D51形蒸気機関車(デゴイチ)について、わかりやすく解説しています!
初心者や詳しくない人にも楽しめるよう解説してゆきます!
今回は、戦後のD51(デゴイチ)の性能向上などについての話題
前回で、戦前のD51について語ってきました。
D51形蒸気機関車(以下、D51)とは何か?など基本的な内容については、前回の記事をご覧ください。
今回は、戦後のD51について語っていきます!
戦後、軍事よりも旅客需要の増加
戦後になって、
- 軍需輸送が無くなってしまったこと
- 食糧難によって、買い出しなどによる旅客が激増したこと
などの要因により、旅客用の(つまり、人様たちを載せるための)蒸気機関車の需要が、再び増加していったのでした。
「買い出し列車」とは
ここで「買い出し列車」とは、戦後の食糧難のために、人々がモノなどを買い出しに行くために活躍した列車のことです。
買い出し列車は、それまでに戦争中にメインだった貨車を、「客車」として利用されたのでした。
ここで
- 貨車:荷物を載せるための車両
- 客車:人を載せるための車両
という意味になります。
どちらも、自力では動けないため、蒸気機関車によって引っ張られて動きます。
つまり買い出し列車においては、本来は荷物(軍事物資)などを運ぶためだった貨車に、無理やり人々が乗っていったようなイメージです。
なぜ貨車に乗っていったのかというと、戦後は客車が不足していたからです。
戦争中は、人様(旅客)が乗るための客車よりも、より多く軍事物資を運ぶための貨車が優先されたのでした。
戦後の物資不足のため、「遠くへ買い出しに行く」ための列車
戦後の日本では、食糧事情が非常に厳しく、配給だけでは生活に必要な物資を十分に得ることができませんでした。
そのため、あちこちの地方へ、米や野菜などの買い出しに行く必要がありました。
そのための列車が、「買い出し列車」と呼ばれました。
戦後、多くの人々の買い物を手伝った「買い出し列車」
買い出し列車は、先述の通り、
- それまで軍事物資などを中心に載せていた貨車を改造して、
- 人様(旅客)が乗れるような客車として使用した
という列車でした。
これは、モノを運ぶための貨車を少しでも有効活用することで、少しでも多くの人が買い出しに行けるように、サポートするための措置でした。
「買い出し列車」は戦後、各地へ人々を運んだ
モノの買い出しは、
- 東北地方では、主に米など
- 静岡県などではサツマイモや馬鈴薯(ジャガイモ)
の買い出しがメインでした。
戦後の1946年11月と12月には、サツマイモの買い出しが最盛期を迎えました。
それに伴って、「買い出し列車」が多く運転されることになりました。
これにより、戦時中とはまるで異なり、
- 軍事輸送
- 旅客の輸送
のそれぞれの需要が完全に逆転し、旅客の輸送需要の方が大きくなっていったのでした。
戦争中は軍事優先で、旅客用の機関車はほとんど製造されず
戦時中には、軍事用の機関車ばかりが製造されてゆきました。
戦時中は何もかもが軍事優先でしたから、当然と言えば当然です。
しかしそんな中だと、旅客用の機関車は、戦争が激化していくとともに、もはやほとんど製造されていきませんでした。
戦争の世の中では、旅行どころじゃないですからね・・・。
戦争で貨車が余り過ぎ、客車が不足
このように戦争中は、軍事用の機関車ばかりが開発されて、旅客用の機関車は
- ほとんど開発されない
- または、後回し
になっていました。
そのため、軍事優先の状況の中では、旅客用機関車の開発はどうしても優先順位が低くなりがちだったのでした。
戦争中はどうしても資源が不足するため、新しい機関車の開発や製造は、仕方なく制限されることも多々ありました。
そのため、
- 既存の旅客用の機関車を、軍事用に改造する
- 既存の旅客用の機関車を、ろくに改造もせずに使い回したりする
といったことが常態化してしまったのでした。
そのため、新しい旅客用機関車の開発は、まともには難しかったものと考えられます。
こうした事情から、いざ戦後になると旅客用の機関車が圧倒的に足りていない、という状況が生まれてしまったのでした。
しかしその軍事用機関車すらも、戦争末期には資源不足・人手不足により、ほとんどいい加減なポンコツばかりが量産されてしまったのでした。
旅客用機関車の急ピッチ増産
こうした旅客用機関車の不足を補うため、戦後の1946年から1947年にかけて、 急きょ、新しく機関車が製造されていくことによりました。
これにより、機関車不足が徐々に補われてゆきました。
それ以後も、旅客用の機関車はどんどん増備されていくことになったのでした。
預金封鎖の影響で、資金調達がままならず
しかし、新しく機関車を増やそうにも、その後は戦後のハイパーインフレにより、預金封鎖が断行されてしまいました。
これにより、新しく機関車を製造していくための予算が、凍結(獲得できない)されてしまったのでした。
これにより、当時の国鉄は資金を自由に調達することができずに、深刻な資金不足に陥ってしまいました。
そのため、機関車を自由に新規製造をすることが不可能という状況に陥ったのでした。
預金封鎖とは?
