【江戸時代のお米】武士の給料は?儲かってた?わかりやすく解説!【後編】

江戸時代の経済の変化(新田開発→米価下落→武士の金欠→商人の台頭→娯楽の発展→倹約→明治維新)まで、わかりやすく解説してゆきます!

  1. 今回は、江戸時代の経済の変化についての話題
    1. 江戸時代の米生産と年貢の仕組み
  2. 江戸時代のお米と経済の流れ 簡単なまとめ
    1. ​江戸経済の興隆から崩壊へのロードマップ
    2. ​生産力の爆発と「石高」の競争
      1. 江戸のはじめ 「外様大名」が各地に配置される
      2. 大規模に新田開発して、お米の生産量を上げていく
      3. お米の生産効率を上げるアイテムが次々に登場
      4. 干拓などで陸地を増やし、どんどん米の生産量が上がっていった
      5. 米の大量生産が成功したことにより、​人口大爆発へ
      6. ​人手不足と出稼ぎ
    3. 大量生産によってもたらさらた、米価の下落
      1. 生活コストが跳ね上がってしてしまう
      2. ​武士の悲鳴 生活が一気にきつくなる
      3. 商人の台頭 人口爆発による需要増加などで、かえって儲かるように
    4. 町人​​文化(娯楽)の隆盛と、江戸幕府の焦り
      1. 商人が儲かり、娯楽が発展する
      2. 庶民や武士の贅沢に「待った」をかけた、​寛政・天保の改革
      3. 無理な節約 経済の冷え込み
    5. ​明治維新と武士の終焉
      1. 武士の給料を廃止する秩禄処分(ちつろくしょぶん)
      2. ​西南戦争
  3. 幕府の対策:なぜ「根本解決」ができなかったのか
    1. ​幕府がやったこと(各種改革など)
      1. 贅沢を禁止する「​倹約令」
      2. 貨幣に含まれるゴールドの両を減らす「​改鋳(かいちゅう)」
    2. ​なぜ根本解決できなかったのか?
    3. ​明治維新という「強制的アップデート」
      1. ​武士のリストラ
      2. ​武士も商売するように しかし慣れない商売に失敗…
  4. おわりに・まとめ

今回は、江戸時代の経済の変化についての話題

江戸時代の米生産と年貢の仕組み

前回も解説した通り、​江戸時代において、お米は単なる食べ物ではなく、国の経済を支える「お金」そのものでした。
そして​江戸時代の武士は「お金」ではなく、お米で給料をもらっていたのでした。

詳しくは、以下の前回の記事でも解説していますので、ご覧ください

【江戸時代のお米】武士の給料は?儲かってた?わかりやすく解説!【前編】
江戸時代の武士の給料とお米の関係について、「江戸時代の経済の流れ」「武士の生活の実態」などを踏まえてわかりやすく解説してゆきます!今回は、江戸時代の武士の給料についての話題江戸時代の米生産と年貢の仕組み​江戸時代において、お米は単なる食べ物...

江戸時代のお米と経済の流れ 簡単なまとめ

​江戸経済の興隆から崩壊へのロードマップ

ここからは江戸経済の「光と影」に迫る、江戸時代の武士の給料・お米などにまつわる流れを説明してゆきます。

すなわち、お米を基盤にしてきた社会が、自分たちの努力(新田開発)によって、なぜか皮肉にも崩壊してしまうというなんともダイナミックな流れ・過去の失敗から学ぶべきポイントがここにあります。

​生産力の爆発と「石高」の競争

まず江戸時代のはじめ、外様大名は幕府から警戒されていたため、軍事力を示す指標である石高を増やすことに必死でした。

江戸のはじめ 「外様大名」が各地に配置される

​関ヶ原の戦いが終わり、平和な世の中が訪れることとなりました。
すると、外様大名たちは生き残りのために「軍事力」ではなく、「経済力」つまり石高こくだかをお互いに競っていくようになりました。

外様大名たちは「関ヶ原」の直前またはそれ以後に徳川家に従った大名たちであり、中には「関ヶ原」のときに徳川家康に敵対した大名たちもいたため、幕府に信頼されていなかったのでした。
そのため、幕府謀反むほんの疑いをかけられないよう、兵を鍛える代わりに、領地の石高(お米の生産量)を増やすことに全力を注いでいったというわけです。

江戸時代における外様大名に対する厳しい取り締まりについては、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

大規模に新田開発して、お米の生産量を上げていく

新田開発が進み、収穫量が増えていくことで、日本全体の人口も激増してゆきました。

例えば川の水を田んぼに引いてくるなどして、大規模な治水工事が進みました。
この時期、日本中で大規模な土木工事が行われました。

お米の生産効率を上げるアイテムが次々に登場

また、

  • 備中鍬びっちゅうぐわという、硬い土を深く掘り起こせる新しい農具の登場
  • 脱穀を劇的に早くした、千歯扱せんばこきなどの発明

が、生産効率を爆発的に高めてゆきました。

備中鍬などをはじめとする、岡山藩の新田開発などについては、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

