今や誰もが憧れるイケメン武将・真田幸村。信濃や九度山のエピソードから大坂の陣での奮闘と最期まで、わかりやすく解説してゆきます!

今やイケメン武将として名高い「真田幸村」。幸村の胸に描かれている模様が、現在の上田の街でも多く見かける「六文銭」。(画像はAIによるイメージです)
真田幸村
乱世を駆けた「日本一の兵(ひのみといちのつわもの)」
真田幸村(本名:真田信繁)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将ですね!
その生涯は、まさに波乱万丈という言葉がぴったりです。
真田幸村の基本プロフィール

今やイケメン武将として名高い、真田幸村。
- 名前:本名は、真田信繁といいます。幸村という名前は、あくまでも後世の創作や講談で広まった通称として有名ですね。
- 出身:現在の長野県にあたる信濃国において、(戦国時代に徐々にこの地域で力をつけ始めていた)国衆であった、真田家に生まれました。
生涯ずっと「信繁」という名前だった?
そう、彼が自分で書いた手紙や、当時の正式な歴史書類には、あくまですべて真田信繁と書かれています。
したがって、本人が生きていた戦国時代には、誰一人として彼のことを「幸村」とは呼んでいませんでした。
あくまでも生涯ずーっと「信繁」として生き、その名前のまま最期は大坂の陣で亡くなったというわけです。
なぜ「幸村」という名前になった?
では、なぜ「幸村」という名前になったのでしょうか。
彼が亡くなってから約60年後、江戸時代に書かれた軍記物語(いまの歴史小説のようなもの)で、なぜか「幸村」という名前で登場したのがキッカケです。
この本が大ヒットしたため、講談や歌舞伎でも「真田幸村」として描かれ、日本中に定着してしまいました。
なぜ「幸村」という漢字が選ばれたのか?
このことについては、以下の面白い説があります。
- 「幸」の由来:この文字は真田家が代々受け継いできた大切な漢字(通字といいます)です。
すなわち、偉大なる父親の真田昌幸や、祖父の真田幸隆から取られました。 - 「村」の由来:これは、真田家の長年の宿敵であった徳川家を呪うという恐ろしい妖刀として恐れられていた「村正」から取った、という説があります。
すなわち、「幸村」という名前は、
- (「大阪の陣」で)徳川家康を最も追い詰めた男
にふさわしい名前として、後世の人たちが「カッコいい名前」として名付けたのかもしれませんね!
真田幸村:生まれは長野県上田市?
六文銭などのイメージから、長野県上田市出身のイメージが強い真田幸村ですが、実は、上田市ではない可能性が非常に高いです!
というのも、真田幸村が生まれた当時、父親の真田昌幸は、まだ上田城を築いていませんでした。
元々は甲斐国(山梨県)で、武田信玄らに仕えていた
つまり当時は、甲斐国(現在の山梨県甲府市)において、当時とても強すぎた戦国大名である武田信玄・勝頼の親子の下に仕えるという、あくまでも若手家臣(つまり、部下)として暮らしていたのでした。
つまり、元々の地元はあくまで山梨県であり、はじめは長野県ではなかったのでした。
したがって、真田幸村の生まれた場所は、山梨県甲府市の武田城下町だったというのが、現代の研究での定説となっています。
そして当時は、あまりも強すぎた武田家の部下という扱いであり、まだまだ真田家の力は弱かったのでした。●
1582年、武田家の滅亡とともに、信州・上田で力をつけ始める
実際に長野県の上田に移住したのは、1582年に、武田信玄の息子がある勝頼が(織田信長らの軍に攻め込まれたことにより)滅亡してしまい、逃げるように移住してきたというわけですね。●
上田市の「六文銭」は幸村に大いに関係している?
