【三重県】東海道・関宿の歴史探訪について、かわりやすく解説!

東海道・関宿(三重県亀山市)

今回は、三重県亀山市・関宿の歴史に迫ってゆきます!

関宿の歴史、さらに重要文化財とは何かなどの知識について、わかりやすく解説してゆきます!

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東海道・関宿とは?かつての江戸時代の町並み

関宿(せきじゅく、せきしゅく)は、三重県亀山市(かめやまし)にある、江戸時代の東海道の宿場町のひとつです。

東海道・関宿(三重県亀山市)

亀山市(かめやまし)は、三重県最大の都市・四日市市(よっかいちし)のややみなみにある街です。

東海道・関宿(三重県亀山市)

東海道とは、昔(江戸時代まで)の人が徒歩または馬で、江戸~京都まで旅をするときに、徒歩または馬で向かっていた道路の一つです。
何日も何日も(約20日ほど)宿場町に泊まりながら、時にはきつい峠(鈴鹿峠など)を越えながら向かうという、現代人の我々にとっては命懸けのような旅をしていったわけです。
東海道には全部で53の宿場町があったため、「東海道五十三次(なかせんどつろくじゅうきゅうつぎ)」と呼ばれたりもします。
関宿は、東海道五十三次の47番目の宿場町になります。

明治時代に鉄道が全国に出来ていったことで、距離によっては日帰り旅行も可能になったことから、宿場町は徐々にその必要性が失くなり、姿を消してゆきました。しかし関宿は、そんな江戸時代の姿をほぼそのまま残している、貴重な存在になります。

ちなみに東海道本線東海道新幹線は、やや北の岐阜県側を通っています。これは、明治時代に険しい鈴鹿峠(すずかとうげ)を越えられなかったことの名残です。

関宿から眺める、明治時代に鉄道が越えられなかった鈴鹿の山々(三重県)
東海道・関宿(三重県亀山市)

関宿は、三重県の北西端、鈴鹿山脈(すずかさんみゃく)の山のふもとに位置しています。そして、「これから険しい鈴鹿峠を越えるぞ」という旅人たちと、「鈴鹿峠を降りてしてほっとしている」旅人たちで、大いに賑わったのでした。

鈴鹿山脈(すずかさんみゃく)は、三重県と関西地方のあいだに位置する山脈です。京都・奈良から江戸方面へと向かうためにはこの峠を越えるのは必須でしたが、大昔はなかなかこの険しい山脈を越えられず、多くの人々が苦労しました。

鈴鹿山脈・明治時代の鉄道事情などについては、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

関宿へのアクセスは、関西本線・関駅(せきえき、三重県亀山市)からが便利です。

「関宿」の由来

東海道・関宿(三重県亀山市)

関宿」の宿場の名前の由来は、大昔の「日本三関(三大関所)」

愛発の関(あらちのせき:越前国)
不破の関(ふわのせき:美濃国)

とともにその一つに数えられた、飛鳥時代の670年頃に軍事上の目的で設置された「鈴鹿の関(すずかのせき)」に由来しています。

上記の古代三つの関所については、以下の記事でもわかりやすく解説しているため、ご覧ください。

関宿は、大昔から交通における重要ルートの上に位置していました。そして飛鳥時代の672年に起きた壬申の乱(じんしんのらん)の頃に、先述の古代三関の一に数えられた「鈴鹿関(いせすずかのせき)」が置かれたのでした。
この壬申の乱のときに、政治トラブルに敗れて滋賀県・大津京(おおつきょう)を追われ、美濃(岐阜)方面へと逃げて体制をはかろうとした大海人皇子(おおあまのおうじ:後の天武天皇)が、追手が追ってこられないように「鈴鹿の関」を閉ざしたことはよく知られています。

壬申の乱については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

「重要伝統的建造物群保存地区」とは?

関宿は国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。・・・ちょっと長くて難しい単語ですが、これは後ほどゆっくり詳しく解説します。
このため、関宿では江戸時代当時の「いい意味で古く、綺麗な町並み」が、素晴らしいクオリティを保ったままで保存されています。

重要伝統的建造物群保存地区は、日本の文化財保護法において規定されている、公費(国のお金)を使ってまで保護されるべき文化財のひとつです。

詳しくは、後のセクションでより深く解説してゆきます。

文化財保護法とは なぜ制定された?

