【徳島県】徳島市を探訪!藍や阿波踊りなどの歴史を、わかりやすく解説!

徳島市の地理・歴史について、紀伊水道や鳴門の渦潮、吉野川と藍染めの歴史、関西圏との深いつながりまで、わかりやすく解説してゆきます!

徳島県の藍畑(画像はあくまでAIによるイメージです。実際の景色等ではありませんので、ご了承ください。)

徳島県の藍畑(画像はあくまでAIによるイメージです。実際の景色等ではありませんので、ご了承ください。)

徳島城跡より(徳島県徳島市)

徳島城跡より(徳島県徳島市)

今回の話題は、徳島県徳島市です。
本サイトでは、初の四国編になりますね!

徳島市に観光に行ったときに知っておくと便利な基本的知識について、分かりやすく解説します!

  1. 和歌山港から、フェリーで徳島港へ
    1. 徳島ゆきフェリー 紀伊水道は結構揺れた
      1. 私は、ずっと酔って倒れていた
    2. 徳島港へ到着
  2. 徳島県の県庁所在地・徳島市
    1. 主に蜂須賀氏によって栄えてきた、徳島藩
    2. 徳島の文化の中心地・徳島市
    3. 徳島を代表する川・吉野川
    4. 徳島県と和歌山県の間にある「紀伊水道」
      1. 紀伊水道とは?
      2. 海峡と、どう違う?
      3. 鳴門の渦潮
      4. 渦潮の発生メカニズム
  3. 藍の産地・徳島
    1. 世界にも評価される、徳島の「藍」の歴史
      1. 藍を運ぶため、吉野川は重宝された
      2. 「模様をつける」「薬草」として重宝した、藍
      3. 絹織物の発展とともに、藍も発展
      4. 明治時代の「殖産興業」の流れとともに発展
      5. 合成染料と安い輸入品におされ、伝統的な藍が衰退
      6. 戦時中の弾圧にも関わらず、地元ファースト・不屈の精神で製造
      7. 世界からも高く評価される、徳島の藍
  4. 徳島を代表する川・吉野川
    1. 日本三大暴れ川・四国三郎こと「吉野川」
      1. 昔の川は、氾濫しやすかった
      2. 川を氾濫させないための取り組み
      3. 奈良県の吉野川
  5. 徳島の由来 「遠くの島」という意味ではない!?
  6. 徳島県と、関西地方とのかかわり
    1. 明石海峡大橋などで、関西と徳島の距離が縮まった
    2. 徳島では、関西のテレビ放送が受信できる!
    3. 明石海峡大橋による「ストロー効果」
      1. 「そごう徳島店」の閉店
      2. 2022年、「三越徳島」のオープン
      3. 全国各地における、相次ぐ百貨店の撤退
      4. 多くの人に愛されてきた、そごう徳島店の記憶
  7. 徳島市の名物「阿波踊り」
    1. 阿波踊りの起源
      1. 「無礼講」とは?
    2. 徳島以外での「阿波踊り」の名所
  8. 徳島県は、唯一「電車」が無い県
    1. 徳島では、「気動車」がメイン
    2. なぜ徳島では、「電車」が存在しないのか?
  9. 徳島城と、蜂須賀家政
    1. 徳島の発展の祖・蜂須賀家政
  10. まとめ:今回のポイント
  11. 以上・今回はここまで

和歌山港から、フェリーで徳島港へ

私の場合は、和歌山港からスタートしました。
和歌山市駅からは和歌山港へと線路で繋がっているので、和歌山港へは南海電車がとても便利ですね。

徳島港へ到着!

徳島ゆきフェリー 紀伊水道は結構揺れた

ここで、徳島港行きのフェリーは、海の流れが速い紀伊水道きいすいどうの上を進んでゆくことになります。
そのため、私が乗ったときはかなり船が揺れました。

たまたま私が乗ったときだけだったのかもしれませんが、その時はかなりの悪天候だったこともあり、海が激しく荒れて船がすごく揺れてしまいました。

私は、ずっと酔って倒れていた

しかもフェリー内で立って歩くのもかなり厳しいほどの上下の揺れ方でした。
(ちなみに、港に近い位置では最も陸地から遠い部分となる紀伊水道の「ど真ん中」あたりが、一番荒れました。)