預金封鎖とは、戦後に政府がインフレを抑えて、わざとデフレを起こさせるために、わざと預金を下ろさせないようにしたことです。
戦後になると、圧倒的な物資不足により、モノの希少価値が上がってしまいました。
これにより、ハイパーインフレとなっていました。
当時の政府は、インフレを抑えようと工夫した
インフレを押さえるためには、
- 世の中に出回るお金の量を、少なくする
- これによって、お金の価値を上げる
ということが、まず考えられます。
こうすればデフレが起きて、物価が下がることを狙ったわけです。
モノの価値は、少ないほど上がります。
例えば、
- 滅多に手に入らないダイヤモンドは、高い値段がつく
- その辺に転がっている石ころには、珍しさが無いため、値段がつかない
ということ同じです。
ハイパーインフレも、モノの数が圧倒的に不足したため、希少価値が上がり、値段がはね上がったのです。
高くしても売れるわけですから、安値で売るわけがありませんよね。
こうしたハイパーインフレを抑えるため、政府は
- お金を引き出させないようにして、
- 市場に出回るお金の量を減らし、
- お金の価値を上げて、
- 相対的に、物価を下げる
という現象が起こることを狙って、預金封鎖をしたわけです。
戦後の預金引き出しは、一時期とても困難だった
こうした戦後の預金封鎖の中においては、新しく資金を調達することは、非常に困難なことでした。
預金封鎖により、金融機関(銀行など)は、人々が預金を引き出すことを制限しました。
そのため、企業は
- 運転資金(従業員に払う給料・人件費・家賃・光熱費などを工面するための金)
- 設備投資のための資金(企業が新しいこと・サービスをやっていくための金)
などのお金を、調達することが難しくなりました。
そのため、企業が今後事業をやっていくのに、大きな支障が出ることになりました。
もちろん企業だけでなく、いち個人も、銀行の預金が制限されてしまったため、生活費を引き出すことが難しくなったのでした。
そのため、預金封鎖により人々の生活が困窮してしまうという事態にもなりました。
「改造扱い」で、新規製造の規制を回避
こうした預金封鎖による、
- 資金不足を打開するため
- 不足していた旅客用機関車を確保するため
に、もはや新規ではなく、改造という形で蒸気機関車を作っていくことになったのでした。
これは新規製造ではなく、表向きには「改造扱い」だったため、 当時の厳しい規制を回避することができたのでした。
つまり、新規に作成(予算に上げる)すると、国から文句言われるわけです。
なぜなら後述するように、企業による過剰な新規投資は、インフレにつながる恐れがあったからです。
そのため、あくまで「改造」という形をとることで、国から文句言われることを免れたわけですね。
新規過剰投資は、インフレにつながる
先述の通り、企業による過剰な新規設備投資は、インフレにつながる恐れがあります。
需要が増加し、市場にお金があふれる結果につながる
つまり、企業が過剰に設備投資を行うと、
- 設備を製造するための、原材料(コスト)
- 給料を上げろ!という圧力
などが増加してしまいます。
こうなると、市場にたくさんのお金があふれるようになります。
お金があふれると、
- お金の価値が下がる
- モノの価値が上がる
ため、インフレが起きます。
つまり過剰な新規設備投資は、物価上昇(インフレ)にもつながってくるというわけです。
だから当時の政府は、設備への新規抑制、すなわち新しく機関車を作ることを規制したわけです。
賃金を上げろ!という圧力がかかる
企業が設備投資を行う際には、労働力も必要となります。
人手不足の場合、賃金を上げてほしい!という圧力が強まり、これも物価上昇の一因となります。
最終的に、預金封鎖は混乱を招くだけで「失敗」した
こうした預金封鎖は、最終的には失敗に終わったと評価されています。
