【愛知・岐阜】玉野峡谷・古虎渓の地理・歴史を、わかりやすく解説!(前編)

玉野峡谷・古虎渓の観光・歴史、さらには愛岐トンネル群や土岐川(庄内川)から栄えた交通・鉄道の歴史などをわかりやすく解説してゆきます!

明治時代の古虎渓・玉野峡谷・愛岐トンネル群(画像はあくまでAIによるイメージです。史実とは異なる描写がある可能性がありますので、ご了承ください。)

明治時代の古虎渓・玉野峡谷・愛岐トンネル群(画像はあくまでAIによるイメージです。史実とは異なる描写がある可能性がありますので、ご了承ください。)

玉野信号所、定光寺駅、そして庄内川

自然と鉄道が織りなす「愛知の秘境」の魅力

玉野峡谷・古虎渓の景色(愛知県・岐阜県)

玉野峡谷・古虎渓の景色(愛知県・岐阜県)

名古屋から中央本線(中央西線)で、約30分。
そこに突然として現れる、

  • 高蔵寺駅こうぞうじえき(愛知県春日井市)
  • 多治見駅たじみえき(岐阜県多治見市)

の間にある、美しい峡谷区間。

ここはちょうど愛知県と岐阜県の県境にあたり、

  • 玉野信号所たまのしんごうじょの跡
  • 定光寺駅じょうこうじえき(愛知県春日井市)
  • 古虎渓駅ここけいえき(岐阜県多治見市)
  • そして庄内川しょうないがわ(土岐川ときがわ)

といった、様々な歴史的重要ポイントが存在しています。
このエリアは、名古屋からわずか30分ほどとは思えないほど、ダイナミックな歴史と自然が詰まっていて、本当にワクワクしますね!

明治時代の古虎渓・玉野峡谷・愛岐トンネル群(画像はあくまでAIによるイメージです。)

明治時代の古虎渓・玉野峡谷・愛岐トンネル群(画像はあくまでAIによるイメージです。)

多治見駅については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

中央線鉄道唱歌 第64番 多治見へ到着!虎渓山永保寺、美濃焼、そしてアニメの聖地
中央線鉄道唱歌の歌詞を(多治見の観光・歴史について)、初心者の方にも、わかりやすく解説してゆきます!↓まずは原文から!多治見たじみに下車げしゃの旅人たびびとは土岐ときの川邊かわべの虎こ溪山けいざん東濃とうのう一いちの勝しょう境きょうに杖つえ...

高蔵寺駅については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

中央線鉄道唱歌 第65番 古虎渓を過ぎ、高蔵寺へ 陶器に名高い瀬戸市もすくそばに
中央線鉄道唱歌の歌詞(古虎渓・玉野町・高蔵寺駅など)について、鉄道に詳しくない方にもわかりやすく解説してゆきます!↓まずは原文から!玉野河原たまのかわらの山水さんすいをめでつゝゆけば高藏寺こうぞうじ陶器とうきに名高き瀬戸町せとまちはこゝより...

庄内川(土岐川)が作った「玉野渓谷」の美しさ

玉野峡谷・古虎渓の景色(愛知県・岐阜県)

玉野峡谷・古虎渓の景色(愛知県・岐阜県)

まずは、この場所の主役である庄内川しょうないがわ(土岐川ときがわ)についてです。

愛知県では「庄内川」、岐阜県では「土岐川」

古虎渓と定光寺の間には、愛知県と岐阜県という、明確な県境があります。
この付近を流れる川は、

  • 愛知県側では庄内川しょうないがわ
  • 岐阜県側では土岐川ときがわ

と名前を変えます。

愛知県川では「庄内川」、岐阜県側では「土岐川」。(画像はAIによるイメージです)

愛知県川では「庄内川」、岐阜県側では「土岐川」。(画像はAIによるイメージです)

つまり、県によって川の名前が変わるわけであり、このように県ごとに名前が異なる川は全国各地に他にいくつも存在します。

美しい景観を誇る、玉野峡谷(古虎渓)

明治時代の古虎渓・玉野峡谷・愛岐トンネル群(画像はAIによるイメージです)

