鉄道唱歌 山陽・九州編 第42番 大宰府とはどんな場所か 千年前から存在した九州の政治の要

まずは原文から!

千年(ちとせ)のむかし太宰府(だざいふ)を
おかれしあとは此(こ)の處(ところ)
宮(みや)に祭(まつ)れる菅公(かんこう)の 
事蹟(じせき)かたらんいざ來(き)たれ

さらに読みやすく!

千年(ちとせ)のむかし太宰府(だざいふ)を
おかれしあとは此(こ)の処(ところ)
宮(みや)に祭(まつ)れる菅公(かんこう)の 
事蹟(じせき)かたらんいざ来(き)たれ

さあ、歌ってみよう!

♪ちとせのむーかし だざいふをー
♪おかれしあとはー このところー
♪みーやにまつれる かんこうのー
♪じーせきかたらん いざきたれー

千年もの昔から存在してきた、太宰府

大宰府(だざいふ)は、千年前の昔つまり飛鳥時代の頃から、もっといえば663年の白村江の戦い(はくすんこうのたたかい)のあった時期から、

  • 大陸からの侵攻の防御のため

に、日本を守る為の「玄関口」「防御の拠点」として、この場所に設置されました。

当時、外国に最も近かった九州

現代の日本の玄関口といえば、

  • 成田空港
  • 関西国際空港

などの空港がそれにあたります。
つまり空港こそが、日本から外国へ最も近い「玄関口」であるというわけです。

しかし、昔は飛行機などなかったため、 当時の日本の玄関口は、地理的に外国に近い、九州の北にある大宰府だったというわけです。

外国のVIPを招き入れる「迎賓館」もあった

逆に言えば、当時の外国人にとっては、大宰府が日本の玄関口でした。

そのため、海外の国賓(こくひん)、つまりお偉い方々(VIP)を招くための迎賓館(げいひんかん:海外の国賓を豪華にもてなす場所のこと)もありました。

太宰府の政庁・都府楼跡

大宰府の政庁跡(せいちょうあと)、つまり都府楼跡(とふろうあと)は現在でも史跡として、または公園として残されています。

都府楼跡(大宰府政庁跡) (福岡県太宰府市)

なお、「大宰府」と「太宰府」は、前回も解説したように漢字が違います
すごく簡単にいうと、

  • 昔からこの地域にあった政治の中心地→「大宰府
  • 福岡県太宰府市の自治体名→「太宰府

など、一応の使い分けは存在します

歌詞にある「」とは、ここでは太宰府天満宮のことをいいます。

菅原道真公が、左遷によって訪れてきた太宰府

また、歌詞にあるように菅原道真(すがわらのみちざね)公のことを菅公(かんこう)とも呼ばれます。
または、親しみを込めて「菅公さま」というふうにも呼ばれます。

醍醐天皇の時代、大宰府へ左遷となった菅原道真公

かつて菅原道真公は、平安時代の西暦900年、京都で醍醐天皇(だいごてんのう)のそばで働いていた時にあらぬ罪を着せられてしまい、大宰府に左遷(させん)となってしまいました。
左遷(させん)」とは、悪いことをした人に対して罰として不便な僻地(へきち)に追い込むことです。

なぜ「左遷」となったのか

ではなぜそのような処置がなされたのかというと、例えば「死刑」よりもあえて不便な場所に追い込んで惨めな思いをさせる、ということが理由として考えられます。

そして、昔は報復左遷(ほうふくさせん)や流罪(るざい)、そして「島流し」ということがよく行われていたのでした。ある意味、これらは死刑よりむごいかもしれません。

菅原道真公は、生涯最後の2年間は、余生をこの大宰府で惨めな思いをしながら過ごしたのでした。

その惨めな最期の生涯を、鉄道唱歌ではこれから語っていこうということです(「事績語らんいざ来たれ」)。

次回から続く「大宰府シリーズ編」

鉄道唱歌では、ここから長い長い「大宰府シリーズ編」に突入します!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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