上田市の「六文銭」は、幸村に大いに関係しています。
「六文銭」は真田家の代々の家紋(旗印)ですので、もちろん幸村にも深い関係があります。
この六枚の小銭は、仏教でいうところの「三途の川の渡し賃」を意味しています。
つまり、人が亡くなった時にわたる「三途の川」を渡るための料金であるということになります。
そして真田幸村は戦いに挑むとき、「いつ死んでもいい」という覚悟で挑んでました。
つまり毎回毎回、命がけの覚悟で戦に臨んでいたというわけです。
「いつ死ぬかもしれない覚悟で」そんな意味が込められた「六文銭」
このように、六文銭は、
「いつ死んでも構わない、不惜身命(命を惜しまない)」という決死の覚悟を表しています。
これだけでも最高にカッコいいですよね!
不惜身命:仏教の言葉であり、たとえ自分の大切な命を捧げてでも、成し遂げたいことや信仰を貫くという強い覚悟のことです。
現在では上田市のシンボルとしても、広く愛されるようになりました。
当時の真田家は、信長が滅んでから出てきたばかりの新しい勢力だった?
また、当時の真田家は、信長が滅んでから出てきたばかりの新しい勢力でした。
織田信長が本能寺の変で倒れる直前に、それまでずっと真田家が山梨県(甲斐国)において仕えていた巨大大名(であり上司・リーダー)の武田家が滅亡してしまいました。
これにより、真田家は後ろ盾を失い、完全に孤立してしまったのです。
さらに、織田信長が「本能寺の変」で急死したことで、信濃国(長野県)は一気に誰も支配者がいないという、まさしく「大混乱地帯」となりました。
このとき、父親の真田昌幸が
と立ち上がったのでした。
すなわち、真田家が「歴史の主役」として表舞台にギラギラと頭角を現したのは、まさに織田信長が滅んだ直後の大混乱期からでした。
生まれたばかりの小さな新しい勢力だったからこそ、周囲の巨大な大名たちを翻弄する真田家の知略が、より一層際立って面白い歴史ドラマになったのですね!
信長が滅んだ後、群馬県の沼田に勢力を伸ばしてきた?
信長が滅んだ後、真田昌幸率いる真田家は、群馬県の沼田に勢力を伸ばしてきました。
織田信長が本能寺の変で倒れると、周囲の巨大な大名たち(関東の後北条氏、越後の上杉氏、東海の徳川氏)が、それぞれ一斉にこのエリアを奪おうと襲いかかってきたのでした。
これを歴史用語で天正壬午の乱と呼びます。
天正壬午の乱:とは、織田信長が死んだ直後、空き地(空白地帯)となった信濃(長野)や上野(群馬)の領土をめぐって、徳川・北条・上杉・真田が大激闘を繰り広げた、戦国時代屈指の大混戦です。
天下を揺るがした「沼田問題」
この真田昌幸が必死に守った沼田ですが、のちに徳川家康から
と頼まれます。
しかし、真田昌幸は
とブチギレて拒否。
これがキッカケで、徳川軍が上田城に攻め込んでくるという「第一次上田合戦」が勃発しました。
最後まで貫いた信念
幸村の人生には、非常に切ないエピソードもあります。
関ヶ原の戦いで、父と幸村は豊臣方(西軍)に、兄の真田信之は徳川方(東軍)に分かれました。
これは、「真田家という家系を確実に存続させるため」の苦渋の決断でした。
すなわち、一族がバラバラになっても「真田」という名前を残そうとしたのです!
その結果、兄は幕府側で生き残り、幸村は己の忠義を貫き通しました。
家族を守るための究極の選択に、私は深い人間味を感じてしまいますね。
犬伏の別れとは
関ヶ原 faint の戦いが起きる前の1600年に、栃木県の犬伏という場所において、
- 真田家が「東軍(徳川側)」と「西軍(豊臣側)」に分かれる
ということを決断した、真田家の運命の分かれ道です。
つまり真田家は、関ヶ原の戦いにおいて、たとえ東軍・西軍のどちらが勝ったとしても、真田家が後に残るようにしたというわけです。
この苦渋の決断が、のちに真田の血筋を後世に残す最大の鍵となりました。
真田信幸・小松姫のエピソード
この「犬伏の別れ」の直後、最高にしびれる有名なエピソードがあります。
西軍につくことを決めた父・昌幸と幸村は、上田城へ帰る途中に、兄・真田信之が留守にしている(群馬県の)沼田城に立ち寄りました。
真田昌幸は「孫の顔が見たいから、ちょっと城を開けてくれ」と嘘をつき、そのまま沼田城を乗っ取ろうとしたのです。
これを見抜いた小松姫は、なんと自らフル装備の鎧をまとい、薙刀を手に持って城門の上に立ち塞がりました!
