19世紀のイギリスにおいて最初期の蒸気機関車を発明した天才、リチャード・トレヴィシックについて、わかりやすく解説していきます!
リチャード・トレヴィシックの驚きの物語
リチャード・トレヴィシック(Richard Trevithick、1771年〜1833年、イギリス・コーンウォール生まれ)という名前は、日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが、実は世界の鉄道の歴史において「真の生みの親」とも呼べる、とてつもなくすごい人物になります。
すなわち、現代まで続く世界の大量輸送の歴史は、すべてこの人物から始まったと言っても過言ではないわけです。
蒸気機関車の「真のパイオニア」リチャード・トレヴィシック
実は、ジョージ・スティーヴンソンよりも先に蒸気機関車を発明した人物
一般的に、蒸気機関車を実用化させた人物として、ジョージ・スティーブンソンの名前が非常に有名ですね。
しかし、
- そのスティーブンソンが大活躍するよりも20年以上も前に、
- 世界で初めて鉄の線路の上を自力で走る本物の蒸気機関車(インビクタ号やペニダレン号など)を設計して作り上げたのが、
- まさにこのトレヴィシックその人
であるというわけです。
ジョージ・スティーブンソンについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

しかし故障が相次ぎ、実用化には至らなかった
だが、
- 当時の技術力では重い機関車の重さに耐えられず、
- 鋳鉄製の線路がパキパキと簡単に割れてしまったため、
- 当時はあまり実用化されずに、不遇の時代を過ごした
という一面もあるというわけです。
それでは、彼の尽きない情熱とアイデアがぎっしりつまった驚きのエピソードを、これからいくつか詳しく紹介しますね。
蒸気機関車の真の父!リチャード・トレヴィシック
リチャード・トレヴィシックは、現代の鉄道の基礎を作った「天才発明家」です!
ジョージ・スチーブンソンよりも先に、蒸気で走る車を形にしたすごい人なんですよ。
彼の人生や発明には、驚くようなエピソードがたくさんあります。
規格外の「巨人」エピソード 体が大きく力持ちだった
彼は技術者としての才能だけでなく、身体的にもとても超人的なエピソードを持っています。
身長が190cm以上もあり、当時のイギリスでは並外れた大男でした。
「コーンウォールの巨人」というあだ名で呼ばれ、重い鉄の棒を軽々と曲げたり、大きなハンマーを片手で振り回したりしたそうです。
コーンウォール:イギリスの南西端にある地域で、昔からスズや銅の鉱山が栄えていた場所になります。
性格も豪快で、まるで新しい発明のためなら全財産を投げ打つような、まさに「熱血漢」という言葉がぴったりな人でした。
世界初の「レールを走る」大冒険
1804年、ウェールズのペニダレンで 世界初の蒸気機関車を走らせる
1804年、ウェールズのペニダレンという場所で、歴史的な出来事が起きました。
すなわちこの時に、トレヴィシックが作った蒸気機関車が、まさにそれこそ世界で初めてレールの上を走ることに成功したというわけです!
従来の馬に代わる輸送手段・鉄道の誕生
ちなみに、それまでの荷物を運ぶための貨物用の交通手段としては、馬が荷車を引いていました。
しかしながら、リチャード・トレヴィシックは「蒸気の力」で、重い鉄を運べるということを証明したのでした。
重い10トンの鉄と70人の人間を乗せて走った
また、リチャード・トレヴィシックの作った蒸気機関車は、なんと当時としてはものすごく重い10トンの鉄と、さらには70人の人間を乗せて、なんと当時とした異例の約15kmもの距離を走り抜けたのでした。
しかし蒸気機関車が重すぎて、線路がことごとく破損
しかし、当時のへなちょこな鋳鉄製のレールでは機関車の重さに耐えられず、重すぎる蒸気機関車が走った時に、なんと線路がバキバキに折れてしまいました。
鋳鉄:溶かした鉄を型に流し込んで、固めた金属のことを言います。
硬いけれど、当時の蒸気機関車のように 重すぎると、ポロッと欠けたり割れたりしやすい性質があったのでした。
このように、せっかく成功したのに、結局世間のみんなからは「馬の方が安上がりだ」と言われてしまったのは、なんだか彼の家の滲むような努力が全く報われないような気がして、なんとも切ないですね!
世界初の「公道」暴走事件?
