群馬県沼田市の誇るお姫様であり、また真田信之の妻でもあった小松姫について、その壮烈なエピソードをわかりやすく解説してゆきます!
沼田城を守った勇敢な女性、小松姫
群馬県の沼田城にまつわる歴史の中で、欠かせない人物が小松姫ですね!
彼女は戦国時代から江戸時代にかけて活躍した、まさに「賢妻」であり「女傑」と呼ぶにふさわしい女性です。
今回は彼女の魅力をいくつか、分かりやすく整理してお伝えしますね。
小松姫の生い立ちと結婚
小松姫(1573年〜1620年)は、群馬県沼田市にある沼田城のシンボルとも言うべき、戦国時代から江戸時代かけて活躍した女性です。
1573年、三河国(愛知県東部)生まれ
生まれは、ちょうど室町幕府が(織田信長によって足利将軍が京都から追放され)滅んだ年であり、また武田信玄が亡くなった年でもある1573年です。
徳川家康の出身地である愛知県岡崎市のある、三河国になります。
つまり、彼女は実の娘ではないものの、徳川家康からまるで娘のように可愛がられて育ってきたというわけです。
そもそも、群馬県沼田市とは
群馬県沼田市は、群馬県のやや北部にある街であり、上越線の沼田駅が中心駅になります。
また、この沼田市は、長野県上田市にそのルーツがある真田家とも深いゆかりのある地です。
小松姫の生まれた1573年 歴史が変わった激動の年
また、小松姫が生まれた1573年という年は、当時戦国最強といわれた武田信玄がなくなった年でもありました。
あの織田信長・徳川家康も、武田信玄が生きてる間は全く歯が立たなかったわけですが、武田信玄がこの年に病死したことによって、織田信長はやりたい放題になり、どんどん天下統一に向けて力をつけて台頭してくることになりました。
また、この年に京都の室町幕府から足利義昭を追放して室町幕府が滅亡して、しかも越前(福井県)の一乗谷で、朝倉氏が織田信長によって徹底的な焼き討ちにあい、滅ぼされた年でもありました。
その焼き討ちされた街並みは、一乗谷朝倉氏遺跡として復元されています。
つまり、小松姫が生まれたこの1573年 とは、まさに歴史が変わったその年だったというわけです。
武田信玄の亡くなった世の中 甲斐・信濃が空白地帯に
小松姫が愛知県東部に当たる三河国で育ったのは、やはり育ての親である徳川家康の地元であるということが大きいです。
しかし、時代は先にも述べた通り、武田信玄が亡くなってから山梨県方面(甲斐国)と長野県方面(信濃国)の地域が誰も支配する者がいない、という空白地帯になっていました。
そのため、北の新潟の上杉氏・南の神奈川県の後北条氏らとの間で長野県・山梨県の地域を奪い合いというカオス状態になっていました。
そんな中で、長野県方面でかろうじて力をつけていたのが、まさに真田家だったというわけです。
そのため、徳川家康は少しでも長野方面の勢力を持っておきたいと、地元の真田家とうまく仲良くしておきたいと思ってました。
小松姫が嫁ぐまでの歴史のストーリー
ここからは、ちょっとした小松姫が結婚するまでの歴史のストーリーです。
前置きが少し長くなりますのでご了承ください。
1577年 上杉謙信の 滅亡による後継者争い
小松姫が生まれた後の4年後、1577年に新潟県で武田信玄と同じくらい最強だった上杉謙信が亡くなりました。
すると、今度は上杉謙信の後継者争いのために、上杉家の中で「おたての乱●」という身内同士の反乱が起きました。
●年 甲相同盟の破棄 武田勝頼の衰退
この時、神奈川県にいた後北条氏は武田勝頼をはるか新潟(越後)まで派遣し、北条氏の推しメンの方を上杉の後継者として 勝つように計らうように依頼しました。
しかしながら、武田勝頼がお金とゴールドに目をくらんでしまって後北条氏を裏切ってしまったため、当然ながら後北条氏は怒ってしまい、彼らの同盟(甲相同盟)は破綻して姉妹ました。
この同盟破棄により、武田勝頼は関東地方において味方がほとんどいないという、まさに八方塞がりの状態になりました。
武田勝頼の滅亡
