今やラッコや九鬼水軍の聖地としてもよく知られている観光地である三重県鳥羽市について、地理や歴史も含めてわかりやすく解説してゆきます!
三重県鳥羽市とは?
鳥羽市はどこにある?
冒頭にも示した通り、今やラッコの聖地としても有名な三重県鳥羽市は、三重県の南東部に位置する、美しい海に囲まれた港町です。
また、三重県鳥羽市は、いわゆる伊勢志摩国立公園の一部であり、
- 世界で初めて真珠の養殖に成功した「ミキモト真珠島」
- ラッコの聖地であり、飼育種類数がなんと日本一を誇る「鳥羽水族館」
があることで非常に有名です。
また、現役の海女さん(つまり、魚釣りをする女性の皆さん)が最も多く暮らしている街としても知られています。

筆者・三重県鳥羽市の海より
愛知県・伊良湖岬とは近い?
まず三重県鳥羽市は、愛知県側の・伊良湖岬とは、地図的に驚くほど近いです!
伊良湖岬とは、鳥羽からフェリーで行ける、愛知県にある渥美半島の先端部分のことです。
また、伊良湖岬のある渥美半島とは、愛知県の南側で西の三重県鳥羽市方面に向かって突き出ている、細長い形をした半島のことをいいます。
向こう岸の愛知県側と、ほとんど離れていない
また、鳥羽市と愛知県・田原市の伊良湖岬は、それぞれの伊勢湾の入り口を挟んで向かい合っているという地形になっています。
すなわち「伊勢湾フェリー」を利用すれば、約55分で移動することができるような距離であり、直線距離ではおよそ20kmほどしか離れていません。
そのため、天気の良い日には、鳥羽の海岸から対岸の伊良湖岬や、そのシンボルである白い灯台をはっきりと望むことができます。
旧国名では志摩に該当?
現在の三重県鳥羽市は、かつての(奈良時代の少し前に決められた)令制国における「志摩国」に該当します。
すぐ西には、あの伊勢神宮も存在している伊勢国ということなります。
志摩国は、現在の鳥羽市と志摩市を合わせたエリアを指しています。
かつて最も小さい国だったが、海産物が朝廷からとても評価された
また、志摩国は、昔は日本で最も面積の小さい国の一つだったのでした。
つまり志摩国は、当時制定された国々の中でも、面積が最小クラスだったというわけです。
しかし、当時の志摩国では海産物が非常に豊かだったため、一つの独立した「国」として認められたのです!
すなわち、当時の志摩国は豊かな海の幸を朝廷に献上するための「御食国」として、重要な役割を果たしていました。
御食国:古くから、皇室や朝廷に対して貴重な海水産物などの食料を献上した国の総称です。
三重県は伊勢・志摩・伊賀・紀伊の一部にまたがる?
現在の三重県は、かつての4つの国が合わさってできています。
- 伊勢: 県の大部分を占めるという、伊勢神宮も存在する三重県の中心的なエリアです。
- 志摩: 鳥羽市や志摩市など、複雑なリアス式海岸が果てしなく続くという、海の幸な真珠が豊かなエリアです。
- 伊賀: 三重県の西部の山岳地帯やその盆地に当たる、忍者の里として有名なエリアです。
- 紀伊: 三重県南部における、現在の和歌山県とまたがっており、東紀州(紀北・紀南)と呼ばれる地域が三重県に含まれます。
このように、三重県は山・海・盆地とそれぞれ非常に多様な顔を持っているのが特徴ですね!
九鬼水軍との関連性は?
鳥羽市は、戦国時代に当時最強と謳われた「九鬼水軍」の本拠地です。
この強力な海のスーパースペシャリスト軍団である九鬼水軍を率いたリーダーである九鬼嘉隆は、当時は織田信長や豊臣秀吉の忠実な部下として仕え、しかも当時としては画期的な「鉄甲船」を建造して、信長・秀吉の海戦において活躍したのでした。
九鬼水軍が織田信長・豊臣秀吉に評価された理由は?
