
今回は、和歌山県の本州最南端の地・潮岬に行ったときのレポートです!
潮岬の歴史、黒潮のしくみ、さらには1890年に遭難したオスマン帝国(トルコ)のエルトゥールル号の歴史についても、わかりやすく解説してゆきます!
本州最南端の町・串本町

潮岬(しおのみさき)は、和歌山県・紀伊半島(きいはんとう)の最南端に位置する串本町(くしもとちょう)にある、本州最南端の地になります。
潮岬(しおのみさき)へは、大阪や和歌山市あたりから、特急くろしお号に乗って、約3時間ほどで来ることができます。
しかし紀伊半島は想像以上に大きく(9,900km²)、しかも千葉県・房総半島(5,034km²)の倍近い広さがある上、しかも房総半島よりも列車の本数が少なくなっています。
特に紀伊半島南部においては、昼間は普通列車が3時間に一本しかないなど、かなり厳しい制約があります(ちなみに房総半島南部は、1時間に一本あります)。
こうした厳しい列車の制約のため、潮岬は意外にもかなり遠く、なかなか行きづらい場所となっていますす。例えば青春18きっぷ使用などで、普通列車だけで来ることはかなり厳しいでしょう。
したがって、もし遠方から来られる方の場合は、大阪・和歌山あたりで前泊をしておいた方がよさそうですし、もしお昼までに潮岬に着きたい場合は朝の「特急くろしお号」(新宮行き)は絶対に乗り過ごさない方がよいでしょう。
私(筆者)も学生時代に「青春18きっぷ」で潮岬に行こうとチャレンジしたのですが、先述の通り普通列車のみでのダイヤがとてもシビアだったことと、また特急に乗るお金が無かったため、何度も断念したという記憶があります。
しかし、なんとか社会人になってから「特急くろしお号」で、ようやく本州最南端の地へとたどりつくことができました。

元々は本州から離れた島だった
潮岬(しおのみさき)は、元々は本州から離れた島でした。
しかし長い時間をかけて、海の波などによって運ばれてきた土砂(どしゃ)が、潮岬と本州との間に少しずつ溜まってゆきました。
やがてそれらが、長い砂州(さす)となって延びてゆきました。
ついには一つにつながり、本州と潮岬は現在のように陸続きとなったのでした。
江戸時代・徳川頼宣の入国
江戸時代はじめの1619年、徳川頼宣(よりのぶ)が紀州藩(きしゅうはん)の初代藩主となりました。
徳川頼宣は、「暴れん坊将軍」と呼ばれた江戸幕府8代将軍・徳川吉宗(よしむね)の先祖にあたります。徳川吉宗は「享保の改革(きょうほうのかいかく)」を行ったことでも有名です。徳川吉宗は、紀州徳川家からの出身です。
この徳川頼宣の就任から明治維新にかけて約250年にも及ぶ、和歌山での紀州徳川家の政治が始まるのでした。
徳川頼宣と紀州徳川家の歴史については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
リアス式海岸に接近した、絶好の漁場・串本町
紀伊半島(きいはんとう)の最南端の町である串本町(くしもと)は、複雑に入り組んでできたリアス式海岸の前に、太平洋が存在しています。
リアス式海岸では、後述するように栄養が豊富になるため、お魚がたくさん集まりやすくなります。そのため、古くから好漁場として、たくさんのお魚に恵まれた地方として知られてきたのでした。
昔の人々にとっては、たとえ(平地が少くて)田んぼが作れなくても、海でお魚がたくさん採れれば、村の人々は食べて行くことができました。
また、他の(お魚が採れない内陸部などの)地域に対してお魚を売ることができれば、お米と交換してお米を食べることもできたわけですね。
リアス式海岸は、後ろ側の山地がすぐ海に迫っている構造の地形であるため、森のミネラル分を多く含んだ水が海へと流れ込むことにより、栄養分が豊富になります。
この豊富な栄養分を蓄えた海は、植物プランクトンがたくさん発生することになります。そして、それらを食べる魚介類や、海藻類などの繁殖・養殖にとても適しているというわけです。
