うさぎの楽園・大久野島の観光・歴史について、初心者の方にも楽しく・わかりやすく解説してゆきます!

大久野島のうさぎ(広島県竹原市)

大久野島のうさぎ(画像はあくまでAIによるイメージです。実際の景色・人物等ではありませんので、ご了承ください。)
大久野島の観光・歴史を、わかりやすく解説!

大久野島のうさぎ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
今回は、広島県竹原市の大久野島の探訪と歴史解説です!
ウサギの楽園とも、「地図から消された島」とも言われるなんとも不思議な島の探訪と歴史について、分かりやすく解説してゆきます!
うさぎの楽園・大久野島

観光客に全力でエサのおねだりをしてくる、可愛らしい大久野島のうさぎたち(画像はあくまでAIによるイメージです。)
大久野島は、広島県のやや東側にある、竹原市の海に浮かぶ島です。
現在ではウサギの楽園・ウサギの島として知られています。
また、戦時中には禁止されていた毒ガスを製造していたことから、その存在を隠すために、地図から消された島だったことも知られています。

大久野島のうさぎ(広島県竹原市)
三原駅→忠海からフェリーで大久野島へ
まずは、山陽新幹線または山陽本線の
- 三原駅(広島県三原市)
からスタートとなります。

山陽新幹線・三原駅(広島県三原市)
三原駅からは、呉線に乗り換えて、広・呉方面へと向かいます。
そして、
- 忠海駅(広島県竹原市忠海)
で下車します。

忠海駅(広島県竹原市)
さらに忠海港から、大久野島行きのフェリーへと乗船することになります。
約15分ほどの乗船時間ののち、大久野島に着きます。

大久野島・遠景(広島県)
三原市については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
【三原−前編:三原城および小早川隆景の功績など】

【三原−中編:三原名物・タコや、「やっさ祭り」など】

【三原−後編:三原の鉄道の歴史など】

島へ上陸した瞬間、走って甘えてくるウサギ

「エサちょーだい!」全力でカワイイアピールしてくるウサギさん(大久野島)
島に上陸すると1分もしないうちに、ウサギさんたちがエサ欲しさに走ってきます。
そして、ウサギさんたちはエサ欲しさに、全力で可愛いアピールをしてきます。
大久野島のウサギさんは、キャベツが大好きなので、喜んで食べてくれます。

大久野島のウサギさん(広島県)
ちなみに、人間用の「おにぎり」や「パン」などは、糖質が高すぎて肥満・糖尿病などの原因となるため、絶対に与えないようにしましょう。

大久野島のうさぎ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
また、ウサギさんは臆病な生き物なので、自分から追い回したりはせず、向こうから近づいてくるのを待った方が無難です。
「忠海」の歴史

夕暮れの瀬戸内海(画像はAIによるイメージです)
では早速、歴史の話をバンバンやっていきましょう!!
なるべく、わかりやすい言葉で話していきたいと思います!
まずは、大久野島の向こう岸にある、忠海の歴史についてです。
平清盛の父・平忠盛に由来
平安時代終わりの1129年、あの平清盛の父である平忠盛は、瀬戸内海において当時はびこっていた海賊たちを追討するための使いとして、朝廷から抜擢され、この地域へと派遣されたのでした。
この職を、海賊追補使といいます。
すると、この地は平忠盛により平定されるようになったのでした。
この時に、平忠盛は自分の「忠」「盛」という名前を2つに分け、
- 北側の地を、「忠海」
- 南側の大三島の地を、「盛」
と名付けたのでした。
これが、「忠海」の由来となっています。
村上水軍と、来島海峡
まずは地理関係を把握

多くの島からなる瀬戸内海(画像はAIによるイメージです)
瀬戸内海は700以上の島がある、いわゆる「多島海」となります。
まずは、この近辺の地理関係を把握しておきましょう。これが理解できていないと、この後の話がチンプンカンプンになります…。
このあたりの地理関係(重要)
忠海ー大久野島ー県境(←広島県/愛媛県→)ー大三島ー大島ー来島海峡ー今治市
青色:海
緑色:陸地
大三島(おおみしま)
大久野島の南側には、大三島という大きな島があります。
大久野島と大三島との間には、広島県と愛媛県の県境があります。
大三島には、「盛」という地名があり、ここに港があります。
これは先述の通り、平清盛の父である、平忠盛に由来しています。
大三島は、愛媛県最北端の地でもあります。
広島県大久野島とほぼ接しているわけですから、分かるような気もしますね。
来島海峡(くるしまかいきょう)
来島海峡は、大島と愛媛県今治市との間にある海峡です。
今治市は、造船業やタオルの生産などで有名です。