このように、かつて九鬼嘉隆が率いる九鬼水軍が、天下人たちに重用されたのには、それに足りるにふさわしい明確な理由があります。
それは、彼らが単なる海賊ではなく、高い「造船技術」と「組織力」を持っていたからです。
当時、中国地方の毛利氏の水軍に苦しめられていた、織田信長
当時、織田信長は大阪の石山本願寺を攻めるときに、西側の中国地方を支配していた毛利氏の次々にやってくる水軍による兵糧補給船に対して苦しめられていました。
石山本願寺:かつて大阪にあった浄土真宗の本山です。
織田信長と10年以上にわたって激しい戦いを繰り広げました。
劣勢にあった織田信長を救った九鬼嘉隆
そこで九鬼嘉隆は、まるでそれまでの常識を覆すような船を造り上げ、見事に毛利水軍を撃破し、織田信長の軍を助けたのでした。
この時の九鬼嘉隆が持っていた船の「圧倒的な軍事力(つまり制海権の確保)」こそが、当時信長や秀吉と言った天下人から高く評価されたというわけです。
また、この時の活躍ぶりが彼らによって評価され、現在の三重県東部一帯にあたる志摩一国を任されるほどまでに厚遇されたのでした。
鉄甲船のすごさとは?
また、織田信長の命を受けた九鬼嘉隆が開発した「鉄甲船」は、当時の世界でも類を見ないほどの「無敵の軍艦」だったのでした。
この船のすごさのポイントを整理すると、概ね以下のようになります。
火攻めを無効化、大砲の搭載
まず、それまでの木造船の弱点である火矢や焙烙(火薬兵器)といった、他の敵の軍艦による攻撃からのダメージを防ぐために、船体の全体を鉄板で覆っていました。
これは当時の常識だと鉄板で覆った船は重くなりすぎて沈みやすい鈍くなりやすいということで、当時の常識からしたら考えられないことでした。
また、巨大な大砲を船と積み込んできて、はるか遠距離から敵の船をこっぱみじんに粉砕することができました。
逆に、それまで鉄の船を作れなかった理由は?
織田信長の画期的なアイディアによる鉄甲船が登場するまでは、従来は誰も鉄の船を造らなかったのでした。
いや、むしろ作れなかったのでした。
このように重すぎる鉄で覆い尽くした防御力の高い船を造れなかったのには、当時ならではのいくつかの技術面と運用面の両方に理由があります。
浮力と重量のバランス 防御で重すぎると 船が沈んでしまう
船を鉄で覆えば、当然重くなります。
船が重くなると沈んでしまったり、そもそも前に進まなくなったりして敵の船から攻撃されやすくなってしまいます。
そのため従来の船においては、なるべく 船を軽くするために沈まずに安定して浮かせ、かつ機動力を保つための設計技術が必要だったのでした。
「燃えない」という発想の転換
当時の海戦は、火矢(火をつけて放つ矢のこと)や焙烙(火薬)といった武器によって相手の船を燃やすという戦法が主流でした。
しかし、それまでは
- 「船を厚くして(敵の攻撃に)耐える」といったことよりも、
- 「素早く動いて、敵からの攻撃を避ける」方が現実的だ
と考えられていたわけです。
つまり織田信長が常識外れなアイデアを思いつくまでは、あまりも船の防御力を固めすぎるたりして分厚すぎると、船が沈んだり、動きにくくなったりすると考えられていたわけですね。
コストと資源のトレードオフ関係
また、当時の船には、防御力を維持するための大量の鉄板を船に貼り付けるためには、莫大な費用と高い鍛冶技術が必要でした。
というのも、
- あまりも防御力を固めすぎてしまうと、
- 船が重くなって沈んでしまったり、
- 船が前に進まなくなったりする
という、まさにトレードオフの関係にあったからです。
鉄の重さをどうやって克服したのか?(船が沈む対策)
しかしこうした当時としては無理ゲーに近いような高性能な船を作ることを実現できたのは、織田信長の圧倒的な財力と、九鬼嘉隆の革新的なアイデアがあったからこそです。
当時の知恵が詰まった克服方法は以下の通りです。
防御力が高い「装甲板」という考え方
実は、この時には船体のすべてを鉄にしたというわけではありませんでした。
