鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の歌詞(奈良めぐり3:興福寺、猿沢池など)について、わかりやすく解説してゆきます!

興福寺と猿沢池(画像はAIによるイメージです)
まずは原文から!
五重の塔のかげうつす
池は猿澤きぬかけの
柳は風になびくなり
さらに読みやすく!
五重の塔の かげうつす
池は猿沢 きぬかけの
柳は風に なびくなり
さあ、歌ってみよう!
♪ごじゅうのとうの かげうつすー
♪いーけはさるさわ きぬかけのー
♪やなぎはかぜにー ひびくなりー
奈良駅→近鉄奈良駅→若草山→奈良公園→春日大社→興福寺→猿沢池→東大寺→法華寺→西大寺→秋篠町→法隆寺→竜田山→佐保山→奈良駅
※鉄道唱歌に関連する観光地・神社仏閣のみ表記
現代語訳のまとめ
まずは、現代語訳から確認してゆきましょう。
- 三笠山(若草山)のふもと(麓)に堂々とそびえ立っているのは、興福寺である。
- その歴史ある五重の塔の美しい姿(かげ)を、ゆらゆらと水面に映し出している、
- 静かな池は猿沢の池であり、
- したがって、そのほとりにある、採女の伝説に名高い衣掛の柳は、心地よい風に吹かれて優雅になびいているのである。

江戸時代の興福寺と猿沢池(画像はAIによるイメージです)
若草山(三笠山)のふもとの興福寺
春日大社や奈良公園の南西近くには、興福寺という、これまた中臣鎌足(後の名前を藤原鎌足)にゆかりあるお寺があります。
藤原氏の氏寺・興福寺