来島海峡のような、瀬戸内海における流れが速くなりがちな海峡(画像はAIによるイメージです)
この海峡はとても狭く、潮の流れが速くなりやすくなっています。
そのため、船がまともに進みにくい「難所」として扱われてきたのでした。
来島海峡は、山口県・福岡県の関門海峡などと並んで、かなりの難所として知られます。
関門海峡については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

室町時代は、海賊だらけだった瀬戸内海
室町時代のはじめにあたる南北朝時代には、この周辺の海域は、古くからの航路(海のルート)でした。
つまり、大阪~広島~九州~外国を往来する、船にとってのメインルートだったわけです。
昔は貨物輸送も高速トラックも無かったため、大量の荷物を運ぶためには、船で運ぶのが最も効率のよいやり方だったというわけです。
村上水軍の拠点:現在の「村上さん」たちの祖先
この海には、かつて海賊が横行していたということが分かっています。
昔の海には、
- 海で悪いことばかりする、海賊
- 大名などの権力者に命じられて海で戦う、水軍
とがいました。
瀬戸内海のこのあたりは、村上水軍と呼ばれる、現在でいうところの海上自衛隊のような海の武装チームの拠点でした。
いわば、海で戦う武士のことですね。
広島の毛利氏の下で動いていた毛利水軍は、村上水軍を下に取り込んで、瀬戸内海の支配を行っていました。
海から攻めてくる、他の戦国大名からの侵略にあわないようにする(あるいは必要に応じて、自分から攻めていく)ためですね。
そのため、現在でもこの地域では「村上さん」という苗字の方が多いイメージです。
潮の流れが速く、船の難所だった来島海峡
今治市と大島に挟まれた来島海峡は、かねてより海の難所であったのでした。
なぜ「難所」だったかというと、狭い海域のため、潮の流れが速くなってしまうからです。
すると、船はまともに進みにくくなってしまいます。

来島海峡のような、瀬戸内海における流れが速くなりがちな海峡(画像はAIによるイメージです)
そのため、来島海峡を避けるようなバックアップルート(航路)として、北側の忠海付近へと大きく迂回する三原瀬戸航路が用いられるようになったのでした。
大久野島灯台は、その航路(ルート)上に置かれた灯台のうちの一つでした。
明治時代に出来た、芸予要塞
かつて大久野島と来島海峡には、芸予要塞という、日本軍の拠点がありました。
これは、瀬戸内海に侵入してくる、外国の敵船から自国を守るためのものでした。

大久野島の砲台跡(画像はあくまでAIによるイメージです。)
瀬戸内海へ侵入してくる外国船を防ぐ
明治時代の初期には、欧州列強の軍艦などが瀬戸内海から広島・大阪などへと侵攻してくる、ということを懸念していました。
そして、それらの脅威に対して、備えておく必要がありました。
そのため、外国船の侵入ルートであり、また海が狭くなる狭隘部分である、
- 紀淡海峡
- 鳴門海峡
- 豊予海峡
- 下関海峡
のそれぞれに、沿岸の要塞となる砲台を置くことになったのでした。
ここで、
- 紀淡:紀伊半島と、淡路島との間。
- 豊予:豊後国と、伊予国の間。
- 芸予:安芸国と、伊予国の間。
- 安芸国(広島県)
- 豊後国(大分県)
- 伊予国(愛媛県)
などの意味になります。
海峡から侵入してくる敵船を、砲台で滅多打ちに
なぜ、この狭い海峡に砲台をたくさん配備したのか。
一つは先述の通り、外国船の侵入ルートになるからです。
また、狭い部分の海だと、もし外国からの敵船が入ってきたとしても、砲台で滅多打ちにしやすいからですね。

大久野島の砲台跡(画像はあくまでAIによるイメージです。)
瀬戸内海には、かつて軍事拠点が多かった
なぜこれだけ瀬戸内海の守りを固めたのかというと、それは明治時代には軍事拠点となる場所が多かったからです。
例えば日清戦争のときには、広島市に大本営が置かれていました。
広島大本営は、明治天皇が自ら広島に滞在して、日清戦争の指揮を行うために置かれた場所です。
また、広島市の南東にある呉には、海の守りの拠点である鎮守府も置かれていました。
呉は戦艦大和が建造された場所であり、現在でも呉には、海上自衛隊がありますよね。
それだけ明治時代には、瀬戸内海の守りは特に重要だったというわけです。
広島大本営については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

