東海道五十三次で最初(1番目)の宿場町・品川宿について、かつて海の見える景色だった歴史などをわかりやすく解説していきます!
東海道・品川宿

東海道・品川宿(東京都品川区)
江戸時代の旅の始まり、品川宿についてお話ししますね!
東海道の第一宿として栄えたこの場所には、現代の品川駅周辺からは想像もつかないような、活気あふれる物語が詰まっているんですよ。
旅の始まりと「食い詰め」の境界線
東海道五十三次で最初の宿場町
品川宿とは、現在の東京都品川区に存在した、東海道五十三次の第一番目の宿場であり、江戸の玄関口として機能していた、場所です。
すなわち、西へ向かう旅人にとっては最初に訪れることになる宿場町であり、江戸(東京)にやってくる旅人たちにとっては最後にくぐるべき宿場町ということになります。
品川宿には、かつて多くの宿や店などが並んでおり、多くの旅人たちが夜遅くまでワイワイガヤガヤ騒いでいたいた場所です。
江戸と「そうではない場所」の境界線の一つ
先ほども少し述べた通り、江戸時代、日本橋を出発した旅人が最初にたどり着くのが品川宿でした。
すなわち、実はここ、旅の拠点としてだけでなく、
- 南側へ向かう旅人たちにとっては「ここから先は江戸ではなくなる」
- 京都方面から来た旅人たちにとっては逆に、「ここから先は江戸の町なかでである」
江戸の境界線としての役割も持っていたというわけです。
東海道の宿場町としての品川宿
徳川家康が整えた日本の大動脈「東海道」
昔は新幹線などなかった
東海道とは、江戸時代の五街道の中で最も重要な幹線道路です。
当時は東海道新幹線などあるわけがないので、徒歩や馬がメインだったのでした。
何日間も歩いて京都方面まで向かうために、せめてもの歩きやすく・泊まりやすくするために、幕府が税金かけてまで整備したのが、東海道であるというわけです。
またこうした道ができたことで、「一生に一度はお伊勢参り」ということで、江戸(東京)からはるか遠く三重県までの伊勢神宮への参拝への旅が、江戸時代に庶民たちの間で大変盛んに行われたというわけです。
江戸から京都まで約20日間 はるばるかけて旅する道

江戸時代の東海道のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです)
東海道は、江戸の日本橋から京都の三条大橋までを結ぶ、全長約492kmの道でした。
当時は東海道新幹線などありませんでしたから、江戸から京都まで20日間もかけて、徒歩または馬ではるばると進んでいったわけです。
全部で53の宿場町があった「東海道五十三次」
よくある呼ばれ方が「東海道五十三次」というものですね。
途中に53の宿場町があったからこのように呼ばれます。
したがって、当時の旅人は毎日ひたすら歩き、この宿場を一つずつ進んでいったというわけです。
五街道とは?当時としてはキレイで画期的な道だった
五街道:△とは、江戸時代に、幕府の税金を投入してまで全力で整備された、江戸を中心に全国へ伸びる、5つの主要な道路のことです。
参勤交代の時にもお偉い大名さまが江戸と地元を往復するためにも使われた、重要な道路でした。
- 東海道:江戸から京都まで、太平洋側を通るメインルートです。
- 中山道:江戸から京都まで、山間部を通るルートです。険しい山岳地帯を通ることが多いため、宿場町の数が多く、またそれぞれの距離・間隔が短いいが特徴です。
- 甲州街道:江戸から甲府・諏訪湖あたりまでを結び、東海道や中山道ががパンクした時の万が一の非常時の避難路(バックアップルート)でもありました。
- 日光街道:徳川家康が祀られている日光東照宮へと続く道です。
- 奥州街道:江戸から現在の東北方面へと続く道です。
現代と違って舗装されていないため、雨が降ればぬかるみ、ホコリも舞い上がるような道でしたが、当時としては非常にキレイで画期的な道でした。
夏は厳しい日差しから守るため、冬は厳しい雪風から旅人たちを守るため、街道の横には並木が整備されていました。
現在は国道のルートにほぼ踏襲
この五街道は、明治時代以降は鉄道がメインになっていったため、徐々にその役割は失われていきました。
また現在の多くの国道も、こうした五街道を基準にした・準拠したものが多いと言えます。
- 東海道→国道1号
- 日光街道・奥州街道→国道4号
- 甲州街道→国道20号
- 中山道→国道17号・国道18号・国道19号など
江戸の玄関口、品川宿はまさに「境界」
日本橋から約2里(約8km)の距離にあり、旅人がここでわらじを履き替えたり、見送りに来た家族と別れたりする場所でした。
二里にり△:昔の距離の単位で、1里は約4kmです。
したがって、二里は現代の徒歩で約2時間ほどの距離になります。
すなわち、ここを越えると「江戸の外」に出るという心理的な節目でもあったのですね。
品川のかつての「江戸の南の門」としての緊張感
東海道最初の宿場町である品川は、西側からやってきた旅人にとっては、江戸に入ってくるための最初の関門ゲートである「高輪大木戸」という、巨大な門の手前に位置していました。