このあたりは玉野渓谷たまのけいこく(岐阜県側では古虎渓ここけい)と呼ばれ、険しい岩場を川が流れるといった、まさしく景勝地けいしょうちになっています。

景勝地けいしょうち:景色が特に優れている場所や、眺めの良い土地のことをいいます。

玉野峡谷・古虎渓の交通(水運・鉄道など)の歴史

明治時代における、玉野峡谷(古虎渓)をつらぬく鉄道敷設工事

庄内川が教えてくれた「最短ルート」

まず、明治時代に中央本線がはじめて開通したときには、まさにこの険しい峡谷のルートを通るしかなかったのでした。
というのも、名古屋から多治見に至るまでには、どうしても険しい山岳地帯を越えなければならない地形にあるからです。

そのために、

  • 「どれだけマシなルートを選択できたか」
  • 「当時の技術で、どれだけ負担なく線路を工事できるか」

というのがとにかく重要視されたのです。

明治時代の愛岐トンネル群・古虎渓・玉野峡谷(画像はあくまでAIによるイメージです)

明治時代の愛岐トンネル群・古虎渓・玉野峡谷(画像はあくまでAIによるイメージです)

明治時代は、この険しい峡谷に線路を作るしかなかった

そこで、なんとか選ばれたルートが、この庄内川の流れ(と峡谷が作るわずかな平地)に沿ったルートが選ばれた(というか、それしかなかった)というわけです。

というのも、当時の蒸気機関車は坂道にとても弱かったため、なるべく平坦な場所を探しながら線路を敷いていくという必要があったわけです。

明治時代の愛岐トンネル群・古虎渓・玉野峡谷(画像はあくまでAIによるイメージです)

明治時代の愛岐トンネル群・古虎渓・玉野峡谷(画像はあくまでAIによるイメージです)

川沿いの曲がりくねった線路、細切れに沢山作られたトンネルの数々

したがって、このように

  • 川が曲がれば、線路も曲がることを余儀なくされる
  • 山が目の前に迫ってくれば、その「山の先っぽ」だけを削って、トンネルを掘る

といった具合で、当時はこのように、まるで地形をなぞるように走るしかなかったというわけです。

リニア中央新幹線が出来れば、名古屋~多治見の区間は「まっすぐな長大トンネル」で貫くことになるんでしょうね。

未来のリニアモーターカー(画像はAIによるイメージです)

しかしながら、当時としては「河原沿い」にあちこち曲がった線路を引いてゆき、しかも細切こまぎれに何個も何個も短いトンネルをたくさん掘るしかなかったのです(それが後述する「愛岐あいぎトンネル群」となるわけです)。

当時、川は「天然の設計図」だった

また、当然ですが水は高いところから低いところへ、最も効率の良いルートを通って流れてゆきます。

このように、庄内川が長い年月をかけて削り取ってくれた(人間が開削するまでもなかった)、深い谷である玉野渓谷に存在していたわずかな平地は、明治時代の当時からすれば鉄道を通すための「唯一の正解」だったというわけです。

明治時代の愛岐トンネル群・古虎渓・玉野峡谷(画像はあくまでAIによるイメージです)

明治時代の愛岐トンネル群・古虎渓・玉野峡谷(画像はあくまでAIによるイメージです)

崖っぷちでの、過酷な工事と線路敷設

しかし、その「わずかな平地」さえも、明治時代の当時においては、鉄道を通すにはあまりにも狭すぎました。
そこで仕方なく、わざわざ川沿いの崖を削ったり、小さなトンネルを連続させたりして(これがいわゆる愛岐トンネル群となる)、まるで針に糸を通すかのような感覚で、崖っぷちに無理やり線路を敷いていくような形になったというわけです。

明治時代の鉄道建設のイメージ(画像はAIによるイメージです)

定光寺駅が崖に張り付いているように建てられているのは、その時の人々による「苦労の跡」そのものというわけですよ!

1960年代に、よりまっすぐな「新線」が作られた(玉野峡谷・古虎渓)

もちろんこのような狭い線路だと、「特急しなの」などの特急列車を通すにはスピードにも影響が出てしまいます。
そのために1960年代、線路を新しく、まっすぐかつ長大トンネルに作り直して、現代に至るわけです。

そして後述しますが、古くから存在していた明治時代の線路はそのまま放置されてしまい、なんと約40年間も忘れ去られてしまっていたのでした。

休憩用画像:ワンちゃんたちに癒されましょう(画像はAIによるイメージです)