そもそも、武田信玄が亡くなってから2年後の1575年の長篠の戦いで、武田勝頼の騎馬隊は織田信長の鉄砲隊によって完全に木っ端微塵に敗れていたので、武田勝頼はそもそもかなりの力を失っていました。
最後には織田信長に本拠地の山梨県へと攻め込まれて、1582年に滅亡しました。
1582年 信長の滅亡により完全に空白地帯となった長野県・山梨県
この武田家の滅亡によって、長野県と山梨県の広大な領土は正式に織田信長のものになりました。
しかしながら、そのわずか3ヶ月後の1582年の6月に織田信長は本能寺の変で倒れてしまいます。
こうなると、完全に長野県・山梨県は誰も支配する者がいない空白地帯となってしまいました。
すると、今度は新潟県の上杉・神奈川県の後北条氏、そして徳川の3者でこの空白地帯を奪い合いして争うことになります。
これを「天正壬午の乱」といいます。
上杉か徳川か どっちつかずの真田家
この時、真田家は上杉につくか、徳川に着くかのどちらかで揺れ動いていました。●
つまり、上杉を見限っては徳川につくとか、そんな感じに陥っていたというわけです。
しかし、真田家はどこかで徳川から独立してやろうと考えた節もあります。●
徳川と北条の和解 北条「沼田の地をよこせ」
ここで、今回話題にしている小松姫の拠点となる沼田が登場します。
徳川と北条は喧嘩したくないということで、和解しようとしていました。
しかし、その和解の条件というものが
というものでした
後北条氏とこれ以上は喧嘩したくない徳川家は、真田家の領地である沼田を勝手に後北条氏に対して差し渡すという、無茶な約束をしたのでした。
そもそも、徳川は真田家のことなめていたので、
と、たかを括っていたのでした
これに当然のように怒ったのが真田家でした
先祖代々一生懸命になって育ててきた沼田の地を、やすやすと他人に渡すわけにはいかないと、そう判断したのでした。
1584年 小牧長久手の戦い
ここで愛知県の小牧・長久手が登場します。
1584年に小牧・長久手の戦いになってしまいました。
この小牧・長久手の戦いは、織田信長が転んだ後は豊臣秀吉が勢いづいてきたため、それを食い止めようと、家康が秀吉と戦った戦いです。●
この戦いは、はじめこそ家康のたくみな 戦法によって秀吉の軍を圧倒しましたが、なんと劣勢で負けていた秀吉が家康へうまいこと休戦を、しかも大人の会話(交渉)によって持ち出したのでした。
そのため、この戦いは結果的に具体的な勝敗はつかず、和睦ということに落ち着きました。
そしてこの戦い以降、家康は秀吉に対して反発することなく、うまく彼の部下として立ち回っていくことにしたのでした。
ここが家康のすごいところであり、とても我慢強いですよね。
小牧・長久手戦いで、完全に徳川を裏切った真田家
この小牧・長久手の戦いで、真田家は完全に徳川家を裏切りました。
徳川の軍が愛知県の小牧に留守をしているチャンスを狙って、これチャンスと言わんばかりに裏切ったというわけです。●
第一次上田合戦
これに怒った家康は、ついに上田城に向かって、真田家に対して攻撃を仕掛けました。
しかし、徳川家康は真田家のことを侮っていたことと、真田昌幸によるたくみな戦法のために、完膚なきまでに撃退されました。
これが、第一次上田合戦です。
この惨敗により、徳川家康は本当に真田家と仲良く仲良くしないといけなくなりました
小松姫の真田信之との結婚
だいぶ前置きが長くなりましたが、ここでようやく小松姫の本題に入ります。
すなわち、ここで小松姫がようやく真田信之と結婚するという話になってきます。
1586年に結婚
小松姫は1586年に徳川家康の養女として、真田信之(真田幸村の兄)に、妻として嫁ぎました。
当時は徳川家と真田家の関係は悪化していたので、何とかして親戚同士になることで関係を保とうとしたわけです。
1585年・上田での戦いの敗北が響いた徳川家康
というのも、先にも少し述べた通り、
- 徳川家康は1585年に起こった第一次上田合戦において、
- 後に「難攻不落」「落ちない城」と言われることになる上田城での戦いで、
- 真田昌幸による圧倒的な賢い戦法によって負けてしまった
