太宰治が愛した沼津・内浦の絶景と『斜陽』執筆の舞台、そしてアニメの聖地としての魅力などを、わかりやすく解説してゆきます!

沼津・内浦(画像はあくまでAIによるイメージです。実際の景色・人物等ではありませんので、ご了承ください。)
沼津・内浦

内浦・長井崎の景色。Aqoursの曲「君のこころは輝いてるかい?」のPVでも登場した景色ですね。(静岡県沼津市)

内浦・三津(みと)の景色。アニメでは何度も登場したおなじみの景色ですね。(静岡県沼津市)

沼津・内浦・長井崎。同じく、アニメで何度も登場したおなじみの景色ですね。(静岡県沼津市)
そもそも「内浦」とは?

内浦・長浜(静岡県沼津市)
内浦は、静岡県沼津市の南側に位置する、駿河湾の奥深くに抱かれた、非常に穏やかな美しい入り江の地域になります。
すなわち、大自然の恩恵をいっぱいに受けた、風光明媚で心癒される素晴らしいロケーションだというわけです。
波が静かな「天然の良港」

沼津・内浦(画像はあくまでAIによるイメージです。実際の景色・人物等ではありませんので、ご了承ください。)
まず内浦は、古くから船が安全に停泊できる天然の良港として、漁業や海上輸送の拠点として大いに栄えてきたという、輝かしい歴史があります。
天然の良港:地形が深く入り込み、周囲の山や岬が風や波を遮るため、常に穏やかで船が安全に停泊できる港のことです。

「天然の良港」の例。内側に閉ざされて外側の波が届きにくいため、波が静かで、船を安全に止めやすいというメリットがある。(画像はあくまでAIによるイメージです。)
したがって、この内浦の地形は、陸地が複雑かつ深く切り込んだ特別な「湾」の構造になっているため、
- 外の海からの激しい荒波があまり中まで届かず、
- 年間を通して、波があまり立たずにとても静かであり、
- まるで湖のように落ち着いている
- そのため、船が荒波で流されたり傷ついたりせず、いつでも安全に泊められる
というメリットがあったわけです。

沼津・内浦(画像はあくまでAIによるイメージです。)
このように、天候の影響を受けにくい安全な海だからこそ、現在でもこの地域で盛んなアジなどの養殖業が盛んに行われているというわけです。
ちなみに外海とは、陸地や島・岬などに囲まれていない、広大でオープンに開けた外側の広い海(例えば太平洋など)のことになります。
アジやマダイの養殖が盛ん 静かな海のメリットを活かす

江戸時代の漁村のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです)
また、先ほども述べた通り、内浦では養殖が盛んです。
この静かな海を活かして、アジやマダイの養殖が盛んに行われています。
養殖:魚や貝などを卵や稚魚から大切に育てることです。
内浦の穏やかな海を活かし、アジなどが盛んに育てられています。

江戸時代の漁村のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです)
歴史とアニメの交差点
また、この地域は、単に自然が美しいだけでなく、昭和を代表する大文豪である太宰治がかつて滞在して名作を執筆した、文学の街でもあります。
同時に、大人気アニメであるラブライブ!サンシャイン!!のメインの舞台(聖地)にもなったというわけです。

(画像はあくまでAIによるイメージです。)
アニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」とは
ラブライブ!サンシャイン!!とは、沼津市の内浦を舞台に、地元の女子高校生たちが学校の統廃合を阻止するため、スクールアイドル「Aqours(アクア)」を結成して、夢に向かって奮闘する大人気アニメーション作品のことです。
作中には実在する内浦の美しい海や建物、お店が精密に描かれており、国内外から多くのファンが「聖地巡礼」に訪れる社会現象を巻き起こしました。

沼津・内浦(画像はあくまでAIによるイメージです。)
文学とアニメの両方が交錯する町
すなわち、内浦という場所は、
- 歴史ある文学の薫り
- 現代のポップカルチャー
という、新旧の文化が奇跡的に混ざり合う、なんとも不思議な魅力を持つ場所なのです。
内浦と太宰治の関係