結果、私(筆者)は見事に船酔いしてしまい、ずっと横になって倒れていました……。
ちなみに港には、「酔い止め用の薬」も売られていました。

フェリーで徳島に近づくにつれ、前方には淡路島あわじしまの姿も登場します。

徳島港へ到着

ようこそ徳島へ(徳島港より)(徳島県徳島市)

徳島港に着いたら、バスで徳島市の中心地である徳島駅方面へと向かいます。

徳島県の県庁所在地・徳島市

徳島城跡より(徳島県徳島市)

徳島城跡より(徳島県徳島市)

徳島県徳島市とくしましは、徳島県の県庁所在地であり、人口は約25万人の都市となっています。

主に蜂須賀氏によって栄えてきた、徳島藩

江戸時代には、蜂須賀氏はちすかしと松平氏が治める、徳島藩の城下町として栄えてきました。

幕末には、後述する藍あい産業が発展してきたことにより、国内でなんと人口が上位10位に入る大城下町となったのでした。

徳島の文化の中心地・徳島市

徳島県の県庁所在地である徳島市は、徳島県の政治・経済・文化における中心都市となっています。
また、徳島県の約3割の人々が、徳島市で暮らしています。

徳島を代表する川・吉野川

徳島市は、後述する暴れ川である「四国三郎しこくさぶろう」こと吉野川よしのがわの河口に街が栄えています。

徳島市の観光(吉野川など)(画像はあくまでAIによるイメージです。実際の景色・人物等ではありませんので、ご了承ください。)

徳島市の観光(吉野川など)(画像はあくまでAIによるイメージです。実際の景色・人物等ではありませんので、ご了承ください。)

この「吉野川」が作り出す広大な平野の中に様々な建物などが並んでゆき、歴史的に発展してきた街になります。

徳島県と和歌山県の間にある「紀伊水道」

徳島市は、紀伊水道きいすいどうに面している街になります。

紀伊水道とは?

紀伊水道きいすいどうとは、先述の通り和歌山県(本州)との間にある海のことをいいます。

水道とは、海峡と似たような意味の言葉です。
どちらも「2つの陸地によって狭められた海域」という意味の用語であり、両者に明確な違いというものはありません。

海峡と、どう違う?

海峡・水道・瀬戸・内海などといった用語には、「大きさ」や「幅」「広さ」などによる明確な「基準」や「定義」などがあるわけではありません。

以下、個人的なイメージです。

内海 > 海峡 > 水道 > 運河

の順に大きい(広い)気がしています。

※これは個人的な勝手なイメージです。
もちろん(今回のように)例外もたくさんあると思います。
過度に信用しないでくださいね!

今回の「鳴門海峡」と「紀伊水道」では、紀伊水道の方が圧倒的に広いです。

この紀伊水道きいすいどうは、瀬戸内海せとないかいへの入り口でもあります。
狭まった海域のため、そのぶん海(潮)の流れがとても速くなるというわけです。

鳴門の渦潮

また、鳴門海峡なるとかいきょうで生まれる、有名な鳴門なるとの渦潮うずしおも、この流れの速さによって生まれます。

徳島・鳴門の渦潮(画像はあくまでAIによるイメージです。)

徳島・鳴門の渦潮(画像はあくまでAIによるイメージです。)

鳴門海峡なるとかいきょうとは、徳島県と淡路島あわじしまの間にある、幅がとても狭くなる海峡のことです。

紀伊水道と瀬戸内海が合流してくる鳴門海峡のあたりでは、潮の満ち引きによる「海の高さ」の差が生まれてしまいます。
つまり、満潮となっている高いところから、干潮となっている「低い」方向へと海水の流れが生まれることになります。
これにより、激しい潮の流れが発生してしまいます。

瀬戸内海の、流れの速い海のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)

瀬戸内海の、流れの速い海のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)

渦潮の発生メカニズム

鳴門海峡は先述の通り、その幅が狭いために海の流れが速くなります。
また先述の通り、「高い方」から「低い方」へと、海の水が一気に流れ込んでゆきます。
このとき生まれる「速い潮の流れ」と、元々あった「遅い潮の流れ」がお互いにぶつかることにより、回転して渦が発生します。
これが鳴門の渦潮なるとのうずしおです。

鳴門の渦潮は「世界最大級の渦潮」として知られており、これは春と秋に「大潮(=潮の干満差が最も大きくなる時期)」となるときに、最大で直径20~30mもの大きさに達します。
ウルトラマン(身長40m)の約3分の2ほどの大きさの渦潮になるわけですから、鳴門の渦潮がいかに巨大かがよく分かりますね!