という前提のストーリーがあるからです。
この上田での痛烈な敗北によって、徳川家康は「真田家、恐るべし」という風に恐れをなしたのでした。
真田家を敵に回すぐらいだったら、自分がこれまで実の娘のように可愛がって育ててきた養女である小松姫を、真田家に対して嫁がせることにしたのでした。
小松姫の夫・真田信之とは
ちなみにこの時に小松姫の夫となった真田信之とは、かの「大阪の陣」で奮闘したことで有名なイケメン武将である真田幸村(信繁)の実の兄になります。
真田家の存続の、関ヶ原の戦いで敵と味方同士に分かれる
小松姫の夫である真田信之は、「関ヶ原の戦い」において真田家の生き残りをかけて、西軍についた父親の真田昌幸や真田幸村とは逆の徳川側(東軍)についたという人物です。
そのため、身内でありながら敵同士にならざるを得なくなったという、なんとも悲しい運命に見舞われてしまったのでした。
徳川の側についたため、地元の上田を攻撃しないといけないジレンマに
そのため、1600年の関ヶ原の戦いでは、父親・昌幸の守る上田城を攻めなきゃいけないというジレンマに陥りました。
自分が父親とともに築き上げた城や故郷を攻めるなんてなんとも心苦しかったことでしょうが、それでも徳川に対する忠誠を守らならない(それによって真田家を存続させなければならない)立場だったため、仕方がなかったのでした。
最強の本多家の娘・小松姫
話を再び小松姫の話題に戻しましょう。
彼女は本多忠勝という、かつて「戦国最強」とまで謳われたとても強い武将の娘になります。
本多忠勝:「徳川四天王」の一人に数えられ、戦国最強とも謳われた武将です!
生涯で57回もの戦に出ましたが、なんと一度もかすり傷を負わなかったという伝説があります。
つまり小松姫は、
- 実の父親(遺伝子が繋がってる 父親)は、本多忠勝
- 育ての親は、徳川家康
ということになります。
徳川家康の養女として育てられた理由
なぜ徳川家康は小松姫を育てることにしたのか。
それは徳川のブランドをつけることで後に結婚をしやすくできるという大きなメリットがありました。
また、相手方にとっても「バックに徳川という家がついている」ということは、大きな支えになったというわけでした。
つまり 小松姫が徳川家の養女になったということは、お互いにとってwin-winの関係になったわけです。
したがって、小松姫は彼の強い遺伝子を受け継いだからか、非常に気が強く、さらにはとても(頭の良い戦略である)知略にも長けていたと言われています。
小松姫 沼田城での有名なエピソード
元々は、現在の長野県の上田市にルーツを置く真田家は、江戸時代になる前に2つの家に(わざと・意図的に)分裂してしまいました。
最も有名なのが、「関ヶ原の戦い」のときの話です。
関ヶ原の戦いの前に、2つに分かれた、真田家
この関ヶ原の戦いの時に、真田家は敵・味方にそれぞれ別れることになりました。
これを「犬伏の別れ」といいます。
犬伏:現在の栃木県佐野市にある地名のことです。
すなわち、真田家は関ヶ原の戦いにおいて、
- 徳川家康の味方である、東軍
- また、徳川家康の敵である、西軍
に、それぞれ分かれて戦ったのでした。
そして、真田幸村は徳川の敵である西軍につき、群馬県沼田市における真田家は徳川の味方についたのでした。
このようにして、
- どちらが負けても、江戸時代以降に真田家の家系と血統が残るようにした
というわけです。
別れた孫に会いに行ったが、小松姫に断られる
また、この「犬伏の別れ」の時に別れてしまった義父の真田昌幸と義弟の真田幸村が、沼田城を訪ねてきました。
真田昌幸:真田信之・幸村の父親で、徳川軍を二度も撃退したという「戦国一の知略家」です。
義弟:配偶者(信之など)の弟、つまり幸村などのことや、自らの妹の夫のことをいいます。
彼らは「孫に会いたい」と、門を開けるよう頼みます。
しかし、小松姫はなんと武装して現れ、
といった具合で、毅然と拒絶したのでした。
この徹底した守りの姿勢には、本当に驚かされますね!