干拓などで陸地を増やし、どんどん米の生産量が上がっていった

さらに、

  • 海の水を干上がらせて、海を陸地に変える「干拓かんたく
  • 山をや何もない土地切り開く「開墾かいこん

などの工事によって、江戸時代初期から中期にかけて、つまり17世紀の100年間で、日本の耕地面積は約2倍になったと言われています。

米の大量生産が成功したことにより、​人口大爆発へ

このように、お米が安定して供給されたことで、人口も激増しました。
江戸時代初期の約1,200万人から、中期には約3,000万人まで増えたと言われています。

人が増えれば、当然ながら衣食住に関わるあらゆる「サービス」への需要が生まれます。
すなわち、人が増えれば、服や油、お酒などのニーズが増えます。

​人手不足と出稼ぎ

人口が増えると買い物をする人も増えるため、必然的に人手不足になります。

農村から都市(江戸・大阪)へと人が流れてゆき、都市のサービス業が発展してゆきました。)

大量生産によってもたらさらた、米価の下落

生活コストが跳ね上がってしてしまう

​お米の生産が増えすぎて価値が下がっていく一方で、油・醤油・木綿などの生活用品諸色しょしき)の値段は上がっていってしまいました。

諸色しょしき:江戸時代に、お米以外の主要な商品や、生活物資などの全般を指す言葉です。

まあ現在でもそうですが、生活に必要な物(生活必需品)の値段が上がってしまうと、かなりきついものです。

​武士の悲鳴 生活が一気にきつくなる

幕府が決めた給料(石高)の「数字」は変わりませんが、それを換金したときの手取り額が激減してゆきました。

お米以外の商品の値段が上がる。
したがって、お米で給料をもらう武士たちは、どんどん金欠に陥り生活は苦しくなってしまいました。

商人の台頭 人口爆発による需要増加などで、かえって儲かるように

また、米の大量生産により人口爆発が起こると、需要増加などが起こりモノがたくさん売れるようになるため、商人たちはかえって儲かるようになります。○すると、モノを動かし、お金を貸す商人が実質的な経済の主導権を握るようになります。

  • 角倉了以すみのくらりょういによる保津川ほづがわ富士川ふじかわの開削
  • 高田屋嘉兵衛たかただやかへえによる北海道・函館を拠点とした豪商

など、商人がインフラや物流を支配する時代が来ましたね!
すなわち、このような豪商が、川を切り拓いて物流網を支配したのもこの時期ですね。

角倉了以による富士川の開削については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
高田屋嘉兵衛による函館の経済発展については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

町人​​文化(娯楽)の隆盛と、江戸幕府の焦り

こうしてお金を持った商人(町人)たちは、娯楽にお金を使い始めます。
これが、浮世絵や歌舞伎、あるいは華やかな着物といった「町人文化」の発展に繋がりました。

商人が儲かり、娯楽が発展する

そして見事に儲かった​お金を手にした町人たちが、浮世絵歌舞伎読本よみほんなどの華やかな文化・娯楽を育ててゆきました。
しかしその一方で、

  1. 武士体面たいめん(メンツ)を保つために、
  2. 商人に頭を下げて借金をし、
  3. 商人はその利子で、さらに潤う

という、身分制度とは真逆の経済的立場が完成してしまったのでした。

庶民や武士の贅沢に「待った」をかけた、​寛政・天保の改革

しかし、このような借金まみれの武士たち、贅沢に走っていく町人たちを放っておけない幕府は、強力なブレーキをかけます。​すなわち、こうした状況を危惧した幕府は、

  • 松平定信まつだいらさだのぶ:(寛政かんせいの改革)
  • 水野忠邦みずのただくに:(天保てんぽうの改革)

らによって、大規模な財政立て直しを試みます。

まずは倹約令を出して(町人だけでなく、武士にも)、人々の娯楽贅沢を厳しく制限しました。

  • 武士の誇りを取り戻せ!」→町人の贅沢を下げて、武士に誇りを持たせたい狙い。
  • 贅沢は敵だ!

といわんばかりに、幕府は人々の娯楽を厳しく取り締まってゆきました。

このようにして寛政・天保の両改革は、贅沢を禁じ、人々の遊びを奪い、さらには出稼ぎで江戸に来ていた農民を、無理やり村に帰そうとしました(帰農令・人返し令)。

無理な節約 経済の冷え込み

しかし、すでに経済が「回ること」で成り立っていたため、消費を抑えるようや改革はかえって景気を冷え込ませ、人々の不満を爆発させるという本末転倒な結果となってしまいました。

すなわち、既にに複雑な流通網消費活動で回っていた「資本主義的な経済」は、こうした「改革」による無理な締め付けによってストップしてしまいます。
世の中にお金が回らなくなり、景気は冷え込み、人々の不満は爆発しました。