そんなことしたらさすがに重すぎて、沈んでしまったり進まなくなってしまいますからね。
ではどうしたかというと、厚さ約3mmほどの鉄板を、防御力を上げるためなどのために木造の船体の外側に対して、まるで「タイル」のように貼り付けていました。
これにより、ある程度の重さにはなりながら船全体の浮力を維持しつつ、つまり船が沈まないようにしつつも、敵船の放つ強力な火矢や鉄砲弾を跳ね返すという、なんとも強固な防御力を手に入れたというわけです。
沈むのを防ぐ工夫 浮力を計算した巨大な「箱形」構造
鉄甲船のベースとなったのは、当時最大級の軍船であった「安宅船」です。
この船は、底が平らで容積が非常に大きいという、まるで「箱」のような形をしていました。
また、この形は水を押しのける量(排水量)が多くなるため、防御のためにたくさんの鉄板を貼っても沈まないだけの、強力な浮力を得ることができたというわけです。
排水量:船が水に浮いているとき、その船が押し退けた水の重さのことです。
これと同じ分だけの「浮く力」が船に働きます。
重心のコントロールの工夫により、船が沈んでしまうことを防いだ
また、重い鉄板を貼りすぎると船がひっくり返ってしまうことになります。
そのために、船では大砲の配置や鉄板を貼る位置を工夫し、重心が低くなって船が安定するように賢く設計されていました。
すなわち、鉄の重さを「防御」という最小限の目的のために使い、浮力という物理現象を最大限に利用したという、まさに当時の「ハイテクの塊」だったというわけですね。
かつて九鬼水軍は、海を渡って豊川稲荷へと参拝したことがある?
これは、非常に有名なエピソードが残っています!
九鬼嘉隆は、愛知県にある豊川稲荷(妙厳寺)を深く信仰していました。
また、伝説によれば、九鬼嘉隆は自身の軍船(安宅船)を仕立てて、志摩の鳥羽から伊勢湾・三河湾を横断し、そのときに現在の豊川市付近にまで海を渡って参拝に訪れたとされています。
安宅船:戦国時代から江戸時代にかけて使われた、日本で最大級の軍船のことです。
これは、先ほどお話しした「伊良湖岬」を越えてすぐの場所ですから、水軍の機動力をもってすれば、それほど難しいことではなかったのでしょう。
今でも豊川稲荷には、九鬼嘉隆が寄進したと伝えられる山門などが残っており、水軍と信仰の深いつながりを感じさせてくれますね。
九鬼水軍と三河(愛知県東部)の関連性は?
九鬼水軍は、愛知県東部に当たる三河エリア(おおよそ豊橋市辺り)にも強い影響力を持っていました。
直線的に近い三重県鳥羽市と愛知県豊橋市 海上ルートの支配
冒頭にも少し述べたように、歴史的に鳥羽から伊良湖岬を越えて三河湾に入るというルートは、当時の物流・軍事の要所でした。
現在でも国道42号の海上国道のルートの一つとして、ショートカットのルートとして機能しています。
つまり、この海は愛知県東部の三河方面へのショートカットになります。
もし陸で大回りすると、名古屋を経由して非常に遠回りになるため、それならば船で大量の荷物運んだ方が良かったというわけでしょう。
また、昔は現在のように航空機は貨物輸送・貨物トラックなどありませんでしたから、船で運んだ方が非常に攻撃が良かったのでした。
九鬼水軍には、海のならず者(つまり海賊)を取り締まる役割もあった
しかし、そんな荷物がたくさん行き交う 三河湾の海だと、それらを奪おうとする海賊たちの存在も放っておけません。
なので、そうした九鬼水軍の皆さんは、そうした海のならず者や海賊たちを取り締まるという役割を果たしていたのでした。
こうなると主に輸送船を狙うような海賊たちは、思うように活動ができなくなったわけですね。
豊川稲荷への参拝(九鬼水軍)
先述の愛知県豊川市に存在する豊川稲荷への参拝エピソードについても、愛知県東部である三河の地が、彼らにとって「自分たちの庭(制海権内)」であるということ、つまり、九鬼氏にとっては、
- 愛知県東部の三河の地域が、自分たちのコントロール・支配下にあった土地であった
ということを強く裏付けています。
九鬼水軍は天下を取ろうとはしなかった?