しかし、優しさからか後でこっそり 別の場所で孫に会わせた
すなわち、彼女はこんな時にも家族(である真田家)への情に流されず、あくまでも「城を守る」という責任を全うしたというわけです。
しかしながらその後、彼女は城の近くの寺において孫と対面させてあげたという、何とも優しさも兼ね備えたエピソードが残っています。
小松姫の最期とその後
彼女は江戸時代はじめの元和6年(1620年)に江戸(東京)で体調を崩してしまい、病気療養のために群馬県の草津温泉に向かっていた途中、現在の埼玉県の鴻巣の地において亡くなりました。
鴻巣市の「勝願寺」には、今も彼女のお墓があり、今に至るまで大切に供養されています。
すなわち彼女は、群馬県沼田市の地元の誇りとして、今でも愛されているヒロインであるというわけですね!
小松姫のこうした凛とした強さと、しかも家族を想うという優しさを両立させた彼女の生き様は、現代の私たちが見ても本当にかっこいいですね!
沼田城をめぐる激動の歴史と、知られざるエピソード
沼田城は、まさに戦国時代の「台風の目」のような場所でしたね!
関東・越後の防波堤●
なぜそれほどまでに多くの武将たちがこの城(沼田城)を欲しがったのか、その理由や利根川との深い関係について解説してゆきます。
上杉・武田・北条が沼田城を狙った理由
まず、戦国時代の沼田という土地は防御力も高く、また交通の便も非常に良い場所だったので、常にいろんな大名や権力者が奪い合っているような土地でした。
戦国時代の強豪中の強豪である上杉・武田・北条というこの三つの勢力にとって、沼田城は北関東(関東北部)を制圧するための重要な「鍵」となる土地にありました。
- 上杉謙信にとっては、越後(新潟)から関東へ進出するための重要な入り口でした。
- 武田信玄にとっては、上野国(群馬)を支配し、信濃(長野)との連携を強めるための拠点でした。
- 後北条氏にとっては、関東全域を支配下に置くために、どうしても手に入れておきたい北の防波堤でした。
すなわち、
と言っても過言ではなかったほど、防御面でも交通面でも何もかも適した重要な土地だったというわけです!
したがって、この沼田という土地を巡っては、
- いつの時代も土地の奪い合いが絶えず、
- (城のリーダーである)城主が、目まぐるしく何度も変わる
ような、まさに激戦地となっていました。
上野国:現在の群馬県にあたる昔の地名です。
関東の軍事的な要所として、多くの武将が争いました。
沼田城が「難攻不落」と言われた理由
河岸段丘という、自然の巨大な城壁が作る防御力
沼田城は、自然の地形を最大限に活かした「天然の要塞」となっています。
城の西側と南側は、深い崖になっています。
これは、利根川と片品川が削り取った「河岸段丘」という地形によるものになります。
河岸段丘:川の流れが地面を深く削り、階段のような段差になった地形のことをいいます。
沼田市の市街地は、まさにこの高い段丘の上という鉄壁の守りの高さにあります。
自然が作った巨大なバリア とても攻められにくい土地
したがって、この河岸段丘を登って、敵が崖の下から攻め上がってくるというのは、当時の技術では物理的にほぼ不可能だったのでした。
すなわち、守る側は少人数の兵でも、大軍を迎え撃つことができたというわけです!
