豆相人車鉄道から蒸気機関車(熱海鉄道)へ〜なぜか不評だった理由や、東海道線へ置き換わるまでの歴史を、わかりやすく解説してゆきます!

明治時代、人が押して進んでいた豆相人車鉄道
豆相人車鉄道から、蒸気機関車の熱海鉄道へ
なぜか人車よりも不評だった蒸気機関車
前回に続いて、今回も豆相人車鉄道について学んでいきましょう。
まだ見られてない方は、以下の前回の記事もご覧ください。

今回は主に、「蒸気機関車に変わったのに、なぜか不評だった理由」について解説してゆきます。
人から蒸気への進化は、皮肉にも当時の乗客にとって不満の種でした。
「蒸気機関車に変わったのに、なぜか不評だった理由」とは?
従来の豆相人車鉄道が、時代とともにやがて明治時代の終わりに熱海鉄道となり、最先端の「蒸気機関車」が登場したとき、人々は「これからは楽になるぞ!」と大喜びしたはずでした。
ところが、いざ走り始めてみると、乗客からは「人車のほうが良かった…」なんて不満が漏れるという、おかしな逆転現象が起きたんです!
その理由は、主に3つの「がっかりポイント」にありました。
人間よりも「のろま」だった!?
これが最大の理由です。
すなわち、人間が押していた人車鉄道よりも遅かったというわけです。
初期の軽便鉄道(蒸気機関車)は非常にパワーが弱く、小さなエンジンで急勾配を登るのが精一杯だったのでした。
坂道で止まる
また、坂道で止まるといったことが不評の原因として挙げられました。
例えば人車の時代なら、車夫が全力でなんとか押し上げられた坂道であっても、蒸気機関車の場合は坂道に差し掛かるとシュシュッ…と空回りして、止まってしまうことがあったわけです。
速度の逆転
また、前回も解説した通り、従来は下り坂で時速40km以上を出せた「人力ジェットコースター」に比べ、安全のためにブレーキをかけ続ける蒸気機関車は、体感的にかなり遅く感じられました。
したがって、「人間が押したほうが速いじゃないか!」とヤジが飛ぶこともあったんですよ。
「煤煙(ばいえん)」という新たな敵
また、従来の人車の場合は、排気ガスゼロの究極のクリーンエネルギーでしたよね。
ところが蒸気機関車になると、煙突から真っ黒な煙と火の粉が吹き出してきます。
煤煙:石炭を燃やした時に出る、黒い煙やスス(燃えかす)のことです。
昔の機関車に乗ると、鼻の穴の中まで真っ黒になったとまで言われているほどなんですよ!
服が汚れる、景色が見えない
さらに蒸気機関車の場合は、風向きによっては客車に煙が流れ込み、せっかくの旅行着が煤で真っ黒に…。
また、たとえ「東洋のリビエラ」(=当時の熱海の景色の形容詞)とまで呼ばれた絶景を楽しもうとしても、煙で視界が遮られてしまうという悲劇が起きたのでした。
すなわち、快適さがダウンしてしまったというわけですね!
「小回り」が利かなくなった
また、従来の人車は、1両単位で柔軟に運行できました。
しかし、蒸気機関車は複数の車両を連結して走ることになるため、まるで融通が利きませんでした。
待ち時間の増加
ほかにも、それまでの人車なら「人が集まったらすぐ出発!」というまるでタクシーのような感覚でしたが、蒸気機関車はダイヤ通り(しかも遅れがち)にしか動きません。
この「待ち遠しさ」が、せっかちな旅人には不評だったようです。
私の個人的な感想
というのは、現代のシステム移行などにおいてもよくある話です。
しかし、それと同じようなことが明治時代にもあったというわけですね!
すなわち、当時の車夫の人たちが持っていた「気合」と「職人技」によるスピードに、機械が追いつくには、もう少し時間が必要だったようです。
なんだか、汗を流して必死に押してくれた車夫たちの「人間の底力」が、いかに機械(蒸気機関車)に勝った瞬間があったと思うと、少し誇らしい気持ちになりますね!
豆相人車鉄道→熱海鉄道→東海道線へ
人車鉄道・蒸気機関車を、東海道線が置き換えるまで
このように、「人力」から「初期の蒸気機関車」へと移行したような不便な時代を終わらせたのは「東海道本線」という、まさに日本の近代化をかけた国家プロジェクト級の執念でした!
今の東海道本線がどのようにして「日本の大動脈」としての王座に就いたのか、その壮絶なドラマを解説してゆきます。
物理の限界を突破する「丹那トンネル」の着工
それまでの鉄道(人車や熱海鉄道)の課題が何だったかといえば、結局は
- 箱根の険しい山を越えられず、
- 海岸線を這うしかなかった
ということになります。
山を避けるか、ぶち抜くか
当時の国鉄は、ついに決断しました。
山を真っ直ぐブチ抜くぞ!」
16年に及ぶ死闘
そうして始まったのが、熱海と函南をそれぞれ結ぶ、丹那トンネルの建設です。
湧き出る大量の水、崩れる岩盤…。
多くの犠牲と膨大な歳月をかけ、当時の最新技術のすべてを注ぎ込みました。
したがって、このトンネルが完成した瞬間に、これまでの「坂道で止まる」「カーブだらけ」という弱点がすべて過去のものになったというわけです!
「御殿場回り」から「熱海・早川回り」へ
今の東海道本線のルートは、昔は「本線」ではありませんでした。
かつての主役は「御殿場線」
今のようなトンネル技術がまだなかった頃は、山を大きく迂回する御殿場ルートが本線でした。
しかし、このルートは急坂すぎて、重い列車を走らせるにはまるで限界がありました。
早川・熱海が「メインストリート」に!
1934年、丹那トンネルが開通したことで、ルートが今の熱海駅を通る海岸ルートに変更されたのでした。
これにより、東京から大阪までの所要時間が一気に短縮され、ついに圧倒的な「王者」としての地位を確立したというわけです。
圧倒的な「パワー」と「快適性」の進化
不評だった煙や遅さも、テクノロジーが解決しました。
電化の波
蒸気機関車の煙に悩まされていた乗客を救ったのは「電気」の力だったのでした。
すなわち、電車や電気機関車が登場したことで、それまでの煤煙は消え、加速力も劇的にアップしたというわけです。
電化:蒸気(石炭)の代わりに、電気で動くようにすることです。
これによってトンネルの中でも息苦しくなくなり、鉄道の旅が劇的に快適になったんですよ!
最後に笑ったのは「熱海」の景色
人車鉄道時代から唯一変わらず、そして今の東海道本線を支えているものがあります。
それは、車窓から見える相模湾の美しさです。
かつて車夫さんたちが命がけで眺めたあの蒼い海を、今は電車の窓から、誰もが安全に、快適に楽しむことができるというわけです。
すなわち、歴史の積み重ねが「スリル」を「最高の贅沢」へと変えたというわけですね!
私の個人的な感想
このように、当時は人車を必死に後ろから押していた車夫さんたちが、もし今の東海道本線や新幹線を見たら、腰を抜かして驚くでしょうね!
「俺たちが1日かけて運んだ距離を、こいつらは数分で通り過ぎるのか!」
って。
でも、彼らが切り拓いた「海岸沿いのルート」が、形を変えて今の日本の背骨になっていると思うと、熱海駅を通過する際のガタンゴトンという音が、なんだか歴史のバトンタッチの音のようにも聞こえてきますね。
ルートの謎:今と昔はどこが違う?

