松尾鉱業鉄道とは?岩手県の松尾鉱山と「雲上の楽園」を支えた歴史、硫黄輸送や廃線の歩みを、わかりやすく解説してゆきます!

かつての松尾鉱業鉄道(画像はAIによるイメージです。実際の景色・車両等ではありませんので、ご了承ください。)
「雲上の楽園」を支えた、松尾鉱業鉄道の歩み
松尾鉱業鉄道とは?「雲上の楽園」を結んだ、山岳路線の全貌

かつて硫黄を大量に運んだ、松尾鉱業鉄道(画像はあくまでAIによるイメージです。)
松尾鉱業鉄道は、かつて岩手県の松尾鉱山から産出される硫黄の輸送と、そこで働く人々の暮らしを支えた専用の鉄道路線だったのでした。
簡単に言えば、当時は戦争(軍需産業)へ向かう時代だったため、戦争の武器などに必要な硫黄を大量に運び出すための鉄道だったのでした。
当時はまだ自動車が一般的ではなかったことで、代わりに貨物列車で運ぶということをやっていたのでした。
火山大国日本と、硫黄資源の価値

硫黄のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
また、日本は火山が多い火山大国なので、火山の噴火の副産物で採れる硫黄がたくさん採れたため、日本では硫黄こそが世界に誇る貴重な資源だったのでした。
つまり当時は戦争中だったこともあって、硫黄を掘って運んで売れば売るほど儲かるというような時代だったわけですね。
そんな中で非常に重要だったのが松尾鉱業鉄道だったというわけです。
しかし現在ではその鉄道も役目を終えて廃止されています。
今回はそんな松尾鉱業鉄道について解説していきます。
海抜1,000メートル近い高地に広がる近代都市へ向かって、まさに力強く走っていた姿を想像すると、胸が熱くなりますね!
松尾鉱業鉄道の開業と、発展の歩み

かつての松尾鉱業鉄道(画像はあくまでAIによるイメージです。)
まず、松尾鉱業鉄道の主な歩みと特徴について、順を追って整理してみました。
- 時代が太平洋戦争にさしかかろうとするようなまさにその1934年(昭和9年)に、現在の国鉄(現JR)花輪線に接続する大更駅から屋敷台駅の間で、まずは運行を開始したのでした。
- 後に駅名が改称されることとなり、終点は東八幡平駅(現在の八幡平市)となったのでした。
- 全長は約12.2キロメートルで、険しい山を登る規格外レベルの急勾配の路線となっていたわけです。
- 当初は蒸気機関車でしたが、1951年(昭和26年)にいち早く全線電化を果たしたのでした。これにより、さらにパワーが上がることになりました。
八幡平とは?
岩手県と秋田県にまたがる標高約1,613メートルの広大な火山台地です。
春の「ドラゴンアイ」や雄大な高原湿原、豊かな名湯が点在する日本屈指の景勝地として親しまれています。

「八幡平ドラゴンアイ」のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
用語の解説(わかる人は読み飛ばし推奨)
- 急勾配とは?
坂道の傾斜がとても急で険しいことについての言葉で、坂の角度が極めてきつい状態のことをいいます。 - 電化とは?
線路の上に架線などを張り、電気の力によって走る電車や電気機関車を動かせるようにすることをいいます。
関連する駅についての、基本的な解説
- 大更駅:岩手県八幡平市にある、JR花輪線の接続駅です。
かつての国鉄線とのそれぞれの貨物受け渡し拠点として機能し、松尾鉱業鉄道の起点駅として、重化学工業を支える物流の大動脈を担いました。 - 屋敷台駅:松尾鉱業鉄道の、開業当初における終着駅です。
八幡平の山麓の(鉱山で働く人たちが住むための)鉱山集落への玄関口として、また採掘現場へと向かう物資集積や、さらには初期の(鉱山で働く人たちを運ぶ)労働者輸送で、中核的な役割を果たしました。 - 東八幡平駅:鉱山鉄道の元々の終着駅であった(先述の)屋敷台駅から改称して誕生した、最終的な終着駅です。
標高の高い山岳地帯に位置し、雲上の鉱山都市へのアクセス拠点や、さらには観光客にとっての八幡平観光の玄関口として大いに賑わいました。
東洋一の硫黄鉱山と松尾鉱業鉄道の誕生秘話