まさに、自然が作り出した最強のバリアーであり、防御壁であるということですね。
利根川の舟(水運)を使った、交通の利便性の良さ
さらに、沼田という土地は利根川による水運ルートまでもが存在するという、まさにどんな権力者であっても欲しがるような交通の利便性があったというわけです。
このように、沼田という土地にはこれだけの利便性があるため、それは戦国時代からしたら時の大名からしたら、この沼田という土地は、
- 誰も欲しくなるような、まさに奪い合いに発展しそうな土地
になるというのはわかる気がしますね。
関ヶ原の戦いで真田家が「あえて二つに別れて」戦った理由
どちらが負けても、真田家が残るようにした
ちなみに1600年の関ヶ原の戦いの時に真田家が
- 東軍(兄・信之)
- 西軍(父・昌幸、弟・幸村)
という2つのチームにそれぞれ別れたのは、たとえ関ヶ原の戦いにおいてどちらが負けたとしても、真田家が江戸時代の後も生き残っていくための、とても賢い壮絶な戦略でした。
つまりこれは、関ヶ原の戦いにおいて例えどちらの真田家が勝っても、真田家の血筋と領地を後の世代に対して残していくためでした。
これを「犬伏の別れ」と呼び、家族がまさに敵と味方に別れるという苦渋の決断を下したというわけです。
小松姫は「元・家族」にも冷徹に接し、あくまで沼田城を守り抜いた
したがって、小松姫がこの時に(子供に会いたいと言ってきた)義父たちを沼田城において追い返したのも、それは単なる冷徹さではなく、あくまで真田家を守るための必死の行動だったというわけですね。
もちろん彼女も感情面・感情的には辛かったはずですが、その後にこっそり別の場所で、孫に会わせてあげるというエピソードもあり、まさしく武家の誇りを感じるエピソードです!
沼田城と利根川の水運・「エンヤードット」
また沼田市のそばを流れている利根川は防御だけでなく、物流ルートの要としても機能していました。
水運:川や海を使って、船で荷物や人を運ぶことです。
貨物列車もなかった当時 利根川による水運はとても重要だった
江戸時代、沼田から江戸へと物資を運ぶためには、利根川の船を使った水運が活用されました。
昔は長距離トラックも航空輸送もなかったため、船で大量の荷物運ぶ方が効率が良かったのでした。
「エンヤードット」という掛け声
そしてその時、みんなで一斉に船を漕ぐ時に生まれたのが「エンヤードット」という掛け声です。
つまりこれは、
- みんなで同時に、船を引き上げるとき
- みんなで同時に船を漕いで、荷物を運ぶとき
のリズムを合わせるための掛け声だったというわけです。
すなわち、これは現代で言うところの「エイサ、ホイサ」のようなものですね!
もちろんこの掛け声には、単にリズムを合わせるだけではなく、
- みんなで一緒に、一体になって船を漕いでるんだ
っていう、仲間意識を高めるための掛け声でもありました。
危険な現場における、仲間意識を高めるための掛け声でもあった
なぜここまで徹底してリズムや仲間意識を高めるのかというと、当時の川の流れは非常に急で険しく、非常に危険であり、一歩間違えると船で事故を起こしたりなどして、非常に危険な現場だったからなのでした。
こうした当時の厳しい川の流れを乗りこなす船頭さんたちによる掛け声の、力強い息遣いが聞こえてきそうです。
小松姫の強烈な個性が光る!驚きの結婚と鉄壁の守備
さて、ここからは小松姫がいかに「ただ者ではない女性」だったかがよく分かる有名なエピソードをご紹介しますね。
彼女の行動力と決断力には、現代の私たちも圧倒されてしまいます!
小松姫が夫を選んだ「逆面接」エピソード
まず1586年に彼女の結婚相手を決める時に、時の権力者である徳川家康は、彼女の旦那候補となる若い武将たちを大広間に集めました。
そこで小松姫が取った行動が、実に大胆だったのです!
並んだ男性たちに対して、超上から目線の品定めを始める
1586年、彼女は、
- 並み居る力強い武将たちの前に現れると、
- なんと一人一人の「髪の毛(髻)」を掴んで顔を上げさせ、
- 「超上から目線」の品定めを始めた
のでした。
髻:昔の男性の髪型で、頭の上で束ねた部分のことです。
武士にとって、ここを掴まれるということは非常に屈辱的なことでした
現代の婚活でこれをやってしまったら、一発で相手の男性から断られること確定ですよね…(^^;)
しかしその時の多くの武将たちは、
- たとえどれだけ恥ずかしい扱いを受けたとしても、
- (時の権力者である徳川家康の養女である)彼女のこうした無礼な振る舞いに対しても、
- 黙って耐え抜くしかなかった
というわけです。
パフォーマンス説●
真田信之だけ、唯一彼女の無礼な振る舞いに対して、堂々と振る舞った
しかし、真田信之だけは違いました!
彼は小松姫の手をパシッと扇子で叩き落とし、「無作法
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