1801年に誕生した、超原始的な蒸気機関車
そして1801年のクリスマスイブ、彼はついに苦心の末、「パフィング・デビル(火を吹く悪魔)」と名付けた蒸気自動車を完成させました。
つまり、これが世界で初めて
- 「蒸気で自走した乗り物」
の一つと言われています。
みぞにはまって動けなくなってしまい 破損した
しかし、これはあまりにも原始的なものであり実用性のあるものとは到底言い切れず、試運転の途中で溝にハマってしまい、そのまま動けなくなってしまいました。
さらに驚くのはその後です。
彼はその後に仲間と一緒にパブへ飲みに行ってしまい、その間に放置された蒸気機関車の車両は火が燃え移ってしまい、跡形もなく燃え尽きてしまったのです!
なんとも彼らしい、豪快すぎる失敗談ですよね。
地理と歴史を動かした、トレヴィシックの「高圧蒸気機関」
トレヴィシックの最大の功績は、蒸気機関を「小さく、強く」したことです。
ジェームズ・ワットの蒸気機関は重すぎて鉄道に乗らなかった
ジェームズ・ワットが作った蒸気機関は、建物一軒分くらいは余裕で占有してしまうぐらい、あまりにも大きくて巨大なものでした。
したがって、当時は
- そんな大き過ぎて、重すぎる蒸気機関を乗り物に乗せるのは、絶対に不可能である
と考えられていたわけです。
蒸気機関のパワーを上げ小型化・機関車に載せることに成功
偉大な先人であるジェームズ・ワットが開発した従来のま蒸気機関は、
- 安全性を重視するあまり、装置全体が大きすぎて、
- さらに重すぎるという、致命的な弱点があった
というわけです。
しかし、トレヴィシックは
- 蒸気の圧力を限界まで高めるという工夫を凝らしたことによって、
- パワーを維持したまま、
- エンジンのサイズを、劇的にコンパクトにすることに成功した
というわけです。
ジェームズ・ワットについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

のちの蒸気機関車や蒸気船に繋がる、偉大な発明
すなわち、この「高圧蒸気機関」という偉大な発明がなければ、
- のちに世界中を駆け巡ることになる蒸気機関車も、
- 大海原を渡る蒸気船も、
歴史に生まれなかったかもしれないというわけです。
南米への大脱出
イギリスで成功できず 一攫千金を夢見て南米へ
それほど画期的な発明だったにもかかわらず、保守的だった当時のイギリスの社会では彼の技術はなかなか正当に認められず、悔しい思いをしたというわけです。
そこで、彼は一念発起して、なんと地球の裏側にあるペルーの銀山へと命がけで渡る大勝負に出たというわけです。
南米でなら活躍できる環境や需要があると考えた
なぜなら、
- 標高が極めて高くて空気が薄い過酷な鉱山において、
- 深い底から水を汲み出すための強力な排水ポンプを動かすためには、
- 彼が作った、持ち運び可能な高性能の小型エンジンが、どうしても必要不可欠だと熱烈にオファーされた
からだというわけです。
このように、自分の技術を信じて地球の裏側まで単身で届けに行くなんて、彼のエンジニアとしての情熱と行動力は本当に底知れないものがあるというわけですね!
地理を変えた「ペナダレン号」の挑戦
1804年、ウェールズのペナダレンという場所で、ついに歴史的な瞬間が訪れます。
ウェールズ:イギリスを構成する4つの国の一つで、山がちで石炭や鉄鋼業が盛んだった地域です。
世界で初めて、鉄のレールの上を走る蒸気機関車ペナダレン号が誕生しました。
当時、馬が引いていた貨車を蒸気の力で動かそうとしたのでした。
したがって、この発明がなければ、今の私たちの通勤や旅行を支える鉄道網は存在しなかったかもしれません。
壮大な南米への旅と晩年
彼はイギリスでの成功に満足せず、なんと南アメリカのペルーにまで渡ったのでした。
すなわち、彼は鉱山を動かすための蒸気機関を設置するために、海を越えて冒険に出たのでした。
しかし、なんと戦争に巻き込まれて命からがら帰国することになりました。
すなわち、彼は発明家であると同時に、世界を股にかけた冒険家でもあったというわけですね!