こうして、魚がたくさん釣れる「漁場」なり、たくさんの漁師さんたちが集まってきて、町が発展していきます。
さらに「海の幸」を味わいたい観光客の皆さんがやってくることで、町が賑わうようになるのです。
「親潮」と「黒潮」
紀伊半島の南側には、黒潮(くろしお)と呼ばれる大きな海流が流れています。
そしてこの黒潮は、「魚釣り(漁業)」や「船のルート」「気候」などに対して、とても大きな影響を与えています。
黒潮は言うまでもなく、特急「くろしお」の由来にもなっています。
黒潮(くろしお)の特徴
- 「日本海流」ともいいます。
- 日本列島の南側から、東の千葉県・房総半島あたりにまで流れてゆきます。
- 暖流に分類されます。「南の暖かい地域」から流れてくるため、水温が高いことが特徴です。そのため、暖い海を好むお魚さんたちがたくさん暮らしています。
- 黒潮は海水が「青く黒く見える」ことから、その名前の由来となっています。なぜ黒く見えるのかというと、栄養に乏しいためプランクトンが少ないためだと言われています。
- 黒潮は栄養分が少なく、プランクトンが不足しています。それが「黒く見える理由」となっています。
- 黒潮では、カツオ・マグロ・サワラ・マアジ・サバなどといった、温かい海を好む魚が主に漁獲されます。
- 黒潮では不純物が少なく、非常に透明度の高い海水になっています。これも黒潮が「黒く見える」一因となっています。
親潮(おやしお)の特徴
- 日本列島のはるか北東の千島列島から流れてくるため、千島海流(ちしまかいりゅう)ともいいます。ちなみに千島列島とは、北方領土のさらに北東に位置するカムチャッカ半島にかけて、とても長く連なっている列島です。
- 親潮は、千島列島から南西に向けて、さらに北海道の釧路(くしろ)~三陸沖(さんりくおき)~房総半島にかけて、南へと流れてゆきます。
- 親潮は「北の寒い地域」から流れてくるため、寒流となっています。そのため、冷たい海を好む魚が、たくさん住んでいます。
- 親潮には魚の栄養分がとても多いため、「魚を育てる親となる潮」という意味で「親潮」の由来となっています。よく「親は冷たい」という語呂(ごろ)合わせで暗記されます。
- 親潮は先述の通り栄養分が多いため、それに伴いプランクトンが多く発生します。
- 親潮でとれる魚には、ニシン・ホッケ・サケ・カレイなどといった、寒い海を好む魚があります。なぜあえて寒い海に住むのかというと、恐らく天敵から逃れるためなのでしょう。
- そしてこうした魚たちは、寒さに耐えうるような強い体をしています。脂肪が多く、そのため食べた時にとてもおいしいのです。
この「親潮」「黒潮」の二つの海流がぶつかる場所は「潮目(しおめ)」と呼ばれます。
潮目(しおめ)には、魚のエサになる小さな生き物であるプランクトンがたくさんいるため、魚が多く集まります。
例えば、東北地方の太平洋側である三陸沖(さんりくおき)や、千葉県の太平洋側である銚子(ちょうし)沖は、その「潮目」となる漁場の代表例です。
ちなみに日本一の漁港は、北海道の釧路港(くしろ)と、千葉県の銚子港(ちょうし)となっています。
黒潮の「大蛇行」
黒潮の流れ(ルート)はとても気まぐれなものであり、ときに大きく南へ遠ざかってしまいうことがあります。
これを黒潮大蛇行といいます。これが発生すると、黒潮の流れが紀伊半島のはるか南へ大きく迂回してしまいます。
黒潮大蛇行は、黒潮と本州の間に発生してしまう冷水渦(れいすいうず)とよばれる冷たい水の塊を、黒潮が嫌ってこれを迂回し、さらに南を流れることで発生してしまいます。
黒潮は、潮岬のすぐそばを通ったりするときもあります。しかし「黒潮大蛇行」によって黒潮が離れていったりもします。
こうなると、魚釣りが出来る「漁場」が近くなったり遠くなったりして読めなくなるため、漁師の皆さんをとても困らせるときがあります。
なので、漁師さんたちによっては、この「黒潮の場所」を読むことがとても大事なのです。