内浦・三津(静岡県沼津市)
実は、内浦はアニメファンだけでなく、文学ファンにとっても特別な「聖地」となっています!
名作『斜陽(しゃよう)』の執筆地
昭和を代表する天才文豪・太宰治は、内浦の三津海岸に佇む、大正時代から続く由緒ある「安田屋旅館」に滞在しました。
太宰治は、昭和を代表する小説家です。
名作『斜陽』を執筆するために、ここ安田屋旅館に滞在しました。
安田屋旅館:内浦にある老舗旅館です。
太宰治の執筆の場であり、アニメでは主人公・高海千歌の実家のモデルにもなりました。
彼は駿河湾越しに美しくそびえ立つ富士山の絶景を眺めながら、自らの心を深く研ぎ澄ませていきました。
そして1947年に、ここで彼の生涯における代表作の一つである小説『斜陽』のうち、物語の導入となる重要な第1章と第2章を一気に書き上げたのでした。
斜陽:沈みゆく夕日のことで、転じて戦後に没落していく上流階級の悲哀を描いた、太宰治の代表作です。
『斜陽』の冒頭と安田屋旅館
という有名な書き出しから始まる太宰治の『斜陽』。
そもそも「斜陽(しゃよう)」とは?
この「斜陽」という言葉には、本来の美しい景色と、「少し切ない意味」の両方が込められています。
本来の「斜陽」の意味は、「夕方、西に傾いた太陽、またはその光」のことをいいます。
太宰治が込めた意味 社会現象にも
ここで、太宰治の小説における「斜陽」とは、戦後になってこれまでの地位や財産を失っていった上流階級(貴族)の人々のことを「沈みゆく太陽」に例えた言葉です。
この小説が大ヒットしたため、没落した家柄の人を「斜陽族」と呼ぶ流行語まで生まれました。
すなわち、没落したそれまでの上級国民や特権階級の人達に「そら見たことか」というニュアンスも含まれる、若干冷やかな表現ですね。
彼ら(特権階級の人々)は、いわば「自分たちが一生をかけて働いても得られないような特権」を「生まれながら」にして既に持っていたわけなので、戦前まで人々がずっと彼らに対して抱いていた不公平感や不平等感が、一気に爆発したという、一種のカタルシス(つまり、すっきりした気持ち)のようになっていたのでしょう。
戦後の貴族没落と社会の空気
このように、当時は華族制度の廃止ということ、それまでの特権階級にあぐらをかいていた「上級国民」の皆さんが没落をしてしまったことに対して、いわゆる「ざまぁ」という感情が浮いてくるような風潮すらあったのでした。
太宰治はこうした時代の流れに敏感だったため、ある種の人々の心のカタルシス(すっきりする心)を見事に掴んで、見事に大ヒットさせたのかもしれません。
そもそもなぜ「華族制度」なる特権階級があったのか
ならばなぜ、逆に「華族制度」なる特権階級がそもそも日本にあったのか?って思いますよね。
明治時代には四民平等といって本来は全ての人々が平等であったはずなのですが、実際にはそれまで(江戸時代)の公家や大名といった高貴な人から特権を奪って身分を無くして(平等にして)しまうと、彼らが不満を持って反乱を起こしてしまうことは明白だったのでした。
そのため、実際には華族といった制度が設けられていて、戦前の日本はまだ「完全な平等」とは程遠いものがあったのでした。
莫大な小作料と貴族院議員だった津島家
ちなみに太宰治の青森県の津軽の実家である津島家(太宰治は本名を津島修治といいます)は華族ではありませんでしたが、あまりにも(自分たちが持っている広大な土地を、力が弱い地元の農民の皆さんに貸し出して得られるレンタル料である)「小作料」などで儲けまくっていたので、津島家はあまりにも納税額が大きかったのでした。
当時は、後述するような尾崎行雄さんたちが大正時代に普通選挙を実現するまで(あるいは戦後に、全ての20歳以上の男女に選挙権が与えられるまで)は、高額納税者にしか参政権や選挙権が与えられなかったのでした。
津島家はこの納税額が大きかったために(当時としては珍しい)参政権を持っており、華族出身ではないのですが貴族院の議員となっていました。
大衆のカタルシスと太宰が抱いた「斜陽・没落への憧れ」
話がややずれましたが、本題に戻ります。
すなわち、それまで特権階級にあぐらをかいていたことによる「上級国民ざまぁ」という、一種のシャーデンフロイデ的な要素が当時の国民の中で広がっていたことも、太宰治本人が感じ取っていたとも考えられます。
シャーデンフロイデ:いわゆる「上級国民が没落してざまぁ」「人の不幸は密の味」「メシウマ案件」的な、それまで特権階級にあぐらをかいている人たちが没落すると、一種の快感を覚えるような心理のことです。
「大地主の息子」としての葛藤とコンプレックス
現在でも皇室バッシングはあるぐらいですし、あと太宰治本人も、自分が生まれながら大地主の子として生まれてきて、
- 自分自身が裕福な生活をできているのは、
- 誰か他人の犠牲(自分たちの広大な土地を小さな農民に貸し出してレンタル料をもらえるという、
- いわば膨大な小作料)のもとに成り立っていた