かつての松尾鉱業鉄道(画像はAIによるイメージです。)
ではなぜ、このような松尾鉱業鉄道が誕生したのか。
それはかつて東北地方の山奥に存在した松尾鉱山が、戦前に「東洋一の硫黄鉱山」として急成長したため、大量の硫黄を素早く麓へ運び出す近代的な輸送ルートが不可欠となったからです。
なぜ戦前に、大量の硫黄が必要になったのか?
戦前の昭和初め頃、時代とともに日本でも近代工業が発展していったことに伴って、硫黄は基礎化学品である硫酸の原料として、当時は爆発的な需要を誇りました。

戦前から戦後にかけ、とにかく重要視された硫黄(画像はあくまでAIによるイメージです。)
すなわち、硫黄の存在は、例えば戦争の火薬や武器の原料などとして必要不可欠だったことはもちろん、軍事目的以外の他にも一般的な工業である化学肥料や火薬の製造、合成繊維のレーヨン加工、パルプ製造に至るまで、ありとあらゆる(我々の生活に不可欠なものを作るための)製造業の根幹を支えるための必須物資だったのです。
生活必需品から軍需までを支えた、純度の高い硫黄
このように、硫黄は軍事目的だけでなく生活必要物資を作るためにも必要な原料であり、戦前から高度経済成長期にかけての日本において国内の産業を力強く回すためにも、大量の純良な硫黄がどうしても必要不可欠でした。
もちろん、不純物の多い汚くてクオリティの低い硫黄では売れないので、キレイで品質の良い純度の高い硫黄がたくさん必要でした。
松尾鉱山には、そんな純度の高い硫黄がたっぷり眠っていたというわけです。
黄色いダイヤが潤した、松尾鉱山と松尾鉱業鉄道の経済効果

かつて「黄色いダイヤ」とも呼ばれ、掘って売るほど儲かることになった硫黄(画像はあくまでAIによるイメージです。)
当時の天然硫黄は「黄色いダイヤ」と称されるほど高い換金価値を誇り、非常に高値で取引されました。
つまり、簡単に言えば当時の硫黄はまるでダイヤモンドのように、掘れば掘るほどどこも喉から手が出るほど欲しくて買ってくれたというわけです。
貴重な外貨獲得源として、日本経済を救った硫黄輸出
すなわち、松尾鉱山で採掘された高品位な硫黄は、国内需要をとにかく満たしただけでなく、貴重な外貨獲得資源として、海外へも活発に輸出されました。
というのも、硫黄を海外へ輸出すれば、大量の外貨(米ドルなど)を獲得できることになります。
そうなると、
- もしも日本の円が破綻してしまって(世界各国からの信頼を失ってしまって)、
- (日本のお金が)ただの紙切れになってしまった時に、
- いざ外国の金があると海外からの重要物資の輸入決済にも役立つため、
- 国家経済にとっても、(外貨の存在は)極めて貴重な富となった
というわけですね。
戦前〜戦後復興期、日本は深刻な外貨不足(ドル不足)に悩まされていました。
そのため、国内で自給でき(つまり輸入に頼らなくても手に入る)、そのうえで海外へ輸出できる(売れる)硫黄は、極めて貴重な外貨獲得源でした。
「黄色いダイヤ」がもたらした巨万の富と、松尾鉱業鉄道
このように、当時は硫黄を売れば売るほど莫大な利益がもたらされたことで、山の上に、
- 贅の限りを尽くした、近代的集合住宅
- 至れり尽くせりのような、福利厚生施設
を築くための原資となったのでした。