これは、漁業をする人たちにとっては「いい迷惑」になります。それは魚が遠くへ逃げてしまったり、そのたびに魚釣りのルートを変更したりしなければならないからです。
黒潮大蛇行で流路(ルート)が大きく蛇行することによる、漁業への影響は、以下のようなものがあります。
- 黒潮が海岸から大きく離れることで、漁場が沖合い(遠く)へと変化してしまい、それにともなって漁業がやりにくくなり、漁獲量が減少してしまう。
- 船にとっての経済的な(コスパのよい)運航コースが変わってしまう。遠くへ船を出すほど燃料費や人の労力も大きくなり、漁業の効率が下がってしまう。
潮岬の周辺の黒潮大蛇行の歴史には、次のようなものがあります。
1960年代半ば~1970年代半ばまでの期間は「非大蛇行」の状態でした。
しかし、1970年代後半~1990年代の初めまでは、黒潮大蛇行が頻繁に発生していました。ただそれ以降は、しばらくの間は蛇行は発生していないという状態でした。
2004年7月〜2005年8月になると、再び大蛇行が発生しました。
2017年8月になると、12年ぶりに黒潮大蛇行が発生してしまいました。これは2025年現在に至るまで、今のところ約7年以上継続している状況になります。
2024年11月に発表された黒潮の長期予測によれば、2025年に入っても黒潮大蛇行はまだ続くものだと予測されています。
しかも観測史上最長の大蛇行などと言われています。
串本町とトルコの関係 お互いにとても仲が良い
串本町とトルコには、今でも深い関係あります。
明治時代の1890年に串本町の海で起きたエルトゥールル号遭難事件(後述)で、当時の日本人が多くのトルコ人の命を救ったことがきっかけでした。
トルコとは、ヨーロッパの地中海にある国です。首都はアンカラ、最大の都市はイスタンブールといいます。トルコは親日国として知られており、日本に対して好意的な方がたくさんおられます。
トルコは1922年までは、オスマン帝国といいました。そのオスマン帝国の首都が、現在のトルコ最大の都市のイスタンブールだったというわけです。
トルコという国について詳しくは、大人の教養TVというYouTubeチャンネルにて、とてもわかりやすく解説されています。
YouTubeで「大人の教養TV トルコ」と検索したら一発で出てくると思うので、是非ご覧ください。
エルトゥールル号遭難事件
エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)は、明治時代の1890年に、オスマン帝国(当時のトルコ)の軍艦であるエルトゥールル号が、現在の串本町のやや東にある紀伊大島の東の岬の海岸沿いで遭難してしまい、500名以上の犠牲者を出してしまったという事件です。
そして、かろうじて船から脱出した69名のトルコ人に対し、当時の日本人が必死に手当てをして、また数少なかった物資を惜しげもなく分け与え、見事に彼らの命を救ったのでした。
これらの救助活動はトルコから非常に感謝され、これをきっかけにトルコは親日国となり、今でも日本とトルコは良好な関係を築いています。
日本ととにかく仲良かった、オスマン帝国
かつて明治時代の大日本帝国(当時)とオスマン帝国(当時)との間では、1887年に行われた小松宮彰仁(こまつのみや あきひと)親王のご夫妻が、オスマン帝国の首都・イスタンブールを訪問されたことをきっかけに、皇室における儀礼関係が始まっています。
現在の日本の皇室である秋篠宮(あきしののみや)ご夫妻も、2024年12月にトルコをご訪問されましたよね。
各国の皇室同士には、こうした交流行事があるのです。
当時のオスマン帝国の皇帝だったアブデュルハミト2世は、当時の日本のトップである明治天皇に対して勲章(くんしょう)を差し上げるために、エルトゥールル号を日本へ派遣することを決めたのでした。
日本に到着し、あたたかく迎えられたエルトゥールル号
