織田信長が最も愛したと言われる女性・吉乃(きつの)。二人の出会いが信長の人生に与えた影響などを、わかりやすく解説してゆきます!

織田信長が生涯で最も愛した女性・吉乃(きつの)。
織田信長の生涯を支えた女性、吉乃の物語

織田信長が生涯で最も愛した女性・吉乃(きつの)。
織田信長という人物は、歴史の荒波を切り開いた苛烈な英雄として知られています。
織田信長といえば・・・
- 女性や子どももお構いなく、容赦なく殺害してしまう
- 長島一向一揆殲滅(約2万人ほどが犠牲に、何重もの柵に閉じ込めて四方から火を放ち、焼き殺してしまった)
- 越前一向一揆殲滅
- 比叡山延暦寺焼き討ちのときも、逃げ惑う女・子どもたちも容赦なく殲滅
- 相手が「仏様(お寺)」でも「たたり」でもお構いなし
などといった具合で、当時の他の戦国武将とは比較にならないくらい、数々のヤヴァい殺戮の数々をやってきた、あまりなも残忍な戦国武将・織田信長。
しかし、そんなスーパーサイコパス気質の彼・織田信長が唯一、心の底から愛し、安らぎを感じた女性がいることをご存知でしょうか。
その女性の名前は、吉乃といいます。
吉乃とは、どのような人物だったのか
そんな彼女は、織田信長のスーパー破天荒な性格を全て受け入れ、「一人の人間」として愛し抜きましました。

織田信長が生涯で最も愛した女性・吉乃(きつの)。
吉乃は、尾張国(現在の愛知県北西部)の有力な豪族である生駒家の娘として生まれました。
この生駒家とは、織田信長の地である織田家とも関わりの深い、つまりサポートもあつかった家系でもあります。
彼女はやがて、信長の側室として迎えられることになりました。
そして夫婦生活ののちに、信長の長男である織田信忠を生むことになります。
「側室」とは?
吉乃について、もっと詳しく知るために、まずは「側室」という言葉を整理しましょう。
側室とは、昔の日本において、正妻以外に持った妻のことをいいます。
織田信長・吉乃の長男・織田信忠とは
織田信忠は、織田信長の長男です。
幼い頃から「英才教育」を受け、才能を発揮
彼は、幼い頃から信長のあとを継ぐべく英才教育を受けてきており、その英才教育の成果もあってか、若くして早くも武将としての才能を発揮してゆきました。
そして息子である彼は、父である信長が天下統一を進めていく中で、重要な戦場の場面においてトップの軍事指揮を任されるなど、父から絶大な信頼を寄せられていたのです。
1582年「本能寺の変」で、父と運命を共にする
しかし、1582年の本能寺の変のときに、父と運命を共にし、若くして亡くなってしまいました。
もし彼が生きていれば、その後の歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。
「正妻(せいさい)」とは
ちなみに正妻とは、簡単に言うと
- 「結婚相手として公的に認められた、(複数存在する)妻の中での、一番の存在」
のことをいいます。
織田信長の場合は、濃姫が正妻にあたります。
ちなみに「正妻」は第一夫人という言葉とも(微妙な違いはありますが)、基本的には似ています。
なぜ「側室」を設けたのか
昔の日本では、今ほど医学が発展していなかったため、生まれた赤ちゃんはすぐに亡くなってしまうことがよくありました。
そのため、一夫多妻制に近い形で、複数の女性を妻にして、なるべく多くの子を産んでもらうことがありました。
「家系の断絶を防ぐ」目的も
このようにしておけば、万一赤ちゃんが生まれなかった場合でも、家系の跡取りの断絶を防ぐことができるからですね。
今ではあまり考えられない価値観ですが、昔は家系の断絶というものは一族の存亡に関わる、何としても避けたい重大なことだったのでした。
そして正妻とは、そのような複数のお嫁さんの中でも、生まれ育った家格(家のランクの良さ)や婚姻の約束などに基づいて決定される、一番格が高いお嫁さんのことをいいます。
信長の正妻とはどんな位置付けだったのか
信長の正妻である濃姫(別名:帰蝶)は、現在の岐阜県南部に該当する、美濃国の戦国大名・斎藤道三の娘です。