かつて「雲上の楽園」とも呼ばれた松尾鉱山(画像はあくまでAIによるイメージです。)
そしてそこで働いていた人たちは非常に高給取りであって給料が高かったので、街(の飲食店など)に対して大きな利益をもたらしました。
外国では硫黄はとれなかったのか?
じゃあそんなに日本の硫黄ばかりに頼っていて、外国では硫黄が取れなかったのか?とも思いますよね。
外国でも、確かに火山地帯や地下鉱床があるところからは硫黄は採掘されていました。
しかし、外国の硫黄は日本の硫黄と比べてどうしても不純物が多かったのでした(つまりクオリティが低く、実用にならなかった)。
そのため、(世界的には)なかなか不純物が少なくて、まともな高品質な天然硫黄の大鉱床の存在は、世界でも限られていました。

日本では、海外と比べ質や純度の高い硫黄がたくさん採れる「硫黄大国」だった(画像はあくまでAIによるイメージです。)
ちなみにアメリカなどでは、地下へ熱水を送り込む採掘法が普及していました。
しかし、東アジア圏において純度約40パーセントを誇る(これは非常に高い純度です)ような巨大な露出鉱床を持っている日本の松尾鉱山は、品質面でも供給力でも、圧倒的な国際競争力を有していました。
火山大国・日本が誇る天然資源と、松尾鉱業鉄道の使命
火山大国である日本は、硫黄大国でもあるのか
結論から言うと、日本は火山大国・硫黄大国であると言えます。

東北地方の山地のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
日本は世界でも稀に見る、プレートが多く密集している環太平洋造山帯に位置する世界屈指の火山国になります。
つまり、プレート同士がお互いにずれることによって、地下でも摩擦がおこって火山や地震がたくさんおこるわけです。
日本はこうしたことから火山活動がもたらす、天然硫黄の宝庫でした。
特に、日本はこうした火山が起こりやすい発生しやすい土地や国土であることから、東北や北海道を中心に数多くの硫黄鉱山が開かれてゆきました。
また、東北地方に(火山の多さに由来する)蔵王温泉や鳴子温泉、そして八幡平の藤七温泉や松川温泉など名湯が多いのもそのためですね。

東北の火山の恵みでもある、蔵王温泉(画像はあくまでAIによるイメージです。)
東北の火山地帯が育んだ、世界屈指の硫黄生産
話を戻しますが、東北地方にはこのような火山に由来する硫黄の産地がとても多かったため、当時の日本は明治から昭和中期にかけて、世界有数の硫黄生産国として名を馳せてゆきました。
このようにして、日本は歴史的に火山大国ならではの豊かな地熱(つまり天然のガスバーナーのようなもの)と、さらには数多くのプレートがもたらす地殻変動の恵みによって、確かに世界にまれに見る災害大国ではあるのですが、その一方で近代日本の化学産業を支える、一大硫黄大国が誕生したというわけです。
なぜ鉄道が必要だったのか
山深い松尾鉱山から産出される膨大な硫黄鉱石は年間十数万トンにも及び、従来の馬車やトラック輸送では到底運び切れませんでした。
そのため、豪雪地帯でもある八幡平の冬期道路閉塞を克服し、さらには大量の鉱石を、安全かつ迅速に国鉄線(花輪線を経由して東北本線方面)へと直通輸送するということが必要だったのでした。
そのためには、専用の規格化された、強靭な鉄道網を敷設していくことが、当時の産業や軍需を支えるための唯一絶対の解決策だったのでした。
険しい山岳を駆け抜けた、松尾鉱業鉄道の先進技術
したがって、当時の松尾鉱業鉄道では、まさに規格外とも言えるような急な坂道を力強く登り降りできるよう、当時の他の国鉄幹線の花形車両にも決して引けを取らないような、高性能かつ最新鋭の電気機関車や電車が次々と導入されたのでした。
このことから、国や企業が「いかに力を入れて、硫黄をたくさん採った上で大きな利益を上げようとした」のかがよくわかりますね。
それぐらい、国のとてつもない投資のやりよう・意気込みです。
急な坂道が多かった理由