理由は言うまでもな、インフレを抑えるどころか、むしろ世の中を混乱させるだけだったからです。
預金封鎖は、元々は戦後のインフレを抑制するために実施されましたが、結局は様々な問題が生じるだけで、期待されたような効果は得ることはできませんでした。
戦前、多くの仕様が簡略化されてしまい、性能が犠牲になっていたD51
D51は戦時中、
- 深刻な物資不足
- 深刻な人手不足
などの理由により切羽詰まった状況だったため、設計の簡略化が行われたのでした。
まあ、やむを得ず手抜きしたといってもいいかもしれません。
これは「戦闘機」の場合も同じ
戦時中は、零戦などのような戦闘機も、簡略化されすぎたことで、性能の低い戦闘機が量産されたいったのでした。
機関車の場合も簡略化され過ぎて、色んな性能が犠牲になっていったのでした。
特に、
- 資源の枯渇:日本は、元々資源が不足していた
- 金属の不足:みんな軍需品へ、優先的に回されてしまう
- 生産能力の限界:空襲などで、工場が破壊されてしまう
といった事情から、簡略化された機体が求められるというような状況でした。
戦争末期には、
- 空襲による工場への被害
- 熟練した職人の不足
などの要因により、戦闘機の生産能力が大幅に低下してしまいました。
そこで、
- 複雑な設計を簡略化すること→手抜きと同じ
- より多くの機体を、短期間で生産すること→いい加減に作るのと同じ
ということになってしまいました。
零戦についてはこちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
戦時中の簡略化(手抜き)の影響
このように戦時中は、
- 資材不足
- 工数削減
のため、D51も戦時設計による簡略化が行われました。
戦後、元の性能に戻され、D51は性能の向上がなされる
しかし戦後、
- これらの簡略化された部分を、本来の姿に戻すための改造
- 性能を向上させるための改造
が、多数行われてゆきました。
戦後すぐから、1975年にD51の運用が終了するまで、様々な改造が行われてゆきました。
こうしたD51の改造は、現代の鉄道にもつながる画期的なものが多かったのでした。
簡略化(手抜き)されたボイラーの復元
戦後には、戦時中に簡略化されたボイラーを、元の状態に戻す(本来の性能に戻す)という改造がなされたのでした。
ボイラーとは、水を加熱して、温水や蒸気を作り出す装置のことです。
このとき発生する蒸気によって、蒸気機関車ははじめて動くわけです。
D51は、戦前にボイラーがかなり簡略化されてしまったのでした。
悪い言い方をすれば、手抜きをせざるを得なかったのでした。
物資も技術者も、深刻レベルで不足するなかで、まともなボイラーを作っている暇や余裕などは、もはや無かったのでした。
加太越え(関西本線)へのD51の対応
また、D51形蒸気機関車では、関西本線における
- 加太越えなどの勾配がとても急になる区間における、空転防止
のため、
- 砂撒き装置の改良
- 運転台の改良
などの改造が施されてゆきました。
車輪の「空転」とは 列車の進みを妨げる要因
空転とは、車輪が「空回り」し、本来進むべき距離を移動できず、列車の進みを妨げることです。
これは、車輪とレールの間の摩擦力が不足することで発生します。
摩擦力が不足する要因として、
- 雨
- 落ち葉
などによってレールが滑りやすくなると、空転が起こりやすくなります。
「砂撒き装置」とは 摩擦力を上げて空転防止
「砂撒き装置」は、車輪が空転するのを防ぐために、砂を線路に撒まくための装置のことをいいます。
つまり、車輪とレールの間に砂を撒くことで、摩擦力を高め、空転を防止するというわけです。
「加太越え」とは 鈴鹿山脈を越える険しい峠道
加太越えとは、関西本線において、三重県の
- 鈴鹿山脈
- 布引山脈