ちょっと意外な「見世物」エピソード
また、彼はロンドンの街中に、円形のレールを敷いた「蒸気遊園地」のようなものを作ったことがあります。
キャッチ・ミー・フー・キャン号
「捕まえられるものなら捕まえてごらん」という、なんとも挑戦的な名前の機関車を走らせました。
入場料をとるビジネス
また、彼は人々にお金を払わせて、円の中を走る機関車に乗せました。
しかし、ここでも地面が軟らかすぎてレールが壊れてしまい、商売としては失敗してしまったのでした。
私の個人的な感想
トレヴィシックは、時代の先を行き過ぎていた「早すぎた天才」だったのだと感じます。
もしも彼がレールの強度まで完璧に計算できていたら、鉄道の歴史はもっと早く進んでいたかもしれませんね!
スティーヴンソンによる「鉄道の父」への道
その後、この課題をクリアして商用化・実用化を成し遂げたのが、ジョージ・スティーヴンソンです!
彼はまさに「実用化の天才」でした。
彼は単に機関車を改良したというだけでなく、
- それまでの課題だった蒸気機関車の重さに耐えられるようなレールの改良
- 線路の幅(軌間)の統一
などといった、鉄道におけるシステム全体を整えてゆきました。
ジョージ・スティーヴンソンの功績
1825年には世界初の商用鉄道であるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道を開通させ、1829年の「ロケット号」でその地位を決定的なものにしました。
- 蒸気噴射の活用:排気蒸気を煙突に逃がすことで従来よりも燃焼効率を上げ、パワーを劇的に高めた。
- レールの強化:従来と比べて壊れにくい錬鉄のレールを採用した。
- 標準軌の確立: 現在の(日本の)新幹線などでも使われている「標準軌」の基礎を作った。
標準軌:線路のレール幅のことで、スティーヴンソンが決めた1435mmが世界基準になったのでした。
この幅の長さにみんな統一しておけば、たとえ鉄道会社が異なっていても、車両がお互いに乗り入れることができます。
夢をつないだ二人
しかしながら、トレヴィシックがいなければ蒸気機関車は誕生していませんでしたし、さらにジョージ・スティーヴンソンがいなければ、鉄道が世界中に広まることはなかったでしょう。
このように、
- 失敗を恐れず突き進んだトレヴィシックと、
- それを現実的なビジネスに変えた、スティーヴンソン
この二人のバトンタッチがあったからこそ、今の鉄道があると思うと胸が熱くなりますね!
リチャード・トレヴィシック、成功を夢見て南米へ
新天地への野望と南米への旅立ち
リチャード・トレヴィシックが南米(ペルー)へと向かったのは、1816年のことです。
イギリスでの発明がなかなか金銭的な成功に結びつかなかった彼は、一攫千金を夢見て海を渡る決断をしたのでした。
南米へ向かった主な理由
それは彼が本国であるイギリスではあまり正当な評価を得られることなく必要とされず、南米であれば自分の需要があると考えたからでした。
- 銀鉱山の排水問題:当時、南米の銀鉱山は深い場所に水が溜まってしまい、採掘が困難になっていたのでした。
- 高地での性能:しかし、彼の発明した高圧蒸気機関は、たとえ酸素の薄い高山地帯であっても、効率よく動くことが期待されたというわけです。
ちなみに彼が開発した高圧蒸気機関とは、蒸気の圧力を高めて、ピストンを動かすための仕組みのことをいいます。
これは装置を小型化できるため、重いポンプを山の上に運ぶのに適していました。
しかし、当時としては危険なものであり なかなか周りの理解や評価を得られることはできませんでした。
富の獲得を夢見て
彼は南米において鉱山技師として成功し、その上でイギリスでの借金を返済して、なんとか人生の再起を図ろうとしました。
すなわち、彼は「自分の技術が最も必要とされている場所」で成功しようと、一旗揚げようと考えたわけですね!
苦難の連続だった南米生活
しかし、彼の南米での生活は、決して順風満帆なものではありませんでした。
最初こそ鉱山の排水に成功し、莫大な富を手にするチャンスもありました。
しかし、南米の独立戦争に巻き込まれてしまい、せっかくの機械が破壊されたり、財産を失ったりする悲劇に見舞われました。
やがて、このような(スペインからの独立を目指す)戦いの中で、彼はもはや仕事どころではなくなってしまった。
命がけの帰還
そして、彼は最終的にはついに一文無しになり、コロンビアで偶然出会ったロバート・スティーヴンソン(ジョージの息子)に旅費を借りて、ようやくイギリスに帰ることができたのでした。
すなわち、彼の夢を追って地球の裏側まで行ってしまうようなバイタリティは本当に凄まじいですが、晩年の不遇さを思うと、なんとも少し切ない気持ちになりますね。
それでも彼の情熱が、後の技術者たちに大きな刺激を与えたことは間違いありません!