カーブを多くして距離を稼ぐよりも、急勾配にしてでも距離を短くし、強力な機関車で対応してきた松尾鉱業鉄道(画像はあくまでAIによるイメージです。)
松尾鉱業鉄道は、北上盆地の平坦部に位置する大更駅から、八幡平中腹の標高約千メートルに迫る鉱山都市まで一気に駆け登る山岳路線でした。
すなわち、限られた(少ない)走行距離の中で、極めて大きな標高差を克服する必要があったため、最大33パーミルに及ぶ連続急勾配が連続し(鉄道は坂道に弱いので、これは列車にとっては苦しい非常に急な坂です)、鉄道工学上も極めて過酷な登坂ルートを敷設せざるを得なかったのでした。
そのため、むしろループ線やスイッチバックを大掛かりに造るよりも、最新の強力な電気機関車を投入して最短距離で直登させたほうが、建設コストや輸送効率の面で圧倒的に有利だったわけですね。
標高1,000メートルの近代都市「雲上の楽園」

かつて「雲上の楽園」と呼ばれた松尾鉱山(画像はあくまでAIによるイメージです。)
山の上にあった鉱山町は、水洗トイレやセントラルヒーティングを備えた鉄筋コンクリートのアパート群が建ち並び、まさに「雲上の楽園」と呼ばれていたわけです。
これは戦前の日本ではかなり贅沢・豪華な水準ともいえるような町並みでした。
その大都会のような生活を物資面から支え、山を降りる家族や学生、さらには八幡平へ向かう観光客を運び続けたのが、まさしくこの鉄道だったのでした。
山奥の単なる小さな私鉄とは思えないほど、ハイカラで誇らしげな電車が毎日行き交っていたなんて、本当にワクワクしますね!
松尾鉱業鉄道を襲った時代の波と廃線の真実
エネルギー革命と、硫黄需要の衰退
しかしながら、時代の流れとともに大きな転機が訪れることになります。
石油精製と副産物としての硫黄の誕生
1960年代に入ると、石油を精製する際において副産物として、安価な硫黄が大量に作られるようになったのでした。
特に三重県の四日市ぜんそくを克服するための安全な石油精制作業において、副産物である硫黄が大量に手に入るようになったのでした。
副産物とは?
ある主たる製品を作るときに、意図せず一緒にできてしまう、別の物質や品物のことをいいます。
これは、あくまでも本来望んでいない副産物としての硫黄でしたが、余ってゴミとして捨てるよりも、むしろどこか必要としてくれる人や工場や企業などが買ってくれるのであれば、(硫黄を)売ってしまって利益にした方が良かったのでした。
工業化の進展と、天然硫黄鉱山の経営悪化
こうした石油精制作業による硫黄がたくさん工業的に作られるようになったことで、その影響によって松尾鉱山からの自然の鉱石から採る硫黄の需要が激減し、鉱山の経営は急速に悪化してしまいました。
というのも、鉱山での作業は普通に危険も多く、常に事故と背中合わせな作業なので(だからこそ給料も高かった)、「工場で簡単に手に入るの」だったらそんなコストやリスクをかける必要すら無くなっていたのでした。
時代の波に抗えず、閉山へと追い込まれた松尾鉱山
ついに1969年(昭和44年)に、松尾鉱山は事実上の倒産に追い込まれ、大規模な採掘を停止してしまったというわけです。
つまり、時代の波には逆らえなかったというわけですね。
「北の軍艦島」として残る、雲上の廃墟群
すなわち、運ぶべき主役だった硫黄がなくなってしまい、山から大勢の住民も去っていき、今でもその当時の建物群が残されているため、まるで廃墟のようになってしまっているわけです。

松尾鉱山跡のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
雲の中に浮かぶ廃墟群は現在でもとても圧巻で、「北の軍艦島」とまで呼ばれるほどの聖地となり、廃墟マニアの心をひき付けています。
軍艦島:長崎県にある端島の通称で、炭鉱都市の巨大な廃墟アパート群が残る島です。