- 「たとえお義父様であっても、今は敵味方!留守中の城に武装した軍勢を入れるわけにはまいりません!どうしても入るなら、この私が相手になります!」
しかし、彼女のこの凛とした態度に、天才・昌幸も
- 「さすが本多忠勝の娘、信之にはもったいないほどの良妻だ」
と大絶賛し、引き下がったと言われています。
したがって小松姫は、あくまでも真田の家を守るため、夫の立場を守るために戦った、真田家にとって大恩人の素晴らしい女性ですね!
小松姫については、以下の各記事でも解説していますので、ご覧ください。


幸村と九度山について
九度山(現在の和歌山県九度山町)での生活は、大坂の陣で「日本一の兵」として覚醒する前の真田幸村(信繁)が、実に14年もの歳月をじっと耐え忍んで過ごしていたという、運命の場所です。
九度山は高野山の麓にある、和歌山県橋本市の近くにある町です。
かつて1000年前、この山を開いた弘法大師・空海が、(女人禁制で女性が立ち入れなかった)高野山の麓に来ていた母親に「九度会いに行った」ことから、この名前がつけられています。
なぜ紀州・九度山に流れ着いたのか?
まず、真田幸村らはなぜ紀州・九度山に流れ着いたのか。
理由は、関ヶ原の戦いでの敗北と、お兄さんの必死の助命嘆願(命乞い)です。
1600年の関ヶ原の戦いで、
父・昌幸と幸村は、徳川家康の息子である秀忠が率いる大軍を、上田城において足止めするという大金星(大勝利)を挙げました。
しかし、本戦で西軍が敗れたため、真田家は「敗将」となってしまいます。
激怒した家康は、2人を死刑にしようとしました。
しかし、ここで立ち上がったのが、徳川方(東軍)として戦っていたお兄さんの真田信之です!
真田信之は、自分のこれまでの手柄をすべて投げ打つ覚悟で、
と、家康に対して涙ながらに訴えかけました。
これには、徳川のとても重要な部下であった本多忠勝(信之の義理の父親)からの執成しもありました。したがって、家康もついに折れ、本来の死刑から「高野山への流罪(追放処分)」へと減刑されたのです。
しかし、高野山は冬になると猛烈に寒く、幸村の妻や子供たちも一緒だったため、山の麓にある、比較的気候が穏やかな九度山での蟄居(謹慎生活)が認められました。
九度山での生活とは?(織物などを作っていた?)
九度山での生活はめちゃくちゃ苦しく、生活費を稼ぐために、実際に織物を作って売っていました!
真田家はすべての領地を没収されていたため、収入がゼロでした。
お兄さんの信之が仕送りをしてくれていましたが、監視の目が厳しく、十分な額は届きませんでした。
そこで、真田幸村たちは生活費を稼ぐために、真田家に伝わる独特の頑丈な織物を作って販売しました。
これこそが、現代でもスマホのストラップや桐箱の紐として有名な「真田紐」です!