江戸時代の興福寺と猿沢池(画像はAIによるイメージです)
興福寺は、藤原氏の氏寺として栄えてきました。
「氏寺」「菩提寺」とは?
氏寺とは、代々その先祖を祀る、あるいは供養を行うお寺のことです。
つまり、菩提寺ということです。
菩提寺とは、その一家・一族の葬式や供養などまとめて受け持つお寺のことをいいます。
ちなみに、近年では家族に対する価値観も変化しています(出産や結婚が減っている、などの理由)。
そのため、こうした菩提寺と契約する(つまり、一家代々のお葬式などの行事を、ある一つのお寺に任せる)という家庭も減少傾向にあると思います。
というか、現代は平均年収の低下により、葬式を(もちろん結婚式も)できない家庭は増加傾向にあります。
また、日本全国的に一家代々の葬式などを専門的・顧問的に受け持つことのできるお寺は減少傾向にあります。
余談:苦境にあえぐブライダル業界
余談ですが、同様にブライダル業界も苦境にあえいでいます(結婚式を予約してくれるカップルが減少している、など)。
日本人の平均年収が下がり、結婚式もお葬式も昔のようにできる若者や家族は減っているわけです。
そのため、それはある意味致し方ないといえるでしょう。
その代わり、身内だけによる小さな規模での結婚式やお葬式を行うケースが増えていると思います。
余談が少し長くなり恐縮ですが、興福寺の話題に戻ります。
興福寺は、なぜ建てられた?
興福寺は、晩年の藤原鎌足が重い病気にかかり、彼の妻が彼の病気を慰めるために、669年に造ったお寺となります。
元々は別の地に存在していましたが、710年に藤原鎌足の息子である藤原不比等によって、現在の地に移されました。
元々は「中臣鎌足」 藤原鎌足とは
藤原鎌足は、元々は中臣鎌足といいます。
藤原鎌足は、中大兄皇子(後の天智天皇)とともに、奈良県明日香村の飛鳥寺において、蘇我入鹿を倒した人物になります。
大化の改新
蘇我入鹿は、聖徳太子の死後にやりたい放題振る舞っており、これにより政治や世の中が混乱してしまったのでした。
そのため、このままではせっかく聖徳太子が理想とした中央集権国家確立のための努力も、水の泡となってしまうことが懸念されました。
そのために、中大兄皇子と中臣鎌足によって蘇我入鹿の討伐計画が企てられ、飛鳥寺で斬りつけられ滅ぼされました。
この事件のことを、「乙巳の変」といいます。
ちなみにこの討伐計画は、奈良県桜井市の多武峰にある談山神社で話し合われました。
そして、中大兄皇子と中臣鎌足によって開始された、新たに天皇の中心とした中央集権国家を造ろうという動きのことを、「大化の改新」といいます。
なお、蘇我入鹿が討たれた事件そのものを「大化の改新」とはいわないため、注意しましょう。
この事件そのものは、あくまで「乙巳の変」といいます。
「藤原」の姓を与えられ、「藤原鎌足」に
この「大化の改新」をもって、中大兄皇子は天智天皇として、天皇の座に即位します。
そして、中臣鎌足は「藤原」の姓を与えられ、「藤原鎌足」となります。
この藤原鎌足こそが、後の政治の世界で絶大な影響力を持つことになる「藤原氏」の元祖となります。
また藤原氏は、現代日本でも苗字の多い「佐藤さん」「近藤さん」「斎藤さん」などといった、「藤」がつく方々の元祖でもあります。
影響力の大きくなる藤原氏
藤原氏は先述の通り、後の世において政界で絶大な影響力を持つことになります。
大宝律令を完成させた、藤原不比等
例えば、藤原鎌足の息子である藤原不比等は、701年の「大宝律令」を完成させました。
これにより、日本を近現代のような、いわゆる天皇や政府や法からなる法治国家のようにし、中央集権国家の基礎ができました。
それまでの日本は、豪族や大王が、自分たちの「クニ」を好き勝手に治めていたのでした。
そのため、クニ同士の争いが絶えない、カオス状態だったのです。
それを、天皇を中心として中央(奈良)に権力を集約させた国家が、中央集権国家ということになります。
平城京遷都にも尽力した、藤原不比等
また、上記の藤原不比等は、710年の平城京遷都にも尽力しました。
奈良時代初の天皇である元明天皇(女性天皇)は、藤原不比等の力を借りながら、規模的に限界だったそれまでの藤原京を廃止したのでした。
そして、新しく平城京を造り上げたのでした。
長屋王の変
しかし、その不比等の息子である「藤原四兄弟」は長屋王と政権争いをしました(長屋王は敗北)。
長屋王は、藤原氏の勢いを削ごうとしたわけです。
これは729年の「長屋王の変」といいます。
恵美押勝の乱
また、その藤原四兄弟の息子である藤原仲麻呂は、後に恵美押勝と改名しています。
恵美押勝は、当時の女性天皇(称徳天皇)から(半ばえこひいき的に)愛された道鏡というお坊さんと、政権争いしたりしていました。
この争いで、恵美押勝は敗北してしまいました。
764年に起きたこの争いを、「恵美押勝の乱」といいます。
これにより、奈良時代の中央政府は常に藤原氏とそれを削ごうとする勢力の争いであり、混乱状態にありました。
中央集権国家にしてバラバラだった日本国内を一つにまとめたはいいものの、今度は中央の中同士で争うのです。
人間の権利欲・支配欲というものは、深く果てしないものですね。
政権争いを嫌い、何度も都を遷した聖武天皇
また、この中央での醜い度重なる政権争いが、それを忌避した聖武天皇が、
- 恭仁京(くにきょう※)
- 難波宮
- 滋賀県甲賀市の紫香楽宮
などに、何度も都を移した理由でもあるのです。
またこの時、都を何度も造築・増築したことによって、建設に携わる人々の負担・疲弊も増してしまったりしていました。
奈良時代は、とにかく試行錯誤と困難の連続だったというわけです。

奈良時代の、木津川(現在の関西本線・加茂駅あたり)にあった恭仁京(画像はAIによるイメージです)
※恭仁京については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