呉鎮守府については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

砲台の射程の向上:豊予要塞へのシフト

大久野島の砲台跡(画像はあくまでAIによるイメージです。)
しかし大正時代になってくると、世の中の砲台の性能が向上してゆき、射程が長くなってきました。
また、第一次世界大戦においては航空機が登場したことにより、軍艦などは徐々に存在感を消していくことになります。
実際、第二次世界大戦のころには、ほとんどが戦闘機の出番になっていました。
軍艦の出番が無くなると、それを撃退する砲台も、だんだんと無意味なものとなってゆきます。
そのため、既に存在していた要塞の整理(廃止など)が行われてゆきました。
予算低減・コストカットのためですね。
やがて大正時代の終わりの1924年になるまで、結局は一度も用いられることもないまま、芸予要塞は廃止となったのでした。
一度も砲台が使われなかったということは、それだけ平和だったことの証明でもありますね。

大久野島の砲台跡(画像はあくまでAIによるイメージです。)
そして芸予要塞の施設は、のちに戦時中の毒ガス施設などへと変えられたものも含めて、現在でも遺構として残っています。
芸予要塞の廃止と豊予要塞の新設
そして、四国と九州との間に新たに豊予要塞ができました。
そもそも先述の芸予要塞が作られたのは、昔は幅の広い豊予海峡に対して砲台を作っても、あまり意味が無かったからでした。
しかし、瀬戸内海よりも豊予海峡の方がより外国に近い位置にありますし、瀬戸内海に侵入してくる前に豊予海峡で食い止めておく方が、日本として安全ではありました。

大久野島の砲台跡(画像はあくまでAIによるイメージです。)
したがって、時代が進んで砲台の射程が広くなったために、より外国に近い豊予海峡に砲台を設置しても問題なくなったのでした。
こうして、豊予要塞を優先し、より内部に近い芸予要塞は使われなくなって廃止されたわけです。
大久野島の砲台跡についてさらに詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

地図から消された島:毒ガスの製造

大久野島(広島県竹原市)
大久野島は、戦時中には「地図から消された島」だったのでした。
禁止されていた毒ガスを秘密裏に製造
この島では、1929年から1945年まで、太平洋戦争(大東亜戦争)で使用するための毒ガスが、日本軍によって秘密裏に製造されていたのでした。

大久野島の毒ガス工場跡(画像はあくまでAIによるイメージです。)
陸軍の毒ガス工場が存在していたため、その機密性から、島そのものの存在が隠されてしまったのでした。
当時の一般国民へ向けた地図において、この一帯は「空白地域(何も無い地域)」として扱われたと言われています。

大久野島の毒ガス工場跡(画像はあくまでAIによるイメージです。)
また、当時の電車では、大久野島の近くを通る際には、乗客が大久野島を見られないように窓のカーテンを閉めていたといいます。
それだけ、秘密を徹底していたということです。
島に住んでいた農民たちの強制退去

大久野島の毒ガス工場跡(画像はあくまでAIによるイメージです。)
ちなみに戦前までに、大久野島には数十人ほどの人が住んでおり、農業を営んでいました。
しかし、毒ガス製造が始まった時に強制退去となったのでした。
先祖から受け継いだ土地であったとしても、問答無用で退去させられたわけです。
当時の日本には、現在のような「居住の自由」など無かったわけですね。
被災してしまった毒ガス工場の作業員たち
毒ガス工場で働いていた作業員たちも、防護服の隙間から入ってきた毒ガスに被災してしまい、深刻な健康被害を受けてしまいました。
そして、戦後から今に至るまで、多くの人々が後遺症で苦しんでいるという過酷な現実があるのです。
戦後の毒ガス処理
戦時中に大久野島で製造されていた毒ガスなどは、戦後に旧日本軍が証拠隠滅のため、海へ投棄してしまいました。
その後、アメリカの進駐軍が大久野島へとやってきて、
- 毒ガスの海洋への投棄
- 毒ガスの地中への埋設
- 焼却処分
などといった、無毒化のための様々な処理が施されたのでした。
大久野島では、半世紀以上が経った現在でも、内部が空となった巨大なコンクリート製の毒ガス施設が廃墟として残っています。
そして、いくつかの廃墟が立入禁止区域に指定されています。
国民休暇村の整備と観光の大衆化

大久野島・国民休暇村(広島県竹原市)
1960年代の高度経済成長期になると、世の中の人々の生活は裕福になり、安定してきました。
このことにより、日本国内では観光の大衆化がどんどん進んでいったのでした。
つまり、一般の人々にとっても観光が当たり前のレジャーになってきたわけです。