真田紐とは、縦糸と横糸をきつく織り込んだ、非常に頑丈な紐(ひも)です。
刀の柄(持ち手)を巻いたり、重い荷物を縛ったりするのに重宝されました。
現代の「シートベルト」の元祖のようなものです。
また、真田幸村は監視の目をゴマかすために、お酒を飲んでぐうたらな日常を演じたり、「もう歳をとって歯も抜け、髪も白くなりました」という弱音の手紙をわざと送ったりしていました。
徳川方に「あいつはもう、ただの枯れた老人だ」と油断させるための、これまた高度な演技(情報戦)だったのです。
真田昌幸は「もう一度、徳川と戦いたかった」と言い残して亡くなった
父・真田昌幸は、九度山にいる間も
と執念を燃やし続けており、常に秘かに新たな兵法を練り直していました。
しかし、徳川側からの赦免(許し)の連絡は一向に届くことはなく、時だけが虚しく過ぎていきました。
ついに1611年、真田昌幸は九度山で病に倒れ、65歳でこの世を去りました。
そして彼の死の間際において、彼は幸村に対して「徳川と戦うための秘策(大坂城での戦い方)」をすべて伝授し、
と、無念の言葉を遺したとされています。
このように、この父親の凄まじい執念と悔しさが、幸村の心に深く刻み込まれたというのは間違いありません。
残された幸村が、九度山から大坂の陣へ立ち向かった経緯
父が亡くなってから3年後の1614年、ついには豊臣側と徳川側の緊張が高まってゆき(大坂冬の陣)、歴史が動き出します。
すなわち、江戸に幕府を開いて、本当に日本一の天下を取ったのは徳川であったはずなのに、大阪にはまだ依然として秀吉の息子である秀頼が大阪城という立派な城を構えていました。
かつて秀吉にはかなりお世話になり恩があるとはいえ、次第に家康としても大阪城の存在を放っておくわけにはいかなかったのでした。
こうして江戸の徳川家康との戦いが避けられなくなった時、孤立無援だった豊臣家は、各地の腕に覚えのある武士たちをスカウトし始めました。
そして、あの
- 「徳川を二度も破った、真田昌幸の息子」
である幸村にも、豊臣家率いる大阪城からのオファーがやってきたのでした。
そんな豊臣側からのオファーは、
- 黄金200枚、銀30枚
- そして勝ったあかつきには、信濃国(長野県)を丸ごとプレゼントする」
という、まさに破格の条件でした。
こうして真田幸村は、
このようにして、真田幸村は(今いる九度山から)、即座に大坂城へ行くことを決意します。
九度山からの脱出
しかし、九度山には徳川の監視役(和歌山藩の兵)が、常に目を光らせていました。
そこで真田幸村は、村人たちを集めて盛大な「お別れの酒宴」を開き、監視の兵たちにもたらふくお酒を飲ませて、ベロベロに酔っ払わせました。
そして、全員が寝静まった深夜、裏口からサッと抜け出し、闇夜に紛れて九度山を脱出したのです!
こうして、14年間の潜伏生活を破った真田幸村は、父の遺志と真田の誇りを胸に、大坂城へと鳴り物入りで入城していきました。
ここから、あの伝説の「真田丸の戦い」へと繋がっていくのですね!
大坂の陣が始まるまでの、様々な経緯やエピソード
大坂の陣について、非常に核心を突いた、教科書には載っていないような、当時の生々しい駆け引きが分かる部分について解説します。
林羅山に関係する、家康の「言いがかり」から始まった?
まず、真田幸村らが戦うことになる大阪の陣は、江戸時代初期の林羅山という学者に関係する、家康の「言いがかり」から始まりました。
元々は豊臣家が京都に建てた大仏(方広寺)の鐘に刻まれた、
- 「国家安康」→「家」と「康」の文字が分断されている→「家康の破滅を意味する」と曲解される
- 「君臣豊楽」→「(徳川を差し置いて)豊臣が栄えることを意味する」と曲解される
という文字がキッカケでした。
すなわち、当時の徳川家康の頭脳(ブレーン)であった学者の林羅山が、この文字を見て、家康に対して次のように吹き込みました。
これは徳川に対する呪詛(呪い)に違いありません!」
文字に対する「難癖」?