無理な締め付けは、単に人々の不満を募らせるだけの結果に終わってしまい、そうこうしている間に幕末を迎えることになりました。

​明治維新と武士の終焉

幕末の混乱を経て明治時代になると、ついに「お米で給料を払う」というそれまでの仕組み自体が廃止されます。
明治時代になると、政府は根本的な改革に乗り出します。
まずは1873年の地租改正ちそかいせいにより、税金は「お米」ではなく「お金」で納めるルールに変わりました。

初めは3%という厳しめの税率・税金を課して、払えなくなって不満が爆発した人々から伊勢騒動などの暴動を起こされたりもしました。
しかしこうした反乱が起きたことに政府はこりごり・参ったようで、税率をその後に2.5%に下げています。

武士の給料を廃止する秩禄処分(ちつろくしょぶん)

秩禄処分ちつろくしょぶんとは、武士の特権だった給料を完全にカットするという政策です。

明治政府になり、それまでの江戸時代の武士の給料(家禄)廃止するというこの秩禄処分ちつろくしょぶんという政策が行われました。
これに怒った元武士(士族)たちが、我が国最後の大規模な反乱として起こしたのが西南戦争です。

​西南戦争

西南戦争とは、1877年に起きた、もはや生活ができなくなった元武士(士族)たちの怒りが爆発したという、我が国において最大にして最後の士族反乱ですね。

西南戦争については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

幕府の対策:なぜ「根本解決」ができなかったのか

​「明治まで何もなされなかった」というイメージ、実は正解に近いです。
幕府も手をこまねいていたわけではありませんが、その対策がことごとく「的外れ」だったのが悲劇でした。

​幕府がやったこと(各種改革など)

棄捐令きえんれいとは、武士の借金を強制的にチャラにするという、究極の徳政令です。
一瞬は助かりますが、当然のことながら商人は怒って二度とお金を貸さなくなり、逆に武士が困るという悪循環を招きました。

贅沢を禁止する「​倹約令」

今度は「贅沢をやめろ、お米を食べろ、綿の服を着ろ」という精神論です。
しかし、経済が「消費」で回っている都市部では、これが景気を冷え込ませるだけで逆効果でした。

貨幣に含まれるゴールドの両を減らす「​改鋳(かいちゅう)」

また、幕府はそれまでの貨幣に含まれる金(ゴールド)の量を減らして、無理やりお金の流通量を増やそうとしました。
しかしこれでは、そもそものお金の価値が下がってしまいます。
貨幣に含まれてる金(ゴールド)の量がそもそも少ないわけなので当然です。

これは一時的な延命にはなりましたが、質の下がった貨幣が蔓延したことでお金の価値が下がる(逆にモノの価値が上がる)ことで激しいインフレを引き起こし、庶民の生活をさらに圧迫しました。

​なぜ根本解決できなかったのか?

​それは、幕府が最後まで「お米が経済の主役である」という前提(石高制)を捨てられなかったからです。
つまり、世界がすでに貨幣経済貿易へとシフトしている中で、幕府はあくまでも「お米をベースにした封建社会」を守ろうとしすぎたんですね。
これを根本から壊し、「土地に税金をかける(地租改正)」という近代的なシステムに変えるには、明治維新という革命が必要だったというわけです。

ちなみに​地租改正ちそかいせいとは、1873年、明治政府が行った税制改革のことです。
すなわち、「お米」の収穫量ではなく、土地の価格(地価)に対して3%(後に2.5%)の「現金」を納める仕組みに変えました。
これによって、それまでのお米で税金を納めるという仕組みは、事実上廃止されたのでした。

​明治維新という「強制的アップデート」

​武士のリストラ

明治時代になり、数百年続いてきた武士への給料(家禄)を、政府が「もう払えません」と打ち切りました。

​武士も商売するように しかし慣れない商売に失敗…

こうして「四民平等」により武士の特権秩禄ちつろく)は廃止されることとなりました。
しかしその代わり、武士もであっても商売をしていい、農業をしてもいい、という自由を与えたのでした。
しかし、プライドの高い武士たちは慣れない商売をうまくできずに大失敗してしまい「武士の商法」と笑われることにもなってしまいました。

このように、江戸時代の税制は、あくまでも「お米」という「実物」に頼っていたからこそ、その収穫によっては天候経済の変化に左右されやすかったというわけですね。
すなわち、​お米という「現物」に縛られた江戸時代のシステムは、農業の成功によって自滅していった…。
そう考えると、歴史の皮肉を感じますね!

おわりに・まとめ

いかがだったでしょうか。今回の内容にもあったように、

  1. ​お米を作れば作るほど(新田開発)、
  2. お米の価値が下がって武士が窮地に陥り、
  3. 皮肉にも商人が豊かになって、町人の文化(娯楽)が栄えた
  4. しかし幕府の改革により、厳しく取り締まられた

という流れがみえてきたのではないでしょうか。

​このように、江戸時代は「お米という古いシステム」と「貨幣という新しいシステム」がそれぞれ戦うことになり、最終的に貨幣が勝った時代であるとも言えますね。

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