藍の産地・徳島

世界にも評価される、徳島の「藍」の歴史

徳島の藍(画像はあくまでAIによるイメージです。)

徳島の藍(画像はあくまでAIによるイメージです。)

徳島市の吉野川の中流・下流地域では、昔から藍あいという植物の栽培がとても盛んに行われてきました。

藍を運ぶため、吉野川は重宝された

藍の原料を運んだりするためにも、吉野川の水運(舟で荷物を運ぶこと)はとても便利だったのでした。
昔はトラック輸送などはありませんでしたから、舟で荷物を運ぶのが主流だったのです。

江戸時代の徳島・吉野川の水運(画像はあくまでAIによるイメージです。)

江戸時代の徳島・吉野川の水運(画像はあくまでAIによるイメージです。)

特に幕末から明治にかけて、「生糸」や「織物」などの産業が国内で栄えていくようになってからは、藍産業はそれに連動するような形で大きく発展してきました。

「模様をつける」「薬草」として重宝した、藍

藍あいは、染料(布などを染めるための原料)や、ケガなどを治す薬草として、古くから大切に利用されてきました。

絹織物の発展とともに、藍も発展

なぜ染料がたくさん必要になったのかというと、幕末から明治にかけて、たくさんの生糸や織物が作られるようになったからです。

これらは和服や着物にも用いられるため、さすがに模様が無かったら味気ないですよね。
無地のままだと、上品さや高級感を出すのにも限界が出てくるでしょう。

つまり「絹織物」がどんどん作られて売れるということは、それらに模様をつけるための染料となる「藍」も、作れば作るほど売れるようになっていく、というわけです。

明治時代の「殖産興業」の流れとともに発展

明治時代は「殖産興業しょくさんこうぎょう」といって、欧米列強に「追いつけ追い越せ」という勢いで、当時の日本の主力産業であった生糸や織物の生産・輸出に、とにかく力を入れていたのでした。

殖産興業とは?
明治政府が欧米に追いつくため、近代的な産業や技術を積極的に育てて国を豊かにしようとした政策のことです。

群馬県でも「富岡製糸場」が作られたりと、当時の日本にとって生糸の生産はまさに国家的一大プロジェクトだったのでした。

そんな時代の流れもあって、生糸や織物が盛んになるにつれて、それらを美しく染める「藍」の需要も必然的に伸びていったというわけです。

合成染料と安い輸入品におされ、伝統的な藍が衰退

しかし、こうした伝統的な染料は、のちに人工的に作られた合成染料に置き換えられていくことで、徐々に衰退していくことになりました。

また安い輸入品にも押されたりして、明治時代に栄華を極めた伝統的な藍産業は、大きな打撃を受けることになったのでした。

こうした合成染料に対して、藍などの植物から得られる染料は「天然染料」とも呼ばれます。

戦時中の弾圧にも関わらず、地元ファースト・不屈の精神で製造

さらに第二次世界大戦中には、食糧の生産を最優先させるため、国によって藍の栽培が禁止されていました。

しかし徳島では、伝統の灯を絶やさないため、国の厳しい監視の目をくぐり抜けて密かに藍の種や生産を守り続けていたそうです。
その不屈の努力のかいもあって、戦後には藍の生産をスムーズに再開することができました。

世界からも高く評価される、徳島の藍

徳島の藍は、「ジャパンブルー」として今や世界からも高く評価されています。

藍は他にも、歴史的に解熱・解毒・消炎などのための生薬としても重宝されてきました。

徳島を代表する川・吉野川

吉野川よしのがわは、徳島県を代表する一級河川です。

日本三大暴れ川・四国三郎こと「吉野川」

吉野川は、日本三大暴れ川の一つに数えられています。

  • 坂東太郎ばんどうたろう:利根川とねがわ。ちなみに「坂東」とは関東地方の古い呼び名です。利根川は日本一の流域面積を誇ります。
  • 筑紫次郎つくしじろう:筑後川ちくごがわ。ちなみに「筑紫」とは福岡県の古い地域名のことです。
  • 四国三郎しこくさぶろう:吉野川よしのがわ