現代の私たちからみれば「とんでもない言いがかり(難癖)」ですよね。
しかし当時のルール(避諱:ひき)では、
- 「目上の人の本名を、勝手に文字に刻むのは非常に失礼」
という常識がありました。
そのため、100%言いがかりとも言い切れず、徳川家康と林羅山はこの「豊臣側のマナー違反」を最大限に悪用して、戦争を仕掛けるための完ぺきな口実にしたというわけです。
家康は契約に反して、大坂城の内堀まで埋めてしまった
また、前年(1614年)の大坂の「冬の陣」の和議(平和条約)のとき、徳川・豊臣のそれぞれの和解のための契約書に書かれていたのは
- 「大阪城の外堀(つまり、一番外側の堀)のみを埋めること」
でした。
したがって、このときの家康は、最初から大坂城の外堀だけでなく、内堀までもを埋め尽くしてしまって、裸城(丸裸)にする気満々だったのです。
徳川家康は、大阪城の堀を埋めていく工事を
- 「豊臣家だけでやると大変だろうから、親切心で徳川家が手伝ってあげるよ!」
などとウマいことを言って、しかも勝手に自分たちのスコップを持ってきて、大坂城に大量に押し寄せてきました。
そして、
- 「外堀を埋めるついでに、勢い余って内堀も埋めちゃった!」
というフリをして、当初の契約に無かった内堀まで、ものすごいスピードで埋めてしまったのです。
豊臣側が気づいたところで、すでに時遅し
しかし、これに焦った豊臣側が「ちょっと待って!契約と違う!」と抗議しても「既に時遅し」といった感じで、徳川側の現場指揮官は
- 「いや〜、上の指示がよく聞こえなくて」
- 「もう(内堀まで)埋めちゃいました」
と、わざと無視して工事を強行しました。
このような、徳川側による確信犯的な「だまし討ち」によって、大坂城の防御力はゼロにされてしまったのです。
こうしてお堀を全部埋められてしまい、丸裸同然となった大阪城は、もはや平地で戦う野戦に出るしかなかったのでした。
真田幸村(秀頼を出せ)と、淀殿(出さない)で意見が相違
ここが、大坂の陣の最大の悲劇と言われています。
内堀まで埋められてしまい、もはや後がなくなった最後の戦い(夏の陣)で、真田幸村(信繁)は勝つための唯一の作戦を提案しました。
幸村の狙い
それは、
でした。
当時、徳川軍にいた兵士たちの多くは、元々は豊臣秀吉に対して恩義がある者ばかりでした。
したがって、もしも秀吉の息子である秀頼が戦場に姿を現せば、「あのお方に、弓は引けない!」と言わんばかりに徳川軍が混乱し、豊臣方の士気が爆発的に上がると幸村は読んだのでした。
秀頼も「よし、俺が行く!」とやる気でした。
秀頼の出撃を、母の淀殿に拒否される
しかし、母親の淀殿が立ちはだかります。
淀殿は過保護なあまり、秀頼が大坂城の外に出ることを絶対に許しませんでした。
秀頼の出撃を諦め、自ら 家康の陣に突入することを決意
何度も出馬を拒否された幸村は、ついに諦めて、
- 「もはや秀頼公の出馬は間に合わぬ、ならば己の命を賭けて、家康の首を狙うのみ!」
と、あの有名な大本陣への決死の突撃を敢行することになります。
もしここで淀殿が、真田幸村の意見を信じて秀頼を出陣させていたら、日本の歴史はひっくり返っていたかもしれないと言われています。
家族への愛情が、かえって破滅を招いてしまったという、なんとも切ないお話ですね!
大坂夏の陣と、真田幸村の奮闘から最期まで
真田幸村は、家康を自害に追い込むほど追い詰めた
1615年の大坂夏の陣で、真田幸村は、家康を自害に追い込むほど、本当にあと一歩で家康の首が飛ぶところまで追い詰めました!
幸村の軍の圧倒的な突撃
先ほども述べたように内堀を埋められ、徳川軍との圧倒的な兵力差を前にした真田幸村は、徳川家康の本陣を目がけて、一直線に決死の突撃を敢行しました。
この突撃があまりにも凄まじく、家康を守る最強の旗本(親衛隊)たちがパニックを起こして、全員逃げ出してしまったのです。
家康の周りは完全にガラ空きになり、徳川の象徴である「三つ葉葵の馬印(つまり、巨大な旗)」すらもへし折られてしまい、地面に叩きつけられました。
これは武田信玄に大敗した「三方ヶ原の戦い」以来、家康の人生で二度しかない大屈辱ですね!