長崎県・軍艦島のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
公害対策が生んだ副生硫黄と、松尾鉱業鉄道への影響
四日市ぜんそくの教訓と、大気汚染防止法の制定
1950年代から60年代にかけての高度経済成長期に深刻化した公害として知られる「四日市ぜんそく」は、当時石炭に代わる新たなエネルギーとして注目されまくっていた石油を作るための石油コンビナートが排出する、亜硫酸ガスが主因でした。
この対策として、国は大気汚染防止法を制定し、石油精製(つまり海外から輸入されてきた自然の原油から不純物を取り除く作業)の時に、純粋な硫黄分だけを除去する「重油脱硫装置」の導入を義務付けました。
副生硫黄の台頭と、天然硫黄の価格崩壊
この公害対策によって生まれた副生硫黄が、大量にしかも極めて安価に市場へ出回ることとなり、硫黄を欲しているような工場や会社たちはみんなこぞって、そちらの安い方を買うようになりました。
このことによって、松尾鉱山をはじめとするような天然硫黄鉱山の価格競争力を、完全に奪い去ってしまったのでした。
福島県の沼尻鉄道も同じ運命を辿ったのか
また、一方で同じ東北地方にある福島県の安達太良山山麓でも、かつて硫黄輸送を担っていた沼尻鉄道(日本硫黄沼尻鉄道部)があり、こちらも全く同じような過酷な運命を辿りました。

かつての沼尻鉄道のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
すなわち、先程にも述べた(四日市ぜんそく等の反省から生まれた)石油脱硫による安価な副生硫黄の台頭によって、硫黄鉱山の(一生懸命に人々が危険をおかしてまで掘り出した)硫黄が全く売れなくなって、壊滅的打撃を受けてしまいました。
そして、沼尻鉄道においては主力の貨物輸送が激減してしまいました。
観光輸送への転換と、全国の硫黄鉄道の終焉
こうして、福島県の沼尻鉄道では(列車で)運んで売るための硫黄がそもそもなくなってしまったため、沿線の温泉観光輸送(観光客のお客さんから運賃をいただくこと)で、なんとか延命を図っていたのでした。
しかし、それでもやはり失ってしまった過去の硫黄輸送需要の減少分はあまりにも大きく、やがて経営は立ち行かなくなり、松尾鉱山(1969年に作業停止)と運命を共にするかのように、沼尻鉄道は1969年に運行休止、廃止へと追い込まれてしまいました。
もちろん、これは松尾鉱業鉄道や沼尻鉄道だけに限った話ではなく、北海道や東北をはじめとする全国各地の硫黄山を支えた鉱山鉄道・専用線すべてに共通する時代の結末だったわけですね。
沼尻鉄道については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

松尾鉱業鉄道の終焉と、今に残る記憶
鉱山の閉山と、全線廃止の結末
このようにして、福島県の沼尻鉄道(1969年廃止)と同じように松尾鉱業鉄道はその存在意義を急速に失い、残された旅客輸送などをなんとか懸命に続けたものの、1972年(昭和47年)において全線が廃止となってしまったのでした。
こうして、かつて人々を運んだ電車や電気機関車の一部は、同じくセメント輸送で知られる埼玉県の秩父鉄道(旧秩父セメント系列)や青森県の弘南鉄道などへ引き取られてゆきました。
今も語り継がれる、誇り高き鉄道の記憶
現代の状況では、線路跡や駅の面影はほとんど自然に還ってしまっています。

松尾鉱山跡のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
しかしながら、かつて日本の近代化とエネルギー産業を縁の下で支え抜いた誇り高き鉄道として、今も多くの鉄道ファンの心に刻まれているわけです。

おわりに・まとめ

かつての松尾鉱業鉄道(画像はあくまでAIによるイメージです。)
かつては「雲上の楽園」と称された標高1,000メートルの近代鉱山都市と、東洋一の硫黄産出量を誇った松尾鉱山を支え抜いた松尾鉱業鉄道。
急勾配をものともせず駆け抜けた最新鋭の電車や電気機関車は、日本の高度成長期を切り拓いた先人たちの情熱の証拠そのものであるわけです。
このように、時代の荒波の中で姿を消すこととなった幻の高原鉄道の軌跡について、ぜひ思いを馳せてみてくださいね!
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