加賀百万石の城下町・金沢の歴史を徹底解説!
前田利家と前田綱紀の功績から茶屋街の街並み、戦災を免れた理由まで分かりやすく紐解きます。

加賀百万石の大名・前田利家(画像はあくまでAIによるイメージです。史実とは異なる描写がある可能性がありますので、ご了承ください。)

金沢の伝統的な町並み(画像はあくまでAIによるイメージです。実物・実際の景色ではありませんので、ご了承ください。)
はじめに:加賀百万石の歴史と名君たちの足跡
前回は金沢市の基本情報や、金沢駅前の鼓門、そして金沢の能楽・加賀宝生の基礎について学んできました。
今回は主に、加賀百万石の礎を築いた歴代藩主の功績や、歴史情緒あふれる城下町の魅力について詳しく学んでいきましょう!
まだご覧になっていない方は、ぜひ前回の記事もあわせてチェックしてみてくださいね。

「加賀百万石」の城下町、金沢
金沢の街は、江戸時代に、いわゆる
- 「加賀百万石」
とも呼ばれた加賀藩の城下町として、とても栄えていました。
つまり、この「加賀百万石」という呼び名は、石高すなわちお米の生産量が、なんと102万5千石もあったことから来ています。

金沢城(石川県金沢市)
ちなみに、
- 2位の薩摩藩(鹿児島県)は、約76万石
- 3位の仙台藩(宮城県)は、約62万石
- 全国の主要な藩は、だいたい20万石~30万石もあれば、かなり多い方
- むしろ大半の大名は、せいぜい数万石くらい(下手したら、むしろそれ以下)しか持てなかった
といったことを考えると、加賀藩の百万石というのが、いかに突出して多かったかがわかります。
加賀百万石について詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

したがって、これは徳川幕府に次ぐ、全国の大名の中でも、一番大きな石高だったということなのです。
加賀藩主・前田家でも特に重要な「利家」「綱紀」

金沢城・石川門(石川県金沢市)
加賀藩の歴代藩主・前田氏の中で、特に重要な人物といえば、やはり
- 前田利家(初代)
- 前田綱紀(5代目。加賀藩主としては4代目)
の二人ですよね!
この二人は紛れもない、加賀藩の絶対的エースです(※この言い方、わかる方います?)。
つまり、それぞれ違う形で、加賀藩の歴史に大きな影響を与えたというわけです。

金沢の伝統的な町並みのイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
前田利家(初代藩主): 加賀藩の「創業者」
「百万石の大名」としてあまりにも名高い前田利家さんは、まさにこの加賀藩を、ゼロから立ち上げたという、とても偉大な人物です。
彼はまだ戦国時代だった頃に、豊臣秀吉の家臣(部下)として、秀吉の天下統一をしっかりサポートし、戦乱の世を力強く生き抜きました。
そして、秀吉からその功績が認められたことより、加賀国(つまり、いまの石川県)という大きな領地をもらうことになりました。
そして、そこからまさしく加賀藩の基盤を築きあげたわけです。
そして、秀吉が亡くなった後も、その息子・後継者を補佐する重要なポジションである五大老(※)の一人として徳川家康と渡り合い、また徳川家との関係もよい感じに保つことで、加賀藩を守り抜きました。
その結果、「百万石」という日本一の領地を維持したわけです。
※五大老とは、豊臣秀吉の死後、その後継者である幼い豊臣秀頼を補佐するために設けられた、最高意思決定機関の名称でした。
このメンバーは、
- 徳川家康
- 前田利家
- 毛利輝元
- 上杉景勝
- 宇喜多秀家
という5人の大大名(つまり、大名の中でも特にスゴい人たち)でした。
つまり、徳川家康と前田利家は、この当時はなんと同じ地位だったわけです!スゴいですね。
前田利家は、藩主(藩のリーダー)としての期間は短かったですが、その後の加賀藩の繁栄は、まさに彼が築いた土台があってこそのものだった、というわけです。
したがって、彼は「藩祖」として、石川県・金沢では特別な存在(むしろ英雄)とされています。