文化財保護法は、国や町などから指定された(厳しい基準・診査をクリアした)文化財については、これの保存・維持のために必要な経費の一部を、公費(国や町のお金)で負担することができる、という法律です。つまり、国のお金を使ってでも、守るべき価値のある文化財を保存・維持していこうという法律です。

ではなぜ、文化財保護法が制定されたのか。

この法律が制定されるきっかけとなったのは、法隆寺のとある事件でした。

1949年、奈良県の法隆寺(ほうりゅうじ)において火災が発生してしまい、国にとって超大事な金堂壁画(こんどうへきが)が焼損してしまう、という残念な事件が起こりました。

この「貴重な物」を失ってしまった事件をきっかけに、国として(お金をかけてでも)文化財を守っていこうという、という法律として文化財保護法が制定されたというわけです。

伝統的建造物群保存地区に指定されるメリット

この文化財保護法でいう「伝統的建造物群保存地区」とは、例えば

  • 城下町:有名なお城の下に築かれた、歴史的な町並み
  • 宿場町:今回の関宿のように、江戸時代までの貴重な建物が並ぶ町並み
  • 門前町:有名なお寺の回りに築かれた、伝統的な町並み
  • 港町:有名な港湾・津の回りに築かれた、伝統的な町並み
  • かつて栄えた農村

など、とても風流ある伝統的な建造物たちが並んでいる地域などといった、歴史的な価値・景観などがある(お金と労力をかけるだけの価値がある)ような環境・地域を保存・維持していくために、国や町が厳しい審査のもとで定める地区のことをいいます。

現在の伝統的な観光地が江戸時代のものに関わらずピカピカに綺麗なままのは、国や町が税金をかけて綺麗に保存・維持しているからです。
それは、国がお金をかけてでも綺麗に保っておきたい「国宝」のような場所だからです。
でないと、昔の建物は長年の雨風にやられて腐敗・損壊してしまい、まるで廃墟のようになってしまいますからね。
こうなると景観も崩れますし、地震で倒壊したり火災のリスクも高まってしまいます。
なので、公費(お金)をかけてでも昔の価値ある建物を守っていこうというわけです。

しかし、公費(国・町のお金)が使われているため、指定された地区は必ず、その景観や建物などを維持していく努力をしていかなければなりません(そういう義務が発生します)。もしそれを怠ってボロボロの状態にしてしまうと、指定(お金が降りる)を取り消される可能性もあるかもしれません。

重要伝統的建造物群保存地区選定基準とは?

重要伝統的建造物群保存地区選定基準(漢字が多すぎてわかりにくい・・・)とは、

重要で伝統的な建造物たちを保存している地区を、(厳しく)選ぶ(審査する)ための基準

のことです。つまり、伝統的な町並みに対して、(国のお金を使ってまで)保存していくのに価値がある町並みかどうか、についてを選定するための審査基準のことです。

これらは法律・法規の文章用語なので、とても漢字が多く、一般人にとって日時生活では普段使わないような難しい表現もたくさん使われているため、これに関してはゆっくり読み進めていくしかありません。

重要伝統的建造物群保存地区選定基準」では、国や町によって選定される保存地区となる審査基準を、次のように定めています。

・伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの。
 意訳古くて良い趣(おもむき)のデザインのある町並みの地域である必要があるよ。
・伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持しているもの。
 意訳いい意味で「古い」ものがいいよ。「ボロい」のはNGだよ。
・伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの。
 意訳地域の誇る、伝統的なものであることが必要だよ。例えば「織田信長」「徳川家康」みたいな歴史的有名人に関係あるような場所だと、ポイント高いよ。

難しいですが、つまりこれらの条件を満たしていればOKというわけです。
そしてこれらに認定されるとお金が降りるわけなので、認定されるにはかなり厳しい基準と審査が必要です。

例えば
かつて織田信長が全力でお金をかけて整備した、安土桃山時代の美しく伝統的な町並み
であれば、この基準・審査に通りやすいです。
それは「織田信長」という誰もが知っている有名人物のネームバリューが入っていることと、また時代を感じる美しい町並みに価値があるからです。

一方、例えば
その辺のボロい家が無駄に並ぶ場所
誰が住んでいたかわからないような崩れた小屋が並ぶ場所
などの町並みは、残念ながら選定されません(当然ですが)。
国が使える税金には限りがあるため、そのようなところにいたずらにお金をかけるわけにはいかないからですね。