ってことを、ずっとコンプレックスに感じていたのでした。
そのため、彼は斜陽とか没落という矛盾した憧れがあったのではないかと推察されます。
東京での放蕩生活と深まる自己嫌悪
結局、(自分の努力のおかげでもなんでもない、生まれながらの裕福であることに苦悩してしまった)太宰治は、いわゆる没落することに憧れてしまって、東京で自堕落な生活(いわゆる、放蕩生活)を送るわけです。
しかしながら、結局は青森の裕福な実家の仕送りに頼ることになり、これによってさらに自己嫌悪に陥り、精神を病んでいったものと考えられます。
沼津・内浦の海を選んだ太宰治
傷ついた心を包み込んだ内浦の静寂
したがって、
- 都会の喧騒から遠く離れた、この内浦の穏やかな海と静寂が、
- 彼の傷ついた心を静かに癒やし、
- 文学史に残る名作を生み出すためのエネルギーを与えてくれた
というわけです。
都会の喧騒:大都市の騒がしさや慌ただしさのことです。
太宰治も現代のファンも、この喧騒を離れて、内浦の静寂に癒やされています。
太宰治が愛した「内浦」の景色
彼もまた、穏やかな内浦の海と、目の前にそびえる富士山に心を癒やされた一人でした。
太宰治は、心の平穏を求めて内浦を訪れました。
内浦の海は驚くほど穏やかで、まるで湖のようです。
すなわち、都会の喧騒に疲れていた彼にとって、この静かな水面は心を落ち着かせるための、最高の薬だったのでした。
また、目の前にそびえる富士山の美しさが、彼の創作意欲を刺激しました。
すなわち、美しすぎる景色の中に、自分の孤独を重ね合わせていたのかもしれませんね。
「憲政の神様」尾崎行雄と内浦
安田屋旅館を愛した政治家・尾崎行雄
太宰治のほかにも(それ以前に)安田屋旅館をこよなく愛した政治家は、かつて「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄です。
憲政:憲法に基づいて行われる、民主的な政治のことです。
ちなみに、安田屋旅館は明治20年(1887年)に創業し、また大正7年(1918年)に現在の内浦三津に移転しています。
そして、尾崎行雄は大正から昭和の初め頃にかけて、保養(リフレッシュ)のために幾度も滞在していました。
そんな彼は内浦ならではの温暖な気候と、安田屋旅館のもてなしを気に入り、後述するような激しい政治論争などからの疲れを癒すために、何度も滞在したのでした。
尾崎行雄が「憲政の神様」と呼ばれた理由
尾崎行雄がなぜこれほどまでに尊敬されているのか、それには彼の凄まじい信念が関係しています。
勇気ある演説と普通選挙への道
尾崎行雄は、特に大正時代の「第一次護憲運動」では、国民の代表として政府を厳しく問い詰め、大正デモクラシーのリーダーとしてその姿が多くの日本人に勇気を与えました。
彼(尾崎行雄)の究極の目的は、明治以来の薩長出身の政治家でほとんど占められていたことによる藩閥政治(特権支配)を打破し、身分や納税額に関わらず誰もが政治に参加できる「普通選挙」を実現することでした。
先ほどの太宰治のところでも触れた通り、当時は高額納税者くらいしか政治に参加する権利(参政権)が認められていなかったので、彼らは「普通選挙」の実現を求めて立ち上がったのでした。
なぜ明治時代は薩長の「独裁」のような、不平等な政治だったのか?
ではなぜ、明治時代はまるで薩長の「独裁」のような、不平等な政治だったのでしょうか。
なぜ大正時代に人々は大正デモクラシーと言って、自由な選挙を求めたのでしょうか。
まず薩摩(鹿児島県)・長州(山口県西部)の両藩は、かつて1600年の関ヶ原の戦いで敗れてしまったので、江戸時代に外様大名(むしろ「徳川の敵」)として、約260年間にわたって不遇な扱いを受け続けてきたのでした。
そのため、薩長両藩の長年にわたる鬱憤・不満を見事に晴らしたのが、まさに幕末の討幕でした。
その功績が認められて、明治時代からは逆に(伊藤博文・黒田清隆らの)薩長中心の政治家が日本をリードしていたわけですが、逆に言えばそれ以外の人(他の藩の出身者など)にはろくに権力が与えられなかったため、政治に対して一種の不平等感があったわけです。
大正デモクラシーと普通選挙法の成立
こうした不平等感を解消するために立ち上がったのが、尾崎行雄らを中心とする大正デモクラシーでした。
彼らの運動の成果もあって、完全な平等ではありませんが、1925年には普通選挙が実現しています。
このように、尾崎行雄は日本の民主主義の土台を作った「生ける伝説」として、「憲政の神様」と呼ばれるようになったのです!
尾崎行雄が内浦の海を愛した「絶景の理由」
彼(尾崎行雄)がその晩年を過ごす場所として内浦を選び、またここの安田屋旅館に滞在した理由には、彼ならではのしっかりした「審美眼」がありました。
審美眼:ものごとの美しさを、正しく見分ける力のことです。
「富士山と淡島が同じ高さ」という発見
彼は、安田屋旅館から眺めるこの景色のことを、
と絶賛しました。