では九鬼水軍は信長や秀吉を倒して、天下を取ろうとしなかったんでしょうか。
結論から言うと、九鬼嘉隆は「天下取り」よりも
- 「志摩地域の完全支配」
- 「水軍としての地位確立」
といった現実的なことにに重きを置いたという、とても現実的な武将でした。
というか、もし時の権力者である信長や秀吉に逆らったら、それはもう勝ち目はないわけです。
つまりそれは一族の絶滅を意味するのであり、まあ当時の世の中であれば無理に逆らわない方がいいに決まってるでしょう。
秀吉を通して天下を取ることよりも、志摩の統一を最優先するという賢い選択をした
当時の志摩は小さな豪族が乱立しているというカオスな状況であり、そのためにまとまりのないような状況でした。
そんな中にあって、最初の頃の九鬼氏はあくまでもそうした小さな集団の一派に過ぎませんでした。
しかしながら、後に信長という巨大な力をバックにつけることで、彼らの熱い信頼を得ることができたことで、ようやく志摩一国の主になれたという背景があります。
「海」のスペシャリスト(九鬼水軍)
彼らの強みは、あくまで海上です。
つまり海の地形や戦い方を知り尽くしたプロのスペシャリストというわけです。
逆に言えば、内陸部まで支配する陸戦の兵力や兵站(物資補給)を持たなかったという弱みもあったのでした。
そのため、彼らは最強の「盾と矛」としてあえて天下人に重用される道を選んだ方が、一族の存続には有利だと判断したのでしょう。
三重県鳥羽市と中央構造線の関係
まさに中央構造線の上にある市では?
鳥羽市から伊勢市にかけて、日本最大級の断層帯である「中央構造線」が通っています。
断層: 地下にある岩盤が、強い力によってずれてしまった「割れ目」のことです。
つまり、伊良湖岬と三重県鳥羽市は、地質学的にも非常に興味深い場所ですね。
そもそも、中央構造線とは?
中央構造線とは、関東から九州まで続く、まるで日本列島を横断・分断するかのように走っている、巨大な断層(つまり地面に入った大きなひび割れ)のことです。
これは大昔の日本列島のなりたちを象徴するかのような「巨大な割れ目」であり、また日本列島の古傷ということになります。
北と南 異なる「地層」のつなぎ目
はるか大昔、日本列島がまだアジア大陸の一部だった頃に、はるか南からプレートに乗ってやってきた島(地塊)が大陸へと激しくぶつかってしまいました。
このときの
- 「北の大陸側にあった、元々の岩盤」
- 「南からやってきた来た岩盤」
のそれぞれの境界線が、まさに中央構造線というわけです。
つまり、日本列島に大きなヒビが入ってるような状態であるため、これがもし何らかの衝撃を受けると地震の原因になったりします。
したがって、中央構造線の付近では未だに大小何かしらの地震が多いわけです。
北側と南側 岩の見た目の違い
また、中央構造線は鳥羽や伊勢周辺では、この線を境に、中央構造線の北側と南側とで、岩石のでき方や色や種類が全く異なります。
なにせ日本列島の南側は南からやってきた島であり、一方で北側は元々はユーラシア大陸の一部だったわけです。
そのため、それはもう使われている岩石や土などは全く違うものになるでしょう。
つまり、「地球の傷跡」がまさにそこにある場所であるというわけです。

鳥羽市より
おわりに・まとめ

筆者・鳥羽駅より ラッコさんが可愛い(三重県鳥羽市)
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