こうしてオスマン帝国(現・トルコ)の皇帝の命令により、勲章を持って日本へ向かうことになったエルトゥールル号は、1889年にイスタンブールを出港しました。
途中の長い航海の末、数々の困難に遭いながらも約11ヶ月もの期間をかけて、1890年6月にようやく日本へ到着しました。当時はまだ航空機が一般的ではなかったので、船で長期間かけて行くしかなかったのですね。
しかしエルトゥールル号はこの時点でかなり老朽化していた船だったので、トルコ国内では誰も無事に日本へ着くとは思っておらず、むしろ着いたこと自体が「奇跡」に近い感じだったようです。
こうして、なんとか長く険しい航海の末に横浜港へと無事に入港したエルトゥールル号でしたが、船の司令官をはじめとする一行は、本来の目的通りにオスマン帝国皇帝からの親書(しんしょ:とても偉い人へと向けた、皇帝のサイン入り重要文書)を、明治天皇に対して奉呈(ほうてい)したのでした。
そして、彼らはオスマン帝国における最初の日本に対する「親善訪日使節団(両国の親善を深めるための、儀礼的な使節のこと)」として、日本国内で大きな歓迎を受けることになりました。
ここから、現在まで続く日本とトルコの友情関係がスタートすることになるのです。
帰途中、台風にあおられ、紀伊半島沖にて遭難
しかし、帰るときには大きな困難に見舞われることになります。
というか、結果からいうと、エルトゥールル号はトルコに無事に帰還することはできず、串本町の沖で事故を起こして遭難してしまったのです。
エルトゥールル号はこの当時、建造から既に26年も建っているの老朽艦だったうえに、しかも補給品の不足・乗員の経験不足などといった、大きなリスク要因を抱えていたのでした。
というか、トルコを出港する前から、そもそも日本のある極東地域へと向けて長い航海をすること自体が、元々トルコ内部において反対意見が強かったのでした。
そのため、日本に無事にたどり着いたこと自体が、大変な幸運(まぐれ)だとみなされていたのでした。
さらに当時日本で流行っていた「コレラ禍」がエルトゥールル号内においても発生してしまい、そのせいで日本での滞在が長引いてしまいました。
そのため、日本到着から約3ヶ月後の1890年9月15日になって、ようやく横浜を出港することとなったのでした。
しかし、エルトゥールル号の消耗ぶりでは、遠洋への航海には到底耐えられないであろうことは、誰の目にも明白でした。
この状況をみた日本側は「悪いこといわないから、出港はやめておけ」と、台風の時期をやり過ごすようにと勧告しました。
しかしオスマン帝国側はその制止を振り切って、帰路についてしまったのでした。
そしてトルコへ向けて出港してからは、それまでの疲労・経年劣化を蓄積し続けていた艦がみるみる消耗してゆき、また乗員も技術不足や疲労などから、どんどん消耗していきました。
さらには、資金不足による物資不足により、船の航海はとうとう限界に達しようとしていたのでした。
なんか罰ゲームみたいな航海ですね・・・。あまりに無謀な航海です。
なぜ彼らがこんな無謀な航海を選んだのかというと、例えば「オスマン帝国の命令があったから」だとか「オスマン帝国のプライドがあったから」だとか、今でも様々な説が言われています。
そして悪い予感は的中してしまい、その帰る途中で、遭難事件は起こったのでした。
そして1890年9月16日、夜の21時ごろ、明治政府に警告されていた台風による強風にあおられたエルトゥールル号は、串本町のやや東に浮かぶ紀伊大島の東端にある樫野埼(かしのさき)に連なっている岩に激突してしまいました。
この激突により水蒸気爆発が発生した結果、22時半ごろに船は沈没してしまったのでした。
これにより、約600名以上が海へ投げ出されたのでした。
エルトゥールル号遭難者の救難活動
こうして串本町東の紀伊大島・樫野埼灯台(かしのさきとうだい)の近くに激突し、かろうじて船から脱出して生き残ったエルトゥールル号の乗員たちは、灯台のある崖の下になんとか命からがら無事に流れ着いたのでした。