内浦ではこのように、富士山と淡島がほとんど同じような高さで眺めることができます。(静岡県沼津市)
それはまるで、計算されたような美しさに見えたかのようでした。
日本一高い富士山と、海に浮かぶ小さな淡島。
この2つが遠近法によって絶妙なバランスで並ぶその景色を、彼は「日本一の絶景」だと愛してやみませんでした。
遠近法:遠くにあるものを小さく、近くにあるものを大きく描くことで、奥行きを感じさせる方法です。
激闘の政界を生き抜いた心を癒やす調和の美
すなわち、彼は政治の世界での激しい戦いの後、この「完璧な調和」を保った景色に、心からの安らぎをここに見つけていたというわけですね。
今でもこの内浦の海から、かつて尾崎行雄が愛した「同じ高さの富士と淡島」を見ることができますよ。
おわりに・まとめ
沼津・内浦の静かな海と、そこに息づく文学やアニメの物語、いかがでしたか?
太宰治が執筆の舞台として選び、尾崎行雄がその絶景を愛したこの場所は、今も変わらない癒やしの空気に満ちていますね。
文学の薫り高い歴史と、アニメの聖地として盛り上がる現代。
異なる文化が不思議と調和する内浦の風景は、訪れる人に特別な時間を与えてくれます。
ぜひ今度の週末は、太宰治が愛した海を眺めながら、自分だけの物語を探しに出かけてみてくださいね!
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