高輪大木戸のイメージ図(画像はあくまで AIによるイメージです)
現在の品川駅(東京都港区)のやや北にある高輪ゲートウェイ駅(東京都港区)という駅名も、この高輪大木戸に由来しています。
高輪ゲートウェイ駅及び高輪大木戸跡については、こちらの記事(当サイト)においても解説していますので、ご覧ください。
江戸の境界線としての高輪大木戸
江戸時代、南からやってきた旅人たちが品川宿を北(江戸方面)へ抜けた先にある高輪大木戸は、江戸に入っていくためのゲートウェイ(関門)でした。
したがって、ここ(高輪大木戸)をくぐらない限りは江戸の町に入っていくことはできず、
- 「ここを無事に通過すれば、いよいよ将軍様のお膝元だ」
という、旅人たちにとっては心理的な区切りがあったというわけです。
治安の最前線
そしてこの高輪ゲートウェイ(高輪大木戸)は、江戸時代には
- 西国からのやってきた旅人たちが、
- 江戸に入ってくる時に最初に通る
という、まさしく江戸への入口だったというわけです。
そのため、ここを通り抜ける時には厳しい役人の監視もありました。
すなわち、この厳しいゲートウェイは、当時は華やかさと同時に、どこかピリッとした空気感や緊張感も漂っていたはずですね!
旅人のオアシス「宿場町」と「旅籠・本陣」
そもそも「宿場町」とは
ちなみに品川宿に代表されるような宿場町とは、江戸時代のメインの街道沿いに設けられた、
- 旅人や馬を癒すための休憩
- 食事や宿泊
をするための町のことを言います。
江戸から京都まで約20日間もかけて徒歩 または馬など移動するわけですから、こうした食事や休憩の場所は必要だったというわけですね。

江戸時代の東海道(画像はあくまでAIによるイメージです)
大名など、偉い人が泊まる「本陣」
本陣とは、大名や公家などの身分が高い人が泊まる、まるでスイートルームにも該当するような最高級の宿泊施設です。
高いセキュリティを誇っており、高い塀にに囲まれていました。
本陣はお偉い大名様たちが泊まる宿ということもあり、門や玄関がとても立派な作りになっており、まるで小さなお城のような構えでした。
最高級の本陣ですら、現代のネットカフェには到底及ばない
それでも夏は暑く・冬は寒く、衛生状況も現代と比べれば悪かったため、当時の本陣は現代のネットカフェにすら住環境が及ばなかったのが実情です。
- 空調設備がなく、夏は蒸し暑いばかり
- 断熱性が悪く、冬は冷たい空気がどんどん入ってきて、暖かい空気は外にどんどん逃げていった。そのため 冬は中は寒かった。
- そのため、冬は暖かい晴れた日であれば、むしろ外の方が暖かいというレベルですらあった。
当時の大名がネットカフェに泊まったら感動するレベル
当時の大名・殿様からしたら、もしも彼らが現代のネットカフェに泊まったら、その(空調がある)快適性や(ビタミンなど多少なりとも)栄養のあるドリンクバー、さらには安価で安全なカップ麺 などの至りのサービスに、「ここは極楽浄土か!」と言わんばかり感激することでしょう。
本陣 VS ネットカフェ 環境・クオリティ比較
- 明るい照明があって
- (ブースなどがであれば)プライベートが保たれ、
- だらしない格好でネットサーフィンを夜遅くまでできる
- いつ刺客に襲われるかわからない、菜種油の行灯が照らすだけの何もすることがない暗い夜で、
- 夏は蒸し暑く、冬が凍えるような寒さで、
- 大名さまは常に人に見られてるので、常に律した態度や振る舞いをしておかないといけない
という宿場町の本陣と比べたら、もはやネットカフェは本当に天国やユートピアのような場所に思えてくるかもしれませんね。
一般の旅人たちが泊まる「旅籠」
旅籠とは、一般の旅人が泊まる旅館です。今で言うビジネスホテルのイメージに近いかもしれません。
現代価値で約3,000円〜5,000円ぐらいの宿泊費であり、
- 食事付きで、(地元の特産の魚料理 やお酒などもある)
- 夜にはお酒を飲んで、旅の疲れを癒やす
という、なんとも多くの旅人たちでガヤガヤと賑わうような場所でした。
江戸の四つの門番「江戸四宿」
江戸に入る、あるいは出る時には必ず通る、4つの大きな宿場のことを江戸四宿と呼びます。
- 品川宿(東海道)
- 内藤新宿(甲州街道)
- 板橋宿(中山道)
- 千住宿(日光街道・奥州街道)
これらの宿場はとても大きかったため、江戸のすぐ外側に位置しており、現代でいうまるで「ターミナル駅」のような、非常に多くの人たちでガヤガヤと賑わうような活気がありました。
すなわち、これらの宿場町を過ぎると、
というような、心地よい緊張感があったのでしょうね。
海に面した絶景の宿場町
また、今では信じられないことですが、昔の品川は今のようなオフィスビル群ではなく、目の前が真っ青な海でした。
現在の品川宿周辺はビルが立ち並んでいますが、当時はすぐ目の前が広大な海で、しかも海産物まで人気だったのでした。
想像するだけで、潮風が吹いてくるようでワクワクしませんか?