筆者・大久野島より(広島県竹原市)
そして、野外活動といった新たなレクリエーションが生まれました。
研修や合宿などの活動も盛んになりましたね。
また、高度経済成長期には公害問題が起きるなど、街の環境が悪化していった時代でもありました。
そのため、人々が自然を求める機運が高まったのです。
こうして国が各地に国立公園などを整備していき、大久野島の「国民休暇村」も、こうした背景から誕生しました。
大久野島へ電気を送る仕組み:日本一高い鉄塔
人々が暮らすには、電気が必要です。
もちろん、大久野島においても電気は欠かせません。
高度経済成長期になると、本州から離れた島である大久野島へも、電気を送る必要性が出てきました。
そのため、1962年に本州と四国を結ぶ送電線が整備されていったのでした。
これは後に中国電力による、大三島へと電力を送るための「大三島支線」として運用されています。
なお、忠海と大久野島を結ぶ送電線を支える「2つの鉄塔」は高さ226mを誇り、これは日本一高い鉄塔となっています。
戦後に次々と明らかになった、島の「負の歴史」

筆者・大久野島より(広島県竹原市)
戦後に国民休暇村の計画・建設などが進められる間にも、島の負の歴史が次々と表面化してきました。
例えば、1961年に広島県は自衛隊に対して、島の中に残っているであろう毒ガスの調査を依頼しました。
国民休暇村の安全性を確認するための調査でした。
すると、島の防空壕の中から大量の毒ガスが発見されたのです。
また、国民休暇村の工事を担当した業者が、地中に埋まっていた毒ガスによって被災してしまう痛ましい事故も発生しました。
戦後に証拠隠滅や無毒化のために地中深く埋められた毒ガスが残っていたためと考えられます。
こうして1972年頃までは、島内で毒ガスによる被災リスクが続くことになりました。
島の「ヒ素」を取り除く土壌浄化工事
1990年代、大量のヒ素が島から発見される
1995年~1996年にかけて、国による大規模な毒ガス調査が実施されました。
このときに、環境基準を大きく超える「ヒ素」による土壌汚染が確認され、深刻な問題となりました。
ヒ素は人体に重大な悪影響を与える、極めて有害な物質です。
つまり、安全とは程遠い大量のヒ素が、大久野島の土壌から発見されてしまったのです。
宿泊施設である国民休暇村がある場所だけに、非常にショッキングな事態でした。
人々の努力により、懸命に「ヒ素」を取り除いていく
汚染された土壌に対しては、1997年までに対策工事が完了しました。
これによってヒ素を取り除く作業が進められたわけです。
2009年に広島県によって行われたヒ素の濃度測定では、島からヒ素は検出されませんでした。
またこの調査では、海に生息する生き物たちへの異常も確認されませんでした。
すなわち、懸命な浄化活動によって安全な環境が取り戻されたということですね。
現在では、ヒ素の数値は環境基準を大幅に下回る安全な状態が維持されています。
大久野島の「水」の供給事情
ヒ素大量検出により、島の井戸水を停止
ただし、ヒ素の高濃度検出が判明したことを受け、2004年からは島内の井戸水の利用が完全に停止されました。
そのため、現在「休暇村大久野島」で利用されている水は、すべて島の外から船で運ばれてきています。
本州と島の間に「送水管」計画:しかし毒ガス発見で断念
環境省は、大久野島へ飲料水を安定供給するため、本州と海底でつなぐ送水パイプラインの敷設を計画しました。
海底パイプラインを敷設するためのルート周辺で安全性調査が実施されました。
しかし残念ながら、かつて戦後に海中へ投棄されたとみられる毒ガス兵器が発見されてしまったのです。
この新たな毒ガスの発見により、工事の安全性を最優先するため、海底送水管の敷設計画は中止されることになりました。
「うさぎの楽園」として世界に知られる大久野島

大久野島の景色(広島県竹原市)
大久野島は、特に2010年代以降、「ウサギの島」として日本のみならず海外にまで広く知られるようになりました。

大久野島のうさぎ(広島県竹原市)
国際的にも「Rabbit Island」としての知名度が一気に高まりました。
多くの外国人観光客が訪れるようになり、海外ニュースやSNS、動画サイトなどを通じて、大久野島の愛らしいウサギたちの姿が世界中へ発信されています。

観光客に全力で甘えてくる、可愛らしい大久野島のうさぎ(画像はあくまでAIによるイメージです。)

観光客に全力でエサのおねだりをしてくる、可愛らしい大久野島のうさぎたち(画像はあくまでAIによるイメージです。)
おわりに・まとめ:大久野島の「負の歴史」も忘れてはならない
現在では愛らしいウサギたちが駆け回る楽園として、訪れる多くの人々を癒やしてくれる大久野島。

大久野島の毒ガス工場跡(画像はあくまでAIによるイメージです。)
しかしその一方で、かつて地図から消され、毒ガス製造によって多くの人々が苦しんだという厳然たる歴史が存在します。
のどかな自然とウサギの楽園を満喫するとともに、島が刻んできた戦争の記憶と負の歴史にも静かに思いを馳せ、平和の尊さを深く胸に刻みたいですね!
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