信長にとって、彼女は「政略結婚」の象徴とも言える存在でした。
- 同盟の証: 濃姫は、信長と斎藤道三が、それぞれ同盟を結ぶために迎えられた女性です。
- 家格の維持: 名門の娘を妻に迎えるということは、信長自身の地位を高めることにもつながりました。
しかし、信長の生涯において、正妻である濃姫との間には実子ができなかったとされています。
そのため、信長の後継者問題については、側室である吉乃が産んだ信忠がその役割を担うことになりました。
このように、当時は
- 正妻は「家の威信」を支え、
- 側室は「血筋(跡継ぎ)」を支える
という、少し複雑な役割分担がそこにはあったようです。
吉乃が産んだ信長の子一覧
吉乃は、信長との間に3人の子供を授かりました。
- 織田信忠:長男。織田家の後継者として育てられました。
- 織田信雄:次男。のちに北畠家を継ぐことになります。
- 徳姫:長女。徳川家康の長男である松平信康のもとへ嫁ぎました。
吉乃が産んだ子供たちは、その後の織田家、そして徳川家との関わりにおいても、非常に重要な役割を果たしました。
すなわち、彼女が産んだ子供たちは、戦国時代のパワーバランスを考える上で、欠かせない存在だったのです。
出会いは、運命を変える贈り物
信長と吉乃の初めての出会いは諸説ありますが、元々織田家と縁が深かった生駒家が、信長の領地にそれぞれ近い場所にあったことが縁だと言われています。
当時、生駒家は豊かな商売を行っており、彼らの持つその盤石な経済力は、信長にとっても経済的に大きな助けとなる存在でした。
なぜ、信長は彼女を深く愛したのか
信長は、多くの女性と関係を持っていましたが、吉乃に対しては特別な感情を抱いていました。
その理由は、単なる美貌だけではなかったでしょう。
- (冒頭にも述べたような)信長の激しい性格を、ありのままに優しく受け止めてくれたこと
- 生駒家という後ろ盾(サポート)が、信長の戦を支えてくれていたこと
これらのことが、彼女を特別な存在にしたのかもしれませんね!
信長の戦の苦労のことを、吉乃だけが一番に理解していたのかもしれません。
織田信長と吉乃・織田家の歩み(時系列)
さて、ここでは織田信長の誕生からの出来事を時系列に整理してみました。
- 【1534年】信長が生まれる:尾張の戦国大名・織田信秀の嫡男として、この世に生を受けました。
- 【1549年頃】正室との結婚:美濃の斎藤道三の娘、濃姫を正室として迎えました。
しかしこれはあくまで、両家それぞれの同盟を強固にするための、重要な政略結婚でした。 - 【1550年代前半】吉乃との出会い:尾張の豪族・生駒家で、吉乃と運命的な出会いを果たしました。
- 【1550年代半ば】吉乃との結婚:側室として、吉乃を迎え入れました。
信長にとって、最も心安らぐ存在となりました。 - 【1557年】信忠が生まれる:吉乃との間に、長男の織田信忠が誕生しました。
信長にとって、待望の後継者の誕生でした。 - 【1558年】信雄が生まれる:次男の織田信雄が誕生しました。
のちに、父の勢力争いに大きく関わることになります。 - 【1560年】桶狭間の戦い:今川義元の大軍を奇襲によって破り、天下にその名を轟かせました。
- 【1566年】吉乃の死:愛した吉乃が、若くして病により亡くなりました。
信長の深い悲しみがうかがえる出来事でした。 - 【1575年】長篠の戦い:鉄砲隊を活用する戦術で、武田勝頼の騎馬軍団を打ち破りました。
- 【1582年2月】高遠城の戦い:長野県の伊那谷で行われたこの戦いは、信忠が総大将となり、武田家を追い詰めて落城させました。
父・信長の期待に応えた、信忠の輝かしい武功でした。 - 【1582年6月】本能寺の変:明智光秀の謀反により、信長と信忠が自害し、果てました。
- 【1584年】小牧・長久手の戦い:豊臣秀吉に対し、次男の信雄が徳川家康と手を組んで戦いました。
戦国時代の権力構造が大きく揺れ動いた戦いです。
こうしてみると、吉乃が亡くなった1566年という年が、いかに信長の天下統一の夢が本格化する中で、一つの大きな節目だったことがわかりますね。