昔の川は、氾濫しやすかった

昔の川は、ひとたび大雨や台風がくると、本当に氾濫しやすかったのです。

その理由は主に以下の通りです。

  • 昔の川は直線化されておらず、激しく蛇行していたため。
  • 現代のように強固な堤防やダム、放水路などが十分に整備されていなかったため。

川を氾濫させないための取り組み

したがって昔の人々は、川の氾濫による甚大な水害を防ぐために、以下のような懸命な努力を続けてきました。

  • 必死にダムや堤防を建設してきた
  • 川の流れをまっすぐにする改修工事を行い、氾濫の原因となる急カーブを極力減らしてきた
  • 放水路ほうすいろという、増水した水を安全に逃がすための人工水路を開削した

このように、人々は水害を防ぐための治水工事と工夫を積み重ねてきたのでした。

治水(ちすい)とは?
洪水を防ぎ、川の水を安全かつ有効に利用するために行う堤防整備や流路改修などの工事や取り組みのことです。

利根川については、以下の記事でも解説していますので、ぜひご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第6番 日本一の流域面積をもつ利根川を渡る
鉄道唱歌 奥州・磐城編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!利根川の地理・歴史などを、やさしく解説してゆきます!↓まずは原文から!末は銚子ちょうしの海に入る坂東太郎ばんどうたろうの名も高しみよや白帆しらほの絶間たえまなくのぼればくだる賑に...

筑後川については、以下の記事でも解説していますので、ぜひご覧ください。

【筑後川】暴れ川の歴史と断層の関係!地学が動かした歴史を徹底的に解説!
筑後川はなぜ暴れ川と呼ばれるようになったのでしょうか。断層の動きなどの地学の視点から、地理・歴史をわかりやすく解説してゆきます!本記事で掲載している画像は、あくまでAIによるイメージです。実物とは異なる描写がある可能性がありますので、ご了承...

奈良県の吉野川

奈良県にも、同名の「吉野川よしのがわ」があります。
和歌山県に入ると「紀の川きのかわ」と呼ばれる川ですね。

詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ぜひご覧ください。

鉄道唱歌 関西編 第46番 再び紀ノ川(吉野川)を渡り、花の吉野山へ 
鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の歌詞(紀ノ川、吉野川、吉野)・観光・歴史について、わかりやすく解説しています!↓まずは原文から!ふたゝび渡る紀の川きのかわの水上みなかみとほく雲ならで立てるは花の吉野山よしのやま見て來こんものを春ならばさらに読...

徳島の由来 「遠くの島」という意味ではない!?

徳島という地名の由来は、吉野川などの河川が形成した三角州に由来しています。
昔は、川と川に囲まれてできた中洲のような土地のことを広く「島」と呼んでいました。

広島県の場合も同様で、広島市を流れる太田川おおたがわなどの複数の川に囲まれてできた三角州(デルタ地帯)の広い土地を、「広い島」という意味で「広島」と名付けたのでした。

したがって、決して「遠くにある島(とおくしま)」という意味ではありません。

しかし私(筆者)は小学生の頃、

「和歌山県(紀伊半島)あたりから見たとき、徳島と淡路島は遠くにある島だよね?
だから『遠くの島』ということで『徳島』だよね?」

と本気で思い込んでいました(汗)。

小学生の時に読んだ図書にその説が書かれていた記憶があるのですが、冷静に考えてみれば単なるダジャレのような連想にすぎませんね。

そして私は、この記事の執筆に向けて本格的に勉強・リサーチを始める直前まで、リアルにその「遠くの島説」を信じていたというのは内緒です!
子どもの頃に刷り込まれた先入観というのは、本当に根強いものですね。

徳島県と、関西地方とのかかわり

徳島市は関西地方と距離が近いため、古くから海を越えて上方との繋がりが非常に深い地域でした。

明石海峡大橋などで、関西と徳島の距離が縮まった

現在でも明石海峡大橋を含む神戸淡路鳴門自動車道などを通じて、人々の往来が大変盛んになっています。
特に1998年に明石海峡大橋あかしかいきょうおおはしが開通してからは、関西地方と徳島との物理的・心理的な距離は一気に縮まりました。

はるか徳島へと続く明石海峡大橋と、淡路島(兵庫県明石市)

はるか徳島へと続く明石海峡大橋と、淡路島(兵庫県明石市)

徳島では、関西のテレビ放送が受信できる!