明治時代の品川駅のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです)
オーシャンビューの宿 海岸線がすぐそこ!
このように昔の品川は、街道のすぐ東側が海だったため、多くの旅籠からは東京湾を一望することができました。
昔の品川は「オーシャンビュー」の絶景!
このように、今と昔では海岸線が異なっているため、現在の旧東海道の道筋は、江戸時代はほぼ海岸線に沿っているという海の景色、つまりオーシャンビューがとても素晴らしい場所でした。
したがって、この東海道というメインルートの道に立てば、すぐ左手に広大な東京湾(当時は品川沖)が見え、波の音が聞こえていたはずです。
明治時代の鉄道唱歌に歌われた、海の景色
明治時代の大和田建樹さんという方によって作詞された鉄道唱歌によれば、
台場も見えて 波白く
海のあなたに うすがすむ
山は上総か 房州か
とあり、すなわち「海のはるか向こうに、上総または房州の山々が薄くかすんで見えた」ということです。
詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

埋め立ての歴史
現代の品川駅東口(港南側)の高層ビル たちは、主に明治以降に埋め立てられた土地になります。
品川の海苔(のり)
また、かつて江戸時代までの品川の浅瀬では、品川名物の海苔の養殖が盛んであり、当時の江戸っ子たちに愛される名産品だったというわけです。
すなわち、現代の高級海苔のルーツがここにあると思うと、なんとも感慨深いですね!
京浜急行と東海道の深い関係
現代の鉄道路線ベースで考えると、実は京浜急行(京急)こそが、どちらかというとかつての東海道のルートや伝統などを色濃く受け継いでいる路線ということになります。
ルートの密着度
JR東海道本線は、明治時代に線路を通す時に、比較的山側(つまり「山の手」)を切り開いて作られました。
つまり当時の線路は、元々あった江戸時代の東海道のルートからは外れていたというわけです。
昔の街道は、宿場町を通り抜けるために細かく折れ曲がっていました。
したがって、スピードを出して走る蒸気機関車にとっては、まっすぐなルートを確保できる山側や未開発の土地の方が都合が良かったのです。
他にも、宿場町が蒸気機関車の煙を嫌って 鉄道建設に反対したという鉄道忌避説というものもあります。
一方、京急線はかつての宿場町や集落をまるでそのまま縫う・沿うように線路が引かれてゆきました。
宿場町をなぞるように 線路が敷かれた京急線
京浜線においては、特に品川の区間において、線路のすぐ脇に旧東海道が並行して走っています。
このように、京急線に「各駅停車」が多いのもかつての宿場町の一つひとつに寄り添っていることの名残なのかもしれませんね。
幕末の志士たちの密談
このような賑やかな場所だったからこそ、幕末には高杉晋作などの志士たちが人目を忍んでここに集まり、日本の未来を密かに語り合っていたというエピソードも残っています。
ちなみに幕末の志士とは、江戸時代の終わりに新しい国づくりのために活動した武士や、志のある人々のことをいいます。
幕末、志士たちがここ(品川宿)を拠点にして計画を練りました。
静かな住宅街の中に、激動の歴史の痕跡がポツンと残っているというのが面白いですね!
したがって、今の品川を歩くときは、アスファルトの下に眠る「海の景色」や「旅人の喧騒」を想像してみると、いつもの風景がガラリと変わって見えるかもしれません。
品川名物「シャコ」などの海産物
新鮮なネタの宝庫
また 品川の海においては、シャコやキス、メゴチなどと言った、天ぷらを作るためには欠かせない魚が、目の前の海で獲れました。
したがって、獲れたての魚をそのまま屋台で揚げるという、究極の贅沢が可能だったというわけですね。
かつては海で魚も美味しかった場所が、今や高層ビルの陸地に
かつては海のすぐそばの波打ち際だった場所が、今はすっかり 埋め立てられて陸地になってしまい、ビルや線路が立ち並ぶ景観になっているなんて、歴史の重みを感じますね。
品川の海が育んだ江戸の食文化が、今の天ぷらにも繋がっていると思うと、なんだかワクワクしませんか!
江戸時代の食生活については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

おわりに・まとめ
いかがだったでしょうか。
現在は高層ビルに囲まれた品川ですが、当時は海の景色が一面に広がり、しかも新鮮な海産物まで採れたという海の名所・名産地だったというわけですね。
また当時の人たちがどれだけ苦労して旅をして宿場町に泊まっていたのか、現代に行きる我々の宿泊の環境の素晴らしさというものが実感できたのではないかと思います。
今度、品川宿およびその周辺を旅される時には、こうした旅人たちの昔の後をしのびながら探訪してみると、さらに興味深いものになるかもしれませんね!
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