かなり海沿いを走っていた、明治時代の豆相人車鉄道
「ルートがどれくらい重なっていたか」という点は、地理好きにはたまらないポイントです!
ルートはほとんど重なっていない!
現在のJR東海道本線は、トンネルで山をぶち抜く「直線ルート」になります。
対して、豆相人車鉄道は崖っぷちの海岸線に沿って「くねくね曲がって」走っていました。
高台なのは共通?

かなり海沿いを走っていた、明治時代の豆相人車鉄道
では現在と同じ高台を通っていたのかといたのかというと、実は少し違います。
現在の線路は高い場所を通っていますが、人車鉄道はもっと海に近い、当時の生活道路(旧道)沿いを通っていました。
したがって、今よりもずっと波しぶきを感じるような低い場所も走っていたんですよ。
今回はここまで 続きは次回
おわりに:いかがだったでしょうか。
人力から蒸気機関車へ、技術の進歩が必ずしも旅の快適さに直結しなかったという事実は、なんとも興味深いですよね。
特に「煤煙」に悩まされ、かえって速度も落ちてしまうという逆転現象には驚かされます。
その後、丹那トンネルの開通によって鉄道網は劇的に進化し、熱海は現在のメインルートへと変貌を遂げました。このように、かつての苦労が今の快適な移動を支えていると思うと、感慨深いものがありますよね!
いよいよ次回はシリーズ完結です。
今回は長くなったので、続きは次回に解説します!
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