彼女の死から本能寺の変まで、信長はどんな思いで走り続けたのでしょうか。
若くして訪れた別れ
このように順風満帆に見えた二人の関係ですが、結婚してから約10年後の1566年、残酷にも別れは突然やってきました。
吉乃は、信忠を生んだ後も、信長の寵愛を受け続けていました。
しかし、彼女は病弱だったようで、若いまま亡くなってしまったのです。
彼女が亡くなってからも、信長は天下 統一のために走り続けた
信長は、彼女の死を深く悲しみました。
その悲しみは、信長がその後、ますます戦に没頭するようになった理由の一つとも考えられています。
吉乃の死という悲しみは、信長にとって人生最大の喪失感だったと言われています。
しかし、彼はそこで立ち止まることは決してありませんでした。
むしろ、その悲しみを払拭するかのように、より一層激しく天下統一へと突き進んでいったのです。
彼女が亡くなった後も、信長は生駒家を大切にし続けました。
それほどまでに、彼女の存在は彼にとって大きかったということですね。
吉乃を失った後の織田信長の奮闘と苦戦
次に、戦国時代の大きな転換点ともいえる二つの出来事と、彼女(吉乃)が産んだ2人の息子である織田信忠と織田信雄それぞれの戦いについて解説しますね。
悲しみを「天下統一」への燃料に変えて
吉乃が亡くなった1566年の翌年、信長は美濃(岐阜)の稲葉山城(現在の岐阜城)を攻略しました。
そして、稲葉山のことを(現在に続く地名である)岐阜と改称して、天下統一のための拠点としました。
すなわち、現在でも「岐阜県」という県名にもなっている「岐阜」という地名は、織田信長が考えたというわけですね。
不屈の精神の裏側と「苦戦」
もちろん、信長の戦いすべてが順風満帆だったわけではありません。
彼女が1566年に亡くなった後も、
- 当時の北陸地方の強者だった、浅井・朝倉氏との長年にわたる苦戦(およそ1570年から1573年まで)
- 現在の大阪城の位置に存在していた、石山本願寺との泥沼のような戦い(1570年から1580年という、実に10年にもおよぶ長期間の戦い)
などの「アンチ織田信長の勢力」も黙って負けるわけにもいかなかったので、信長としてもすんなり勝てるわけにもいかず、困難も数多くありました。
数多くの困難 決して諦めなかった織田信長
しかし、例えどんなに追い詰められても、彼は決して諦めませんでした。
むしろ逆境になればなるほど、彼の持つ「創造力」と「決断力」はより冴え渡っていったのです。
吉乃という安らぎを早くして失った後の信長は、そんな孤独の中でこそより強く、そしてより冷徹な「魔王」としての道を突き進むしかなかったのでしょうね。
そんな信長の強さは、見ているこちらが圧倒されてしまうほどです。
織田信忠と高遠城の関係
織田信忠にとって、高遠城(長野県)の戦いは、父・信長から託された軍団の総大将として、その実力を証明する場でした。
武田征伐のクライマックス
1582年(の織田信長が本能寺で敗れる少し前)、信長による山梨県への侵攻である甲州征伐のときに、長男・信忠は総大将(その隊の全てのリーダー)として軍を率いました。
そして、武田勝頼の本拠地である山梨県(甲斐国)を攻め落とすべく目指しました。
高遠城の攻略
この時、山梨県(甲斐国)の一歩手前にある長野県(信濃国)の高遠城を守っていたのは、武田信玄の息子である、仁科盛信でした。
この時のFAT武田勝頼最後は1575年の長篠の戦いで織田信長の鉄砲隊に敗れてからは、次々に地元の山梨県(甲斐国)で勢力を失っていました。
そして、どんどん味方が裏切ってゆき、仲間が減っていく中で、仁科盛信だけは主君(リーダー)の武田勝頼を裏切らずに、最後まで高遠城を守り抜いたのでした。
しかしながら、後にも述べる通り、織田信忠の圧倒的な軍勢の前に負けてしまうことになります。
激戦の結末
信忠の軍勢は、その圧倒的な兵力で城を包囲してしまいました。
先にも述べた仁科盛信による激しい抵抗などにも阻まれつつも、激しい攻撃の末についに落城させました。
高遠城(たかとおじょう)とは?