また、徳島県は関西地方に近い地理的特性から、関西のテレビ放送を直接受信することができます。
そのため、徳島では昔から近畿圏のテレビやラジオを通じて、文化的・経済的な交流が密接に行われてきました。
また、地域の方言も大阪弁(関西弁)の影響を色濃く受けています。
関西のニュース番組の天気予報でも、まるで徳島が近畿エリアの一部であるかのように自然に組み込まれていますね。

徳島県は行政区分上は「四国地方」ですが、経済活動や人の流動という実質的な観点では、まるで関西地方の一角のような立ち位置を築いているわけです。

そのため徳島市は、同じ四国である愛媛県松山市などよりも、むしろ大阪や神戸といった関西の大都市圏への依存度や結びつきが強いと言えます。
ただし、徳島県の西部(例えば三好市など)では、愛媛県東部や香川県との結びつきが強くなる傾向もあります。

明石海峡大橋による「ストロー効果」

1998年に明石海峡大橋が開通して交通が劇的に便利になった反面、地元の買い物客や若者が神戸や大阪といった巨大都市へ一気に流出してしまう「ストロー効果(ストロー現象)」が深刻化しました。

ストロー効果とは?
高速道路や新幹線などの交通網が整備された結果、地方都市の人口や購買力が大都市側にストローで吸い上げられるように流出してしまう現象のことです。

「そごう徳島店」の閉店

これにより、徳島駅前の「アミコビル」にキーテナントとして入居していた「そごう徳島店」が、2020年に惜しまれつつ閉店に追い込まれてしまいました。

そごう徳島店は、それまで徳島県内で唯一の百貨店として営業を続けていました。
同店の閉店により、山形県と並んで「県内に百貨店が存在しない県」となり、四国4県の中でも唯一の百貨店ゼロ県となってしまったのです。

2022年、「三越徳島」のオープン

その後2022年、駅前のアミコビルに「三越徳島みつこしとくしま」がオープンしました。
しかし、こちらはあくまで香川県の高松三越(本店)の小型サテライトショップ(小型支店)という位置づけであり、独立した百貨店本店ではありません。

すなわち、日本百貨店協会に単独加盟する百貨店本店が県内に存在しないため、統計上は引き続き「百貨店が存在しない県」として扱われています。

全国各地における、相次ぐ百貨店の撤退

さらに2024年には島根県や岐阜県からも老舗百貨店が撤退したことで、全国で百貨店が存在しない県は徳島県・山形県・島根県・岐阜県の4県に広がりました。

現在は少子高齢化の進展に加え、ネット通販の普及やライフスタイルの変化が急速に進んでいます。
したがって、今後は地方都市において百貨店が姿を消す地域がさらに増えていくのかもしれませんね。

多くの人に愛されてきた、そごう徳島店の記憶

そごう徳島店は、1998年に明石海峡大橋が開通してから以降は、買い物客が関西地方へ流出してしまうことを防ぐため、高級品ばかりでなく日用品のラインナップを多く取り揃えることで、なんとか対応してきたのでした。

「そごう徳島店」の社歌は、古関裕而こせきゆうじによる作曲の「栄冠は君に輝く」の替え歌だったのでした。
ちなみに古関裕而は、東北・福島県出身の偉大な作曲家で、戦前~戦後にかけて誰もが知っているような多くの名曲を作曲してきました。

かつて地元の人々のハレの日の買い物を支え、待ち合わせ場所としても親しまれたそごう徳島店の思い出は、今も多くの徳島市民の心に深く刻まれています。
交通インフラの発展がもたらした光と影を象徴する出来事として、地域の商業史に長く語り継がれていくことでしょう。

徳島市の名物「阿波踊り」

徳島市で毎年8月のお盆に開かれる徳島市の阿波踊り(徳島市阿波おどり)は、
江戸時代から約400年の歴史がある、とても有名な伝統芸能の一つです。

♪同じ阿呆ならおどらにゃそんそん!

というフレーズで有名ですね。

阿波踊りの目的は、色々あります。
例えば、

  • きびしい夏の農作業の疲れを癒すため。
  • 「疫病封じ」のため。
  • 徳島の人々が、日ごろのストレスを発散するため。
  • 人々の心を躍らせるための「夏の風物詩」として、みんなに楽しまれること。

阿波踊りの起源

阿波踊りの起源は、戦国時代の終わりに豊臣秀吉の命令で徳島を支配することになった蜂須賀家政はちすかいえまさが、無礼講ぶれいこうのために踊りの祭りを許したことにはじまるとされています(諸説あり)。

「無礼講」とは?