興福寺・五重塔
また、興福寺には五重の塔があるわけですが、その影を映すのが、五重塔の近くにある猿沢池の水面となります。
興福寺のすぐそば・猿沢池

猿沢池(奈良県奈良市)
猿沢池は、興福寺のそばにある、大きく綺麗な池のことです。
この猿沢池の周りには、柳という美しい木々が植えられており、また池の水面には興福寺の五重塔が映るということになります。
この柳と水面に映る五重塔が美しいとして、「南都八景」に選ばれています。
「猿沢」の名前の由来は、仏教の興った場所であるインドにある池に由来すると言われています。
また、興福寺は、南都七大寺の1つです。
南都七大寺は、前々回の「奈良めぐり1」でも解説した通り、奈良にある7つの代表的なお寺のことをいいます。

衣掛柳(きぬかけやなぎ)
また、猿沢池には「きぬかけ柳」というものが存在したようです。
これが歌詞にある「きぬかけ(衣掛)の柳」です。
「衣掛柳」とは、琵琶湖の北にある余呉湖でいえば「羽衣伝説」において、天女が落とした羽衣が掛かっていた柳のことをいいます。
これを見た漁師がわざと羽衣を盗み、天女が困っているスキを見計らって両思いになろうとするストーリーです。
ちなみに静岡県の「三保の松原」では松の木に羽衣がかかっていたのですが、余呉湖の羽衣伝説では「柳」に羽衣が掛かっていたようです。
しかし、奈良の猿沢池と衣掛柳との関連性は、かなり調べたのですがよくわかりませんでした(^^;)
調べてまた加筆します!!
ただ、この「衣掛柳」が風に響く、という光景が歌詞では歌われているのだと思います。
五重の塔のかげうつす 池は猿沢

興福寺の五重塔を映し出す、猿沢池(画像はAIによるイメージです)
興福寺のシンボルである五重塔(日本で2番目に高い木造の塔)の真下にある、周囲360メートルほどの美しい人工の池が「猿沢池」です。
風のない日に、緑豊かな木々と立派な五重塔が静かな水面にピタリと逆さに映り込む景色は、古くから奈良を代表する最高のカメラ(写生)スポットとして愛され続けています。
「きぬかけの柳」の、悲しい伝説
きぬかけの柳とは猿沢池のほとりに植えられている、ある悲しい伝説に由来する柳の木のことです。
- 奈良時代、帝の寵愛を失ったことを悲しんだ美しき宮女(採女・うねめ)が、
- 自分の衣服を、池のほとりの柳の木に掛け(衣掛け)、
- そのまま猿沢池に身を投げてしまった
という、なんとも切ない『平家物語』や謡曲の「採女伝説」が残されています。
すなわち、ただの美しい植物ではなく、そんな古のロマンを秘めた柳が、風にそよそよと揺れている様子を描いているというわけですね。
水面に映る、興福寺の五重塔のシルエット
池は猿沢…」
というフレーズ、水面に映るお塔のシルエットが目に浮かぶようで、本当にため息が出るほど風情がありますね!
前の2番の「(三笠山の)澄み切った朝の光」を受けて、この3番では静かな水面と、そこに優しくなびく柳の緑のコントラストが見事に描かれています。
昔の思いに浸りながらの、風流な歌詞
激しい歴史の波を乗り越えてきた五重塔の荘厳さと、悲恋の伝説を優しく包み込むような柳の揺らめき。
当時の旅人たちも、まさにこの池のほとりに佇み、風に揺れる柳の木をを眺めながら、
と、時間を忘れて深い感動に浸っていたに違いありません。
今回の歌詞は、奈良の歴史の奥深さと、最高の様式美がこれ以上ないほどエレガントに調和した、本当に素晴らしい一節です!
次回は、東大寺の話題
おわりに:次回は、東大寺の話題となります!
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