との間を超えるルートです。
加太峠は、
- 伊勢国
- 伊賀国
の国境となっていた峠です。
かつては、旧・東海道もこの峠を越えていました。
ちなみに、この加太越えの区間については、明治時代の1900年に大和田建樹という方によって作詞された鉄道唱歌においても、
くぐれば早も 伊勢の国
筆捨山の 風景を
見よや関より 汽車おりて
(関西・参宮・南海編 第15番)
詳しくは、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
25‰(パーミル)にもおよぶ、急勾配区間
加太越えの最大勾配は、25‰(パーミル)になります。
つまりこれは、1,000m進むごとに25mの高度が上がるという勾配・坂道ということになります。
鉄道で25パーミルは、かなりきつい部類の坂道になります。
山岳路線で走ることも多かったD51
D51は、この「加太越え」の区間での運用が多かったため、空転対策が特に重要でした。
またD51は、こうした山岳路線で走るということも運用が多かったのでした。
そのため、今回の加太越えのような勾配区間で起こってしまう、車輪の空転の問題は、どうしても解決すべき課題だったのでした。
その他地域でも行われた、D51の空転対策
D51は、もちろん加太越え以外にも、例えば群馬県・長野県の碓氷峠など、他の勾配のきつい区間でも運用されました。
このように、D51で採用されたその画期的な空転対策は、こうした他の勾配のきつい区間でも、有効に機能しました。
碓氷峠については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
D51に新たに付け加えられた「集煙装置」
集煙装置とは、蒸気機関車が吐く煙が車両の中に入ってくるのを防止するために、煙突に取り付けられる装置です。
具体的には、
- トンネルを通過する時に、
- 煙の流れをコントロールし、
- 煙が運転室や車両の中に、進入してくるのを防ぐ
という役割を果たすものです。
D51は、特に勾配やトンネルが多い路線で走ることが多かったため、この集煙装置が多く装備されました。
一酸化炭素中毒の原因にもなっていた、蒸気機関車の煙
蒸気機関車の吐く煙は、一酸化炭素中毒の原因にもなっていました。
蒸気機関車は石炭を燃焼させて動力を得ているわけですが、不完全燃焼によって一酸化炭素が発生することがありました。
一酸化炭素は、人体に取り込まれると血液中のヘモグロビンと結合し、酸素の運搬を妨げるという、負の作用があります。
そのため、一酸化炭素中毒を引き起こす可能性があるわけです。
こうしたことからも、煙をコントロールするための集煙装置の重要性がわかります。
集煙装置の構造・はたらき
集煙装置は、煙突の上に取り付けられている装置であり、上部にフタが付いています。
そして、トンネルを通過する時には、フタを閉じることで、煙の流れを後ろの方に誘導します。
これによって、煙が車両に入ってくるのを防ぐわけです。
ギースルエジェクターの、D51への搭載
ギースルエジェクターは、蒸気機関車の煙突の一種であり、石炭の燃焼効率を高めるための装置です。
オーストリアのギースリンゲン教授によって開発されたため、彼の名前にちなんで、ギースル・エジェクターと呼ばれています。
このギースル・エジェクターにより、
- 排気ガスの流れが、効率的になった
- 列車を引っ張るための、牽引力の向上につながった
- 石炭の消費量が削減できた
- 石炭の燃焼効率が向上した
という効果が生まれました。
D51における運転席の改良
D51の運転席は、運転のしやすさや居住性を改善するために、様々な工夫がなされたのでした。
具体的には、
- 窓の配置や、窓の大きさ
- 列車のスピードなどを示すための、計器類の配置
- 運転士さんが座るイスの形や、置き場所