金沢の伝統的な町並みのイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
前田綱紀(第5代藩主): 加賀藩の「黄金時代を築いた名君」
前田綱紀は、約78年という、ほぼ一世紀にも及ぶような驚くほど長い期間、藩主(藩のリーダー。知事や市長のようなもの)を務めました。
すなわち、加賀藩の政治を安定させ、平和な時代を築いたわけです。
彼の最大の功績は、武道よりもむしろ勉強・学問を優先する、「文治政治」を進めたことでしょう。
文治政治:武力ではなく、学問や文化を重視して、国を治めることです。
彼は、藩校「明倫堂」の前身となる学問所を整備し、全国から優秀な学者を招きました。
その結果、この時代に
- 加賀友禅
- 九谷焼
- 加賀蒔絵
といった、金沢ならではの工芸品が大きく開花したのでした。
また、茶道や能楽といった文化も大いに発展しました。

金沢名物・加賀友禅(画像はあくまでAIによるイメージです。)
こうした文化的な繁栄が、いまでも語り継がれる「加賀百万石」のイメージをさらに決定づけたわけです。
すなわち、すごく優雅な時代だったんだろうな、ということが想像できます。
また、彼は治水事業や新しい田んぼの開発にも力を入れ、財政の基盤も固めました。
なぜ、この二人を特に知っておくべきなのか?
それは、二人が加賀藩の歴史を象徴しているからです。
- 前田利家: 戦国時代という「荒波」を乗り越え、加賀藩という「器」そのものを創り上げた人物です。
- 前田綱紀: その「器」を、文化や経済、学問でいっぱいに満たし、加賀藩の個性を確立させた人物です。
この二人の功績がなければ、いまに続く加賀百万石の繁栄はなかったでしょう。
したがって、加賀藩の歴史を学ぶなら、まずこの二人から始めるのが一番わかりやすいといえます。
もちろん、この2人以外の他の藩主も金沢のために一生懸命頑張りましたが、それでもやはりこの二人は、まさに加賀藩の「始まり」と「絶頂期」を代表する存在であるというわけです。
大都市「金沢」は、歴史的な街並みが残る街
当時の金沢は、人口の規模でいうと、
- 江戸(東京)
- 大坂(大阪)
- 京(京都)
という、日本のいわゆる三大都市「三都」に次いで、4番目の名古屋と並ぶほどの大都市でした。
また、金沢の街が、第二次世界大戦のときに、アメリカ軍からの空襲を受けなかったことは、とても幸運なことでした。
これにより、昔ながらの歴史的な建物がたくさん残っていて、
- 主計町茶屋街
- ひがし茶屋街
- 長町武家屋敷跡
などといった、歴史を感じさせる素晴らしい風景が、今でもたくさん残っているのです。
金沢市について詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

金沢が空襲を受けなかった理由
なぜ、金沢は空襲の被害に遭わなかったのでしょうか。
米軍の資料によると、当時の金沢は、軍事的な戦略価値が低いと判断されたため、空襲の対象から外されたようですね。
金沢には、当時「第九師団」という日本陸軍の部隊が置かれていました。
しかし、この部隊は台湾に駐留しており、ほとんど兵力が不在だったのです。
したがって、軍事的な重要性が低いと判断されたのかもしれません。
第九師団とは何か?について詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

世界的にも人気の観光都市、金沢
実は金沢は、アメリカ人をはじめとする外国の方々にも大人気の観光地でもあります。
特に、歴史的な街並みや文化、そして現代アートとの融合が、多くの外国人観光客を惹きつけています。
すなわち、以下のような場所が、人気の観光スポットとして知られているわけです。
- 兼六園
- ひがし茶屋街
- 金沢21世紀美術館
やはり、これだけ魅力的な街並みが残っているからこそ、金沢のファンは世界中に多いのかもしれませんね。

金沢の伝統的な町並みのイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
今回はここまで 続きは次回
おわりに:次回は、金沢の美を象徴する加賀友禅の染織技術や、全国一のシェアを誇る金箔の歴史と魅力について、さらに深掘りして解説していきます!
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