鉄道唱歌 山陽・九州編 第18番 饒津神社、そして宇品と呉 戦艦大和の跡

まずは原文から!

北には饒津(にぎつ)の公園地(こうえんち)
西には宇品(うじな)の新港(しんみなと)
内海波(うちうみなみ)も靜(しず)かなり
呉軍港(くれぐんこう)は近くして

さらに読みやすく!

北には饒津(にぎつ)の公園地(こうえんち)
西には宇品(うじな)の新港(しんみなと)
内海波(うちうみなみ)も静(しず)かなり
呉軍港(くれぐんこう)は近くして

さあ、歌ってみよう!

♪きたにはにぎつの こうえんちー
♪にしにはうじなの しんみなとー
♪うちうみなーみも しずかなりー
♪くれぐんこうはー ちかくしてー

(山陽本線)
神戸駅→兵庫駅→鷹取駅→須磨駅→舞子駅→明石駅→加古川駅→姫路駅→相生駅(旧・那波駅)→岡山駅→倉敷駅→福山駅→尾道駅→糸崎駅→三原駅→海田市駅→広島駅→西広島駅(旧・己斐駅)→五日市駅→宮島口駅→岩国駅→柳井駅→徳山駅→防府駅(旧・三田尻駅)

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ表記
※鉄道唱歌のできた当時(1900年)は、防府駅(旧・三田尻駅)から先は開通していなかったため、徳山港から船で門司(九州)へ

饒津神社(にぎつじんじゃ)とは、広島のやや北にある神社のことです。
饒津(にぎつ)の「にぎ」というのは「食べ物がたくさん豊富である「豊作や商売繁盛」など、そういった意味を表します。
また「津(つ)」というのは、港のことを言います。
つまり、かつての広島は水運ある水の都だったので、商売繁盛で食べ物がたくさん取れる豊かな港町になる、そんな祈りを込めて「饒津神社(にぎつじんじゃ)」という風に名付けられたそうです。

宇品(うじな)とは、広島の南にある地名のことであり、ここに広島港(ひろしまこう。宇品港とも)があります。
つまり、広島港がある辺りの事を、宇品(うじな)という風にいいます。
岸田文雄(きしだ ふみお)内閣総理大臣も、広島の宇品のある広島市南区の出身です。
ただ、実際の岸田文雄総理大臣の本拠地は宇品よりやや北の比治山(ひじやま)あたりになります。
宇品港方面へは広島駅からバスで行ける他、広島市電(路面電車)でも行くことができます。
所要時間は、約30分から40分くらいです。

かつて広島駅からは、宇品港駅(うじなこうえき)に向けた「宇品線(うじなせん)」という鉄道路線が出ていました。
これは宇品港で積み上げた貨物を運んだり、またその逆に、貨物を船に載せて運ぶための鉄道路線でした。

しかし、1960年代以降のモータリゼーションに伴い、自動車の普及によって高速トラックなどによる貨物輸送がメジャーとなったため、宇品線による貨物需要は衰退して廃止となってしまいました。
もちろんこうした例は宇品だけにとどまらず、日本全国の貨物路線で頻繁にあったことです。

広島県呉市(くれし)は広島県の南東に位置する港町です。
呉(くれ)はかつて、呉海軍工廠(くれかいぐんこうしょう)または呉の鎮守府(ちんじゅふ)、略して呉鎮(くれちん)があった場所です。
鎮守府(ちんじゅふ)というのは、昔の言葉で「海の守りの要」のことをいいます。海の守りのための要塞と言ってもいいでしょうか。それは海軍工廠だったり、海軍の基地だったりします。

こうした鎮守府は、他にも京都府舞鶴市(まいづるし)、神奈川県横須賀市(よこすかし)、長崎県佐世保市(させぼし)にありました。

もともと鎮守府という言葉は、平安時代に朝廷に従わなかった東北地方の蝦夷(えみし) と呼ばれる朝廷に従わなかった人々を征伐するために造られたものでした。
具体的には、朝廷から蝦夷征伐のために東北地方に派遣された坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)などが、岩手県の胆沢城(いさわじょう)や宮城県の多賀城(たがじょう)などに 築いた場所のことを言いました。