関宿は、この厳しい「重要伝統的建造物群保存地区選定基準」をクリアした場所であるため、それだけ歴史的価値がある、また地元の人々によって全力で保存・維持されたいる場所ということになります。なので、三重県亀山市に来たら何としても見に来ておきたい場所だというわけです。

地域住民による、「町並みの保存」のための努力

現在の日本全国の主要都市においては、例えば「江戸時代の木造建築」や、「明治時代の赤レンガ造りの建物」を、ほとんどみかけることはありません

その主な理由は、

  • 巨大地震(例:関東大震災など)などで倒壊してしまった
  • 戦争における空襲によって、ほとんど焼き払われてしまった
  • 新しいビル等の再開発のために、古い建物はどんどん取り壊された

などです。こうした事情により、日本で「江戸時代の木造建築」や、「明治時代の赤レンガの建物」などが見られる場所は限られているというわけです。

そんな中、関宿は江戸時代当時のままの町並みが残されているため、とても貴重であるというわけです。

このことから、地元の皆さんの間で「関宿の町並みを保存していこう」という機運が次第に高まってゆきました。

やがて多くの家屋を、伝統的な建造物として修復・保存がなされてゆくことになりました。
こうした努力の末、関宿は1984年に全国で20番目・三重県では初となる、国の「重要伝統的建造物保存地区」に選定されました。これは先ほど述べた通りです。

関の小万(せきのこまん)の物語

関宿には、江戸時代の女の子である小万(こまん)ちゃんの物語があります。この物語は、女の子でありながら武術で親の敵討ちをしたというエピソードから、とてもインパクトがあるストーリーとして語り継がれています。

小万ちゃんは、久留米藩(くるめはん:福岡県久留米市)にいた、とある武士の娘にあたります。この久留米藩士は、当時の久留米を支配していた有馬氏(ありまし)の家来でした。しかし、彼は何らかの恨み(?)を持たれていたそうで、殺されてしまいました。
殺された久留米藩士の妻は、当時小万ちゃんを妊娠しており、お腹が大きいという体でありながら、敵(かたき)討ちのために、(九州・久留米から)敵がいるという三重県・亀山を目指すという旅に出たのでした。

しかし妻は九州からはるばるやってきた長旅の疲れにより、関宿の地蔵院(じぞういん)の近くにあった旅籠(はたご:一般人が泊まる宿のこと)である山田屋の宿において世話になることになったのですが、小万ちゃんを生んだ後に残念ながら亡くなってしまいました。つまり、妻は亀山まではやってきたものの、敵討ちは果たせなかったわけです。
生まれた小万ちゃんは、山田屋の夫婦のもとで育てられることになり、15歳になったときに母の遺言を聞かされて、母親の遺志をついで敵討ちを決心します。やがて亀山の道場において3年間の剣術の修行をつんだのち、敵がいる亀山城において、亡き父の仇討ちを果たしたのでした。

「関の山(せきのやま)」という言葉の由来にもなった関宿

関の山(せきのやま)」という言葉がありますよね。これは「もうこれが限界だ」「これ以上は無理だ」という意味の言葉です。

例文:

  • どれだけ勉強しても、せいぜい70点取るのが関の山
  • 今日はここまで終わらせるのが関の山
  • どれだけ練習しても、せいぜい予選通過できるのが関の山

といった具合で使われる言葉ですね。

この「関の山」は、関宿が由来となっています

「関の山」は、今や関宿で伝統的行事となっている祇園祭(ぎおんさい)において、空にそびえる山車(だし)が、とても立派だったことに由来する言葉です。

山車(だし)とは、祇園祭のときに町の中を練(ね)り歩く、空にそびえるような大きな神輿(みこし)のような乗り物です。この山車には「豊作」「商売繁盛」などの願いが込められています。

こうした関宿に現れた巨大な山車を見て、
その山車以上の豪華なものは作れないだろう
という意味から、
もうこれが限界だ」「精一杯だ
という意味の言葉として使われるようになったわけです。

また他にも、関宿の宿場町のなかを大きな山車が進んでいくという様子から、山車が十分に進めるスペースがなく、もうこれで「限度いっぱいだ」という意味から「関の山」という言葉が生まれた語源となったなど、諸説あります。

今回はここまで。是非、三重県・関宿へ!

今回は、関宿の歴史について、より深く探求してみました。

もし青春18きっぷなどで三重県・関西本線などに乗られる機会があったら、是非とも関駅で降りて、関宿を訪ねてみられたらと思います!

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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