明治時代、従来の「水運」と、新たに登場した「鉄道」のライバル物語

江戸時代までの「船」との競合

かつて江戸時代くらいには、土岐川・庄内川においては美濃みの(岐阜県)の名物である陶器とうきや、さらには薪まきなどをたくさん運ぶという、舟が活躍していました。
昔は貨物列車も高速トラックも存在しなかったため、舟で大量の荷物を運ぶのが最も効率が良かったのです。

江戸時代の水運(画像はAIによるイメージです)

しかし、明治時代になってから鉄道ができると、それまで舟で荷物運びをしていた人たちにとっては、自分たちの仕事が奪われることになってしまいます。
そのため、それまで舟を仕事・職業にしていた船頭せんどうさんたちを中心に、鉄道敷設に対する強い反対運動が起きたと言われています。

明治時代の河川に沿って走る蒸気機関車(画像はあくまでAIによるイメージです。)

ちなみに、こうした鉄道に対する水運の「反対運動」は、決してここ(土岐川・庄内川)だけに限った話ではなく、わりと当時は全国各地で「あるある」な話でした。

鉄道(中央本線)が出来るまでは、川と舟がメインルートだった

江戸時代から明治初期にかけて、庄内川(土岐川)はまさに「焼き物物流のメインハイウェイ」でした。

名古屋への輸送

かつて多治見などといった岐阜県東部の地域(=焼き物王国)において作られた美濃焼みのやきは、「切船きりぶね」とよばれる、舟の底が浅い特殊な舟にたくさん積まれてゆきました。
そして川の流れに乗って、定光寺や玉野の険しい峡谷の激流を命がけで下ってゆき、「商品」たる焼き物たちは、やがて名古屋の城下町へと運ばれていったというわけです。

美濃焼(画像はあくまでAIによるイメージです。)

そしてそこからさらに、海を渡ってはるか東の江戸(東京)まで届けられました。
こうして「焼き物」が各地で売れることによって、陶器を作る職人さんたち、あるいは舟で運ぶ人たちの貴重な利益・収入源になっていったわけです。

信州(長野方面)への道は?

一方で、反対側の信州(長野県)方面へは川を逆に(上に)遡さかのぼっていくのが難しいため、主に「馬の背中」に乗せて運ぶという「陸路」が使われました。
つまり、中山道なかせんどうという当時としては最も進んだ(けど険しい)山道を通って運ばれていったわけです。

中山道・木曽路のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)

中山道については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

【江戸時代の中山道とは?】東海道との違いや、ルート・歴史エピソードを徹底解説!
江戸時代の「中山道」について、東京から京都までのルートや東海道との違い、強み、様々な歴史エピソードまで、わかりやすく解説してゆきます!本記事の画像は、あくまでAIによるイメージです。実際の景色・人物等とは無関係であり、また史実とは異なる描写...

しかし、その帰り道には信州(長野)の特産品を積んで戻ってくることもあったようでした。

鉄道による、役割の世代交代

明治時代の1900年に中央本線が開通すると、従来の舟を使った水運は一気に鉄道へと取って代わられました。

それまでの主役だった舟もさすがに時代の流れには抗あらがえずに、鉄道によって代替されてしまうことになったわけです。

玉野峡谷・古虎渓の地理に関する話題

中央本線の秘境・定光寺駅じょうこうじえきや古虎渓ここけい、玉野峡谷たまのきょうこくは、庄内川しょうないがわが削った険しい峡谷美きょうこくびと歴史が残る名勝めいしょうです。
崖上に佇む定光寺駅は、かつて列車が行き違う玉野信号所たまのしんごうじょから昇格した歴史を持ちます。

また、周辺に残る旧線の「愛岐あいぎトンネル群」には、地元・瀬戸焼せとやきや美濃焼みのやきの職人技と良質りょうしつな粘土を活かした堅牢けんろうな赤レンガが使われました。
普段は立ち入り禁止ですが、春と秋の年2回だけ特別公開され、多くの鉄道ファンを魅了しています。

詳しくは次回解説します。

今回はここまで 続きは次回

おわりに:今回は、玉野峡谷と古虎渓が誇る自然美や、川に寄り添うように鉄道が切り開かれた歴史、そして水運から鉄道へのドラマチックな主役交代の歴史をお届けしました。

次回は、赤レンガに込められた職人たちの息吹、さらに定光寺駅・玉野峡谷・古虎渓の秘境エピソードなどを詳しくお届けしますので、ぜひ楽しみにしていてくださいね!

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