めてくる後北条氏の水軍が陸に上がって攻めてきたときに、後北条氏の軍から松原を「バリヤー」として利用される事を防ぐため
などの理由が考えられます。もし武田水軍が海での戦いに敗れて後北条氏の軍が上陸して攻めてくることになったとき、松原があれば上陸してくる後北条氏の軍を攻撃しにくいですが、松原が無ければ砂浜から上陸してくる前に後北条氏の軍を滅多撃ちに出来る、と考えたのかもしれません。
理由はどうであれ、この戦いで松原が(武田勝頼により)みんな伐採されてしまったことにより、周辺地域の農民たちが一生懸命に育てていた作物は「風害」や「塩害」などによって、壊滅的な被害を受けるようになったといいます。
強い潮風・海風を防ぐ松原が無くなってしまったために、風をもろに受けるようになってしまったためです。
先述の通り、この地域は海から吹く風がとても強いです。そして松原が無くなると、塩を含む風がもろに吹き付けてくるのです。塩を受けた田畑では、食物がまともに育ちません。先述の通り、塩の主成分である塩化ナトリウム(NaCl)を多く含んだ土(地面)では、浸透圧によって農作物に必要な水分を奪われてしまうからです。
伐採された千本松原に、再び松の木を植えていった増誉上人
こうした惨状に心を痛めた増誉上人(ぞうよしょうにん)というお坊さんが、人々を惨状から救うために、再び松の木々をその手で植え続けていったのでした。
しかし当初は、せっかく手で植えた松も、すぐに厳しい潮風を浴びてしまい、枯れ果ててしまうというような惨状でした。
それでも彼はめげずに約5年の歳月をかけて「千本の松」を植えてゆき、これこそが「千本松原」の由来となったのでした。
こうして救われた里人(住民)の皆さんが増誉上人(ぞうよしょうにん)の業績をたたえて開いたお寺が、現在の沼津市の千本松原に近い地域にある乗運寺(じょううんじ)になります。
ちなみに先述の若山牧水も、乗運寺の中にお墓が存在します。
その後の武田勝頼と後北条氏
なお武田勝頼は、その後にどんどん仲間に裏切られて衰退してゆき、二年後の1582年に山梨県の東部にある天目山(てんもくざん)において織田信長の軍に追い詰められて自害し、滅亡しています。
また、武田勝頼と対峙した後北条氏も、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めによって滅亡しています。
まとめ
いかがだったでしょうか。今回の重要ポイントを、以下にまとめておきます。
- 千本松原は、周辺地域の塩害から農作物などを守るために植えられた
- かつて千本松原では、武田勝頼と後北条氏による戦いが繰り広げられた
- 武田氏と後北条氏は、元々は味方同士だった
- 彼らの同盟関係を壊したきっかけは、越後国・新潟県における、上杉氏のお家騒動(身内争い)だった
- この身内争いにおいて、武田勝頼は後北条氏の身内を助けることができず、同盟破棄となり、後北条氏と対立関係となるきっかけとなった
- 千本松原での戦いで、武田勝頼によりたくさんの松林が伐採されてしまい、住民への影響が大きくなった
- 増誉上人が、1000本にもおよぶ松の木を再び植えてゆき、千本松原となった
- 若山牧水が、この千本松原をこよなく愛した
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
ちゅうい!おわりに
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします!
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