「早すぎた天才」リチャード・トレヴィシック
まさに、リチャード・トレヴィシックの人生を一言で表すと「早すぎた天才」と言えるかもしれませんね。
運命のいたずらというか、彼が持っていた技術に対して、周りの環境が追いついていなかったのが最大の悲劇でした。
危険すぎて時代が追いつかなかった技術「高圧蒸気機関」
トレヴィシックの最大の発明である「高圧蒸気機関」は、当時としてはあまりに先進的でした。
つまり、たとえどれだけすごいものを発明していても、周りの理解が得られなかったというわけです。
そのため、当時は
- 「蒸気は、爆発するから危険だ!」
という常識や評価がまず支配しており、多くの人々が怖くて、近づきたくないような装置でした。
あの蒸気機関を発明したジェームズ・ワットでさえ、(トレヴィシックが発明した)高圧蒸気を使おうとする彼を激しく非難したほどです。
ジェームズ・ワットはあくまで蒸気機関の安全性を重視し、慎重に扱うというような立場でした。
インフラの不足、ビジネスセンスの欠如
彼がせっかく画期的な機関車を作っても、当時はそれを支えるレールの強度が足りませんでした。
また、彼は技術を形にするのは得意でしたが、特許を維持したり、また、組織を運営したりする世渡りがあまり上手ではありませんでした。
特許とは、発明をした人が、その技術を独り占め(独占)してビジネスができる権利のことをいいます。
しかしトレヴィシックはまともに特許料すら払えず、せっかく自分が発明したものなのに権利を失うこともあったのでした。
このように、彼がどれだけ画期的なものを作っても、残念ながらそれがお金や名声に直結することはなかったのでした。
運に見放された南米時代
ちなみに、彼が夢見た南米での挑戦も、そのタイミングが最悪でした。
もし独立戦争が起きていなければ、彼は銀鉱山の王として、歴史に名を残していたはずです。
独立戦争:南米の国々がスペインの支配から抜け出そうとした戦いのことです。
この混乱で、彼が持ち込んだ高価な機械はすべてゴミ同然になってしまいました。
しかし結局、11年も南米で苦労した末に、イギリスに戻ったときはポケットに一銭も残っていなかったと言われています。
最後に残ったもの
彼は1833年に、貧困の中で誰にも看取られることなく亡くなりました。
その時の葬儀の費用も、彼を慕う工員たちがカンパして出し合った、というエピソードがあります。
確かにこれだけ聞くと、なんだか「報われない人生だった」と感じてしまいますよね。
ジョージ・スティーヴンソンに受け継がれた魂
しかし、彼が蒔いた種は、後にジョージ・スティーヴンソンによって大輪の花を咲かせました。
成功者として名前が残ることはありませんでしたが、彼(トレヴィシック)がいなければ世界の鉄道史は数十年遅れていたはずです。
すなわち彼は、名声を得ることよりも自分のアイデアが形になることに命を燃やしたという、まさに「純粋なエンジニア」だったのではないでしょうか!
あなたは、こうした「報われない天才」の物語についてどう感じますか?
現代の我々が一人でも新幹線や電車などに乗る時、トレヴィシックのことを思い出すと、天国の彼も少しは報われた気になるのかもしれませんね。
おわりに・まとめ
リチャード・トレヴィシックは、その才能とパワーで鉄道の礎を築きました。
しかし、あまりにも時代を先取しすぎていたため、残念ながら当時は正当な評価を十分に得られなかったという悲しい一面もあります。
それでも、彼の「不可能を可能にする」という精神は、後のエンジニアたちに大きな勇気を与えました。
すなわち、たとえ成功が長続きしなくても、彼の発明した高圧蒸気の技術が、その後の鉄道や船の歴史を大きく変えました。
不運や挫折にも負けず、一生をかけて夢を追い続けたトレヴィシックの情熱は、今も私たちの乗る電車の歴史の中にも、確かに息づいています。
今後、現在の新幹線や電車を見るとき、少しだけこの「コーンウォールの巨人」のことを思い出してみると、また景色が一味違って見えるかもしれませんね!
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