ちなみに無礼講ぶれいこうとは、身分・地位による「堅苦しい上下関係」を抜きにして楽しむ飲み会のことです。
しかし「無礼講」とはいっても、ある程度の節度せつど・礼節は必要になります。

もちろん「普段通りの礼儀」は忘れてはならず、上司に対して本当に「無礼な態度」をとると嫌われたり、評価に影響したりすることもあります。

徳島以外での「阿波踊り」の名所

阿波踊りは、東京都杉並区・高円寺こうえんじにもあります。
徳島出身の高円寺の人々が、東京の人々に「阿波踊り」を教えたことがきっかけで広まったわけですね。
そして「阿波踊り」は、中央線・高円寺駅こうえんじえきの発車メロディーにもなっています。

阿波踊りは、他にも埼玉県越谷市こしがやしの南越谷みなみこしがやなど、様々な地域にもあります。

徳島県は、唯一「電車」が無い県

徳島城跡より(徳島県徳島市)

徳島城跡より(徳島県徳島市)

徳島県は「日本で唯一”電車”が走っていない県」になります。
もちろんそれは「鉄道が存在しない」という意味ではなく、あくまで電気の力で走る「電車」が存在しない県、という意味です。
鉄道はもちろん存在します。

徳島では、「気動車」がメイン

じゃあ電車が存在しないのなら、何が存在するの?

じゃあ電車が存在しなければ何が存在するんだ、という話ですが、電車の代わりに「気動車」で走っています。

つまり、電気ではなく軽油を使うディーゼルエンジンで走る車両ということです。
気動車は全国のローカル線ではお馴染みですが、徳島県では都市部においても電化はされておらず、全て気動車ということになります。

徳島県内の鉄道はすべてディーゼルエンジンで動く「気動車」であるため、天井にぶらさがった「架線かせん」から電気が供給されてくる「電車」ではないわけです。
したがって、徳島県で最大の駅である徳島駅ですら、「架線」などの電気設備が存在していません。

なぜ徳島では、「電車」が存在しないのか?

ではなぜ徳島県の鉄道が「電気で走らない(電化されていない)」のかというと、理由として圧倒的な車社会であることが挙げられます。
徳島県では、一日に走る列車の本数が少ないため、費用削減のため、電化をするには至っていないと言われています。

徳島城と、蜂須賀家政

徳島城の歴史は古く、それは戦国時代終わりの1585年にさかのぼります。
戦国時代の終わりの1585年に、豊臣秀吉の命令によって阿波国あわのくに(徳島県)の支配を任された蜂須賀家政はちすかいえまさが、徳島城を建てたのでした。

徳島の発展の祖・蜂須賀家政

蜂須賀家政はちすかいえまさは、豊臣秀吉の部下としてずっと戦いに貢献してきました。
かつて織田信長が「本能寺の変」のせいで成し得なかった四国平定を、豊臣秀吉が引き継ぎました。

そして1585年、当時の四国のトップとして四国を支配していた長宗我部氏ちょうそかべしを倒したことにより、四国は豊臣秀吉の天下となりました。
その四国での戦い(四国平定)において蜂須賀家政は大きな活躍をみせたため、秀吉から功績を認められて、めでたく徳島の支配を認められたのでした。

まとめ:今回のポイント

以下に、今回の要点をまとめておきます!

  • 和歌山県と徳島県との間の海を、紀伊水道きいすいどうという
  • 紀伊水道は、とても流れの速い海である
  • 鳴門海峡には、世界一の長さを誇る「渦潮うずしお」がある。
  • 吉野川は「四国三郎」ともいわれ、かつて日本三大暴れ川の一つにも数えられてきた。
  • 徳島の「藍あい産業」は、昔の徳島の人々の生業なりわいとしてとても重要だった
  • 藍は、布などに模様をつける「染料」として重要だった
  • 徳島市の阿波踊りは、夏の働く人々・夏の仕事に疲れた人々に対して、「楽しみ」を与えるための祭りである
  • 徳島市では、関西のテレビ番組が映る。そのため、関西との文化的なつながりも強い。
  • 明石海峡大橋の開通により、「ストロー効果」で徳島市の買い物客などが関西地方に流れやすくなってしまった
  • 徳島城を建てた蜂須賀家政はちすかいえまさは、戦国時代の1585年に豊臣秀吉の四国平定のとき、大きな貢献をした
  • 四国平定のときの功績を秀吉に評価されたため、蜂須賀家政は徳島の支配を任された

以上・今回はここまで

おわりに:今回はここまでです。
お疲れ様でした!

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