味方が逃げ出し、パニックに陥った家康
押し寄せる「真っ赤な武装をした真田軍」を前に、パニックになった家康は、
- 「もはやこれまで! 真田の手にかかるくらいなら、ここで腹を切る!」
と叫び、何度も自害を覚悟したと当時の記録に残されています。
家康が、生涯で最も「死」を身近に感じた恐怖の瞬間でした。
あと一歩のところで徳川の援軍が駆けつけ、幸村の軍は押し戻され全滅
家康の首まであと数メートルのところまで迫った真田幸村でしたが、そこに徳川軍の圧倒的な数の暴力(援軍)が押し寄せ、次第に押し戻されてしまいます。
何度も突撃を繰り返した真田軍は全滅。
幸村自身も満身創痍(体に無数の傷を負った状態)となりました。
大阪・天王寺の辺りで休んでるところを、敵に見つかり最期へ
ボロボロになった真田幸村は、大阪市天王寺区に存在する神社の境内の松の木に寄りかかり、荒い息をついて休息していました。
そこに、徳川側のある武将が近づいてきます。
真田幸村はもう戦う気力も体力も残されておらず、
- 「私の首を取って手柄にせよ」
と静かに告げ、抵抗することなく相手に首を差し出しました。行年49歳。
その壮絶で美しい最期は、敵である徳川の武将たちからも深く敬意を表されました。
秀頼・淀殿の最期
幸村が戦死し、大坂城には徳川軍がなだれ込みました。
炎に囲まれた大坂城
城に火が放たれ、天守閣が激しく燃え盛る中、豊臣秀頼と母親の淀殿、傷ついた忠臣たちは、城の片隅にある防空壕のような蔵に隠れました。
また、秀頼の奥さんだった千姫が命がけで脱出し、
と家康に号泣しながら懇願しましたが、家康の決意は揺らぎませんでした。
炎の中で自害した、秀頼と淀殿
ついに蔵の周りを徳川軍に包囲され、逃げ場がないと悟った秀頼と淀殿は、お互いに自害したのでした。
ここに、豊臣秀吉が築いた黄金の「豊臣家」は、完全に滅亡したのです。
「大坂の陣」の終わり、その後
こうして大阪の陣が終わり、約260年間続く江戸時代が始まった
この大坂の陣の終わりこそが、真の「平和の始まり」でした。
大坂の陣が終わったことで、日本国内から「徳川幕府に刃向かう大勢力」が完全にゼロになりました。
これ以降、幕末のペリー来航(黒船)まで、日本には200年以上もの間、大きな戦争が一度も起きないという、世界史的にも奇跡的な「大平和時代(元和偃武:げんなえんぶ)」が到来します。
元和偃武:「元和(当時の元号)」の時代に、「武器を偃せる(つまり。武器を片付ける)」という意味。
すなわち、大坂の陣が終わり、戦国時代が完全に終結したことを宣言した言葉です。
「もう二度と戦争を起こさない」という徳川の想い
真田幸村という男が命を燃やし尽くして戦ったからこそ、徳川家康は
と強く心に誓い、その後約260年にわたって続く、完璧な平和のシステムを作り上げたのかもしれませんね!
戦国時代の終わりを告げる最後の花火として、最も美しく輝いたのが真田幸村だったのですね!
徳川家康も翌年の1616年、73歳でこの世を去る
そしてその徳川家康も、翌年の1616年に73歳という当時としては異例の長寿で、この世を去ることなりました。
大坂夏の陣からわずか1年足らずでの死だったため、当時の人々は「家康公は、真田幸村に突撃されたときの恐怖(トラウマ)のせいで寿命が縮まったのではないか」とも噂し合いました。
実際に、家康は亡くなる直前まで、大坂の陣の悪夢を見てうなされることがあったと伝えられています。
真田幸村が与えた恐怖は、天下人の体にそれほど深い傷跡を残していたのですね!
私たちが学べること
真田幸村の物語から学べるのは、決して諦めない精神と、柔軟な発想力です。
たとえ不利な状況であっても、知恵を絞り、自分の信念を貫き通すことの尊さを教えてくれます。
現代を生きる私たちも、困難に直面したときこそ、幸村のような「しなやかな強さ」を持っていたいですね!
あなたは、幸村のどんな部分に最も惹かれますか?
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