それが転じて、明治時代には「国の守りの要」など、軍港などを「鎮守府」と呼ばれるようになりました。

海軍工廠(かいぐんこうしょう)とは、簡単にいえば軍艦などの船を造る場所のことです。
その技術が生かされ、現在でも呉では造船業が盛んです。

また後述するように、呉では戦艦大和(せんかんやまと)が造られた場所でもあります。
戦艦大和を祈念(きねん)するために、「大和ミュージアム」という大きな博物館が呉市には存在します。
なお、「祈念(きねん)」という言葉は、嬉しい意味の「記念(きねん)」とは違い、過去のいたましい事柄を風化させないため、後世に伝え残し二度と同じ過ちを繰り返さないことを願う、という意味です。

そして呉は現在も、海上自衛隊の本拠地になっています。
また、「海軍カレー」というものが呉では有名です。

なぜ海軍にとってカレーが重要のかというと、それはカレーというものは「曜日」を象徴するものだからです。
現在の海上自衛隊もそうですが、海軍は基本的に何日間も何ヶ月も海の上で勤務することになります。そのため、曜日感覚が分からなくなってしまうそうです。
そのため、毎週金曜日は夕食にカレーを出すことによって、「カレーが出たということは次の日が休みなんだ」という喜びを兵士達に与え示す役割があったのです。

呉市までは、広島駅よりちょっと手前の海田市駅(かいたいちえき、広島県安芸郡海田町)から呉線(くれせん)に乗り換えて、所要時間30分から40分程度で向かうことができます。

呉駅(広島県呉市)

呉線(くれせん)は、広島県中部の三原駅(みはらえき、広島県三原市)から海田市駅までを結ぶ、瀬戸内海沿いに走る鉄道線路のことです。
呉駅からさらに広駅(ひろえき、広島県呉市)で乗り換えて 、「うさぎの楽園」で知られる大久野島(おおくのしま)まで行くこともできます。
この辺りの景色は非常に綺麗です。
ただし大久野島は 、三原駅側から最寄りの忠海駅(ただのうみえき、広島県竹原市)まで向かう方が近くて便利です。

広駅から三原駅までの区間は、「瀬戸内さざなみ線」という愛称がつけられています。
瀬戸内海の海沿いを走るので、海の景色が本当に綺麗になります。
景色的には、房総半島の安房鴨川駅(あわかもがわえき、千葉県鴨川市)から勝浦駅(かつうらえき、千葉県勝浦市)の区間に個人的には似ていると思います。

そして呉線は、歴史的には呉海軍工廠や呉軍港への軍事目的に作られた路線でした。
これは神奈川県の横須賀線(よこすかせん)などにも同じことがいえます。
横須賀線はもともと東海道線の一部 、つまり支線(しせん)でした。元々は横須賀にある軍港や海軍工廠に向かって物資を運ぶために作られた路線でした。

そして、呉は先ほど後少し述べましたが、戦艦大和(せんかんやまと)が生まれた場所です。

戦艦大和(せんかんやまと)とは、呉で生まれた、太平洋戦争(大東亜戦争)の末期に登場した史上最大の戦艦です。
ではなぜ史上最大の戦艦なのかというと、もはや時代は戦闘機や爆撃機の時代であり、それ以上大きな戦艦を作る必要はなかったからです。
太平洋戦争中期から末期になると、いかに性能の高い戦闘機や爆撃機を大量に作れるかの時代に移っており、例えばB29などの強力な爆撃機を作れることがいかに太平洋戦争の勝敗を握っていました。