などのように、D51では運転士さんが快適に作業できるように、様々な配慮がなされました。
というか、運転時さんが運転しづらいような環境であれば、もはやブラック企業ですからね・・・。
また、運転手さんが運転しづらいような電車であれば、運転士さんが運転に集中できず、事故の可能性も考えられます。
そのため、電車の運転席は、運転手さんにとってなるべく快適な環境であることが好ましいわけです。
快適な運転環境は、運転士のモチベーション向上にも繋がると考えられます。
運転士さんのモチベーション向上は、サービスの品質向上にも大きく貢献します。
このように、運転席の改良は、
- 運転士の疲労軽減
- 運転士の作業効率の向上
に、大きく貢献しました。
大きくて見やすくなった、D51の運転席の窓
例えば、窓の配置は、運転士の視界を最大限に確保できるよう、工夫がなされました。
そのため、列車の運転席の窓は、運転手さんにとって非常に見やすいような形になっています。
これにより、事故防止と安全につながります。
操作しやすくなった、D51における運転席の計器類
また、列車のスピードなどを示す計器類も、運転士が直感的に操作できるように配置されました。
また、運転士さんが誤操作を防ぐための、やりやすい工夫も施されました。
運転士さんが座りやすいイスの導入
さらに、運転士さんが座るイスは、長時間運転しても疲労が少なくなるように、人間工学に基づいて、人間の体にフィットしやすいような形に設計されました。
こうして、運転士さんにとって心地よいイスになったわけです。
これらの改良により、D51は運転士にとって、より快適な運転環境を提供できるようになりました。
石炭消費量を抑えるための、D51への改造
D51には、石炭消費量を抑えるための改造が行われた車両も存在します。
例えば、
- ボイラー効率の向上
- 燃焼効率の良いバーナーの採用
などが行われました。
ボイラー効率の向上
戦後のD51では、ボイラーの改造・改良を行ったことにより、
ということができるようになりました。
ボイラーの効率が上がるメリット
つまり、ボイラーの効率が上がれば、
ようになります。
これにより、消費する石炭の量が少なくて済むわけなので、省エネにつながります。
バーナーの改良
バーナー(Burner)とは、「燃やすもの」という意味です。
つまり、燃料を燃焼させて、熱を発生させるための装置のことです。
D51では、従来よりもさらに効率的なバーナーが開発されたため、燃焼効率が向上されてゆきました。
逆に、もしこれがしっかりできないと、蒸気機関車を走らせるだけでも大量に石炭を消費することになってしまいます。
そうなると、非常に無駄が生じることになってしまいます。
しかしバーナーの改造により、D51形は、より少ない石炭でより高い性能を発揮できるようになりなりました。
これにより、よりエネルギー効率のよい、経済的な運用ができるようになりました。
こうした石炭消費量の削減は、機関車の運用コストの削減にもつながってゆきました。
まとめ 鉄道の発展の歴史に大きく貢献したD51
戦後のD51は、以上に紹介してきたような様々な改造によって、より高性能で、使いやすい機関車となってゆきました。
こうした性能向上によって、D51は日本の鉄道輸送の歴史を支え続けました。
D51のこうした性能向上は、現代の鉄道にも大きな影響を与え、生かされています。
D51は、1975年に蒸気機関車の定期運用を終了しました(引退)。
しかし現在では、様々な場所において保存されており、鉄道ファンのみならず、多くの人々にとっても身近な存在となっています。
そしてD51は、今でも多くの人に親しまれているのです。
以上、今回はここまでです。
お疲れ様でした!
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