高遠城とは、現在の長野県伊那市にあった城のことをいいます。
険しい山々に囲まれた、守りの堅い場所として知られていました。
この戦いで長男の信忠は、単なる「信長の息子」というだけではなく、晴れて一人前の大将(武士のリーダー)としてその武名を世の中に轟かせたというわけです。
そして父である信長も、この戦いにおける勝利を非常に喜んで誇りに思い、信忠を高く評価したと言われています。
織田信雄と小牧・長久手合戦の関係
吉乃の次男・織田信雄にとって、1584年の現在の愛知県において行われた小牧・長久手の戦いは、まさしく自らの立場と運命を大きく変えた重要な戦いでした。
- 主役の一人: この戦いは、信長が亡くなってから好き放題に勢いをを伸ばしてきた豊臣秀吉に対抗するために、信長の息子である織田信雄が、徳川家康にうまく相談・説得して味方に引き入れて起こしたものです。
- 発端: 信長が本能寺の変で亡くなった後、残された織田家内での実権をめぐって、信雄と秀吉が対立したことがきっかけでした。
- 戦いの場: 現在の愛知県周辺(やや 岐阜県に近い小牧山あたり)を舞台に、激しい陣取り合戦が繰り広げられました。
小牧・長久手の戦い
「小牧・長久手の戦い」とは、戦国時代の終わりにあたる1584年に起きた、織田・徳川連合軍と豊臣秀吉との間で行われた大きな軍事衝突のことをいいます。
当時の日本で、誰が天下を握るのかを決める重要な戦いでした。
信長・吉乃の息子である信雄は、この戦いの「主役」として参戦し、初めは味方の徳川家康の善戦・奮闘により、秀吉をかなり追い詰めるほどに有利な状況にありました。
しかし、「家康、恐るべし」と徳川家康のあまりにもの軍事力に「これは勝てない」と悟ってしまった秀吉が、軍事力ではなく会議に切り替えたため、途中で戦うのをやめて秀吉と単独で和睦を結んでしまいます。
信雄のこの決断(秀吉との和睦交渉)により、戦いの大義名分を失った家康は、撤退を余儀なくされました。
こうして、元々は信長の息子である信雄が主導したはずの戦いでしたが、結果として、彼は秀吉の配下に入る(下手に逆らわずに、秀吉の下につく)という道を選ぶことになりました。
そうした経緯を考えると、信雄にとってこの戦いは、野望の始まりでありながら、同時に織田家が実質的に歴史の表舞台から退くきっかけにもなった、非常に切ない出来事だったと言えますね。
高遠城での勝利と、小牧・長久手での葛藤。
それぞれに異なる運命を感じますね。
吉乃の生涯から見えるもの
吉乃という一人の女性の生涯を振り返ると、戦国時代の女性たちの強さを感じます。
彼女は権力者の陰に隠れがちですが、織田信長という大きな存在を、内側から支えた重要な人物でした。
吉乃がいなければ、後の織田信忠の誕生も、そして信長の天下布武の夢も、少し違った形になっていたかもしれません。
歴史を彩る存在として
吉乃については、記録が少ないために謎も多いです。
しかし、信長が彼女を愛し、彼女が生駒家から信長を支えたという事実は揺るぎません。
したがって、歴史は大きな出来事だけでなく、こうした個人の絆によって作られているのです。
すなわち、私たちは歴史を見る時、そうした小さな物語にも目を向けることが大切なのですね。
おわりに・まとめ
吉乃の生涯は、短くも輝かしいものでした。
彼女が、信長の心の中に永遠の安らぎとして存在し続けたことを、私たちは忘れてはなりません。
彼女の生涯を知ることは、すなわち信長の隠された「人間味」に触れることでもあります。
ぜひ、この絆の物語を、信長という人物を深く理解するための鍵にしてくださいね!
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