ではなぜ日本がこの時代になって劣勢に立たされたにも関わらず、このような巨大な戦艦を作るのに拘ったのかと言うと、日清戦争・日露戦争で「巨大な戦艦で戦った方が勝利できる」という余計な成功体験があったからです。
日本人(の多く)はどうしてもなかなか古いものを変えたがらない、新しい変化を嫌う、昔うまくいった方法を好む、前例のないやり方を嫌う・・・その傾向にあるようです。それは戦争中からも変わっていなかったようです。
現代の会社や組織でも、頭の古い人達がいつまでも時代の変化についていけず、パソコンすらまともに扱えない(使い方を覚えようとすらしない)ことや、「昔はこのやり方でうまくいったんだ!今さらやり方を変えたくない!」などと言っているのと同じですよね。

戦艦大和の装備していた46cm砲とても大きく非常に強力でしたが、当たらなけば、そして届かなければ意味ありません。
敵はみんな戦闘機に乗って空を飛んでいるので、巨大な46センチ砲ももはや射程距離外で意味のないものでした。

しかも戦艦大和は、国のめっちゃ偉いトップレベルの人が乗ることを想定していたので、非常に贅沢な造りで豪華なものでした。
当時の日本軍の軍艦は冷房などなく、太平洋のあまりにも蒸し暑い温度に苦労していたのに対して、戦艦大和は冷房がきいて食事も冷えきったビールステーキなど、非常に豪華なものだったといいます。
そして太平洋の戦場にたまに出撃してもほとんど戦うことなく、途中で引き返したり、ずっと島の近くに停泊していたりしてあまり行動しなかったといいます。
そして軍楽隊を備えていたため船で演奏会をしたり、また上記の快適な居住性もあって、いつしか戦艦大和は「大和ホテル」などと揶揄されるようになりました。

そのようにしてほとんど大きな目立った戦果も挙げられないまま、時代は1945年に入り、沖縄がまさにアメリカ軍に攻め落とされんとしていました。

そして戦艦大和に対し、最初にして最後の大きな使命が課せられます。
そう、沖縄に向けた特攻です。

本土から沖縄に向けて出撃し、沖縄の島の浅瀬に乗り上げて砲台となって攻撃せよという、 あまりにも無茶な特攻作戦でした。
この時大和に乗っていた約3000人もの特攻隊員たちは、もはやこれを最期と覚悟したといいます。

そして戦艦大和が沖縄に向かう途中、鹿児島の沖合の方で米軍の戦闘機に発見され、次々に雷打ち込まれます。
ただ最初の方は、少々撃たれていたくらいでは沈まずに持ちこたえていたといいます。
元々戦艦大和は沈まないように工夫されており、片方が魚雷に撃たれても水を給水することによって、船が傾かずに海面と平行を保つような設計となっていました。

しかし、アメリカの戦闘機のたくみな魚雷攻撃により戦艦大和は次々に魚雷を打ち込まれ、もはやその給水装置も作動しなくなり、船はどんどん傾いていきました。
船は45度、60度、ついに90度と完全に傾いてしまい、最後には転覆して大爆発を起こしました。
そして戦艦大和は、鹿児島の沖に沈んでしまいました。
1945年4月7日のことです。

そして乗っていた3000人もの尊い乗組員の命が失われました。

こうした戦艦大和の悲劇や失敗から学べることは、古い教訓や古い成功体験を捨て去らなければ新しい時代に順応できないということです。
過去にうまくいった方法が、今うまくいくとは限りません。それは世の中の常識やニーズは常に変化するからです。
今の日本だって、かつての高度経済成長期やバブルの時の成功体験が頭から離れず、そういった変化を嫌う人たちがいつまでも企業のトップ層に居座っているため、イノベーションが起きず、 今の若い世代の人達の意見もなかなか反映されず、若い人々が苦労しているということになっています。
古い成功体験を捨てて新たな一歩を踏み出すことは、ある意味残酷であり勇気のいることです。しかしそれをやらないと、いつまでも時代遅れのものばかりが蔓延って(はびこって)しまいますね。
それによって、戦艦大和ほどまではいかなくても、多くの人が傷ついたり不幸になることだってあるのです。

今の日本は円安や少子高齢化、年収が下がり物価は上がり、新しいサービスが生まれないなど苦境に立たされています。
こうした戦艦大和の教訓を改めて見直し、また今後の世の中に生かすことも重要なのではないでしょうか。

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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