まずは原文から!
月(つき)は姥捨(おばすて)須磨(すま)明石(あかし)
花はみよしの嵐山(あらしやま)
天下一つの梅林(ばいりん)と
きこえし名所は此山(このやま)ぞ
さらに読みやすく!
月(つき)は姥捨(おばすて)須磨(すま)明石(あかし)
花はみよしの嵐山(あらしやま)
天下一つの梅林(ばいりん)と
きこえし名所は此山(このやま)ぞ
さあ、歌ってみよう!
♪つーきはおばすて すまあかしー
♪はーなはみよしの あらしやまー
♪てーんかひとつの ばいりんとー
♪きこえしめいしょは このやまぞー
(関西本線/大和路線)
木津駅→加茂駅
(関西本線)
加茂駅→笠置駅→(木津川橋りょう)→大河原駅→月ヶ瀬口→伊賀上野駅→佐那具駅→柘植駅→(鈴鹿峠のトンネル)→関駅→亀山駅→四日市駅→桑名駅→長島駅(→至・名古屋駅)
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。
今回は三重県西部・伊賀地方(いがちほう)にある、月ヶ瀬梅林(つきがせばいりん)についての話題になります。
まず、歌詞に出てくる様々な名所について確認していきましょう。
姨捨山(おばすてやま)とは、長野県にある山であり、別名「冠着山(かむりきやま)」とも呼ばれます。
月が美しい棚田(たなだ。山の斜面に沿って段々に広がる田んぼのこと)に映る、月が田んぼごとに映るような景色が美しいことで知られます。これを「田毎の月(たごとのつき)」と言います。
田毎の月については、鉄道唱歌 北陸編 第26番でも歌われており、以下の記事でも解説していますのでご覧ください。
鉄道唱歌 北陸編 第26番 「田毎の月」 多くの詩人や絵師に愛されてきた、月の名所
須磨(すま)とは、現在の兵庫県神戸市須磨区(すまく)にあたる地名です。
源平合戦のときは、「一ノ谷の戦い」の舞台となったり、無念にも敗れた平敦盛(あつもり)が持っていた「青葉の笛」が置かれている「須磨寺(すまでら)」があります。鉄道唱歌 山陽・九州編 第2番~第4番にかけて歌われており、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 山陽・九州編 第2番 須磨の名所旧跡めぐり 平敦盛と熊谷直実の戦いの伝説
明石(あかし)とは、現在の兵庫県明石市にあたる地名で、上記の須磨区と(垂水区を間に入れて)隣接しています。向こう岸の淡路島(あわじしま)との間にかかる明石海峡大橋や、「朝霧(あさぎり)の~」と明石の浦を奈良時代に歌に詠んだ柿本人麻呂(かきのもと ひとまろ)で有名な場所です。鉄道唱歌 第6番でも歌われており、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 山陽・九州編 第6番 明石の海の景色と、柿本人麻呂の歌 そして東経135度の「時間の街」
しかし、須磨区や明石が歌詞の通りに月の名所と呼ばれる所以(ゆえん)については、調べたのですがわかりませんでした。
もちろん明石海峡は月の景色は想像しただけでも素晴らしいと思いますし、もしかしたら柿本人麻呂の歌にも関係あるのかもしれません。
ここに関してはもう少し詳しく調べてもよかったのですが、ここに時間を費やしすぎると先へ進めないので、一旦ここでギブアップさせてください。
わかり次第、追って加筆します!
嵐山(あらしやま)とは、現代の我々が知るところでは「京都の嵐山」が真っ先に思いつきます。
歌詞によれば、嵐山は花の名所であるという言及がなされています。
鉄道唱歌 東海道編 第50番においても
「桜は春の嵯峨御室(さがおむろ)」
とあり、いわゆる「仁和寺(にんなじ)」というお寺の「御室桜(おむろざくら)」が知られます。
嵐山のある一帯の観光地は、古く(平安時代の頃)から「嵯峨野(さがの)」と呼ばれ、天皇をはじめとする皇族のリフレッシュや余暇を過ごすための場所として使われてきました。今でも京都の超人気観光スポットであり、桂川(かつらがわ)に架かる渡月橋(とげつきょう)が印象的です。
嵯峨嵐山については、以下の記事でも解説しておりますので、ご覧ください。
月ヶ瀬村(つきがせむら)には、前回解説したとおり、梅の名所で有名な月ヶ瀬梅林(つきがせばいりん)というものがあります。
歌詞によれば、月ヶ瀬梅林は「天下に一つの梅林」と言及されています。その月ヶ瀬梅林の歴史について、少し深掘りしてみましょう。
月ヶ瀬梅林は、元々は梅の花を用いた塗料(化粧に用いるもの)を造って販売するために植えられ、栄えました。
梅の花は、口紅などの「赤く染める」材料として役に立つからです。
江戸時代、年貢の取り立てが厳しいことに月ヶ瀬の人々は困り果てていました。
しかし、月ヶ瀬は周囲が山がちで、平らな土地があまりなく、農業に適していない地域だったため、他の地域のように農作物を作って売って利益を上げることができませんでした。利益が上がらなければ、年貢(税金)を収めることもできないからです。
そこで、その代わりに梅の木々を育てて、その梅から取れる(化粧や口紅の着色料となる)材料を京都や大阪の町にたくさん売り、大きな利益を上げることができました。こうして、月ヶ瀬の人々はようやく暮らしが安定して良くなったとされています。
このようにしてたくさん植えられた梅の木々が、やがてそれは(辺り一面ピンク色に染まる)見事な景観となり、江戸時代や明治時代以降の観光の名所として「月ヶ瀬梅林」は知られるようになったのです。
さらに、月ヶ瀬は奈良時代には「材木置場」としての役割を果たしていました。
奈良時代、奈良のお寺を造るにもお屋敷を造るにも、木材はたくさん必要でした。
そのため、山林の多い月ヶ瀬一帯の木々を、木津川(きづがわ)の舟に載せて運んでいたのでした。
昔はトラックも貨物列車もありませんでしたから、舟に載せて大量の木材を運ぶのが一番効率が良かったのです。
しかし、山から採った木材はいっぺんに運ぶのではなく、必要になったときに必要な分だけ運ぶ必要があります(今の時代でいう「オンデマンド(On Demand)」)。
そのため、一時的に木材をある場所に溜めておいて、必要になったときだけ舟に載せて運ぶということをやっていました。その場所が月ヶ瀬というわけです。
港などでよく見かける「倉庫」も、必要になるまでそこに保管・ためておくための設備になります。
こうした「木材を一時的に置いて置く場所」は、東京都江東区(こうとうく)の「木場(きば)」「新木場(しんきば)」という地名がその由来を持っています。
木場、新木場も江戸時代に一時的に木材をためておく場所だったことから、このような地名になりました。
関西の木津(きづ)も、木材をたくさん保管しておく場所(舟を泊めておくための港(津)のような場所)だったことから、木津という名前がつきました。
次は、柘植駅(つげえき)に止まります!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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