そして生存者たちは、暗闇の中を灯台の明かりをたよりに、崖をなんとか這(は)い登ってゆきました。やがて、崖の上にある灯台にたどりつくことができたのでした。
灯台では、灯台を守るための「日本人の職員」が勤務していたため、彼らが生存者のトルコ人達を見た瞬間、ただちに手当て・介護をはじめ、さらには多くの関係各所へと報告したのでした。
すると日本の各地から次々に救助に乗り出していったのでした。
さらには串本村の村民たちを大動員して、生存者の探索と、負傷者の救助活動を全力で行っていったのでした。
この時期、串本村では台風がずっと続いたことによってほとんど漁業に出ていくことができず、魚をまともに釣れていなかったため、村の食料の蓄えもほとんどありませんでした。
しかしそれにも関わらず、住民たちは浴衣などの「着るもの」や米などの「食べ物」、さらには備蓄してあった非常食すらも彼らに与えてあげるなど、全力でトルコ人の生存者たちの救護に努めたのでした。
このときの串本村と日本人による国をあげての懸命な救助活動により、トルコからは大いに感謝されました。
そしてトルコは、今でも親日国であり、日本とトルコはとても良好な関係を築いているのです。
串本沖で沈んでしまったスカンジナビア号
そして2006年には、スカンジナビア号という船も串本町の沖合いで沈没してしまっています。
スカンジナビア号は元々はステラ・ポラリス号という名前で1926年にスウェーデンで生まれた船であり、第一世界大戦の後に「豪華客船」として、主にヨーロッパの海で活躍してきました。
しかし戦後しばらくして、老朽化のために「豪華客船」としては使用できなくなり、ホテル経営として転用させるため、1970年に日本の静岡県東部・沼津(ぬまづ)の海にやってきました。
しかしバブル崩壊後の不況のため、ホテル経営・レストラン経営ともに不振に陥ってしまいました。
やがて2006年、母国のスウェーデンへ帰る事が決まったのですが、その航海の途中で、激しい老朽化のために串本町の沖で沈んでしまいました。
スカンジナビア号について詳しくは、以下の記事もご覧ください。
まとめ:串本町、黒潮、トルコとの関係など
いかがだったでしょうか。今回のポイントを以下にまとめておきます。
- 潮岬(しおのみさき)は、和歌山県串本町(くしもとちょう)にある、本州最南端の地である。
- 紀伊半島はとても広いため、潮岬へのアクセスは特急くろしお号がとても便利である。
- 潮岬は、元々は今と異なり陸とは繋がっていない「島」であり、長い年月をかけて砂州(さす)ができたことで本州とつながった。
- 潮岬の南には、特急くろしお号の由来になった黒潮(くろしお)が流れている。
- 黒潮は暖かい海であり、そんな海を好むお魚がたくさん採れる。
- 黒潮が大きく南へ反れる「黒潮大蛇行」が起きると、漁業がとてもやりにくくなる。
- 今でも日本と串本町と、ヨーロッパの国・トルコはとても仲が良い。
- トルコと日本が仲良くなったきっかけの一つに、1890年に串本町で起きたエルトゥールル号遭難事件がある。
- エルトゥールル号で遭難したトルコ人を助けるために、串本村の人々と日本人が、全力で救助活動にあたった。
- この日本人による懸命な救助活動のために、トルコから大きく感謝され、日本とトルコが仲良くなるきっかけとなった。
- 2006年にはスカンジナビア号という船も串本町の沖合いで沈没することとなった。スカンジナビア号は、元々はステラ・ポラリスという船だった。
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
ちゅうい!おわりに
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
この記事が良いと思った方は、よかったら次の記事・前回の記事も見てくださいね!
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