激しい不要論や猛烈な反対の中、夢の超特急として実現された東海道新幹線。開業までの苦難と技術的挑戦の歴史を、わかりやすく解説します!

(画像はAIによるイメージです。実際の景色・車両等ではありませんので、ご了承ください。)
東海道新幹線の歴史
東海道新幹線とは?
世界に誇る日本の大動脈である東海道新幹線とは、東京オリンピックが開催された記念すべき年である1964年に開通した、日本初にして世界初の高速鉄道だというわけです。
すなわち、戦後の日本の目覚ましい高度経済成長期を力強く支える、まさに日本の復興と大発展の歴史にふさわしい輝かしいシンボルとなったというわけです。
開業までの背景と苦難
1950年代の日本は、急激な経済発展で鉄道輸送能力が限界に達していました。
既存の在来線だけでは、大動脈である東京ー大阪間の輸送がパンクしそうだったのでした。
したがって、当時の国鉄は「広軌(標準軌)」という、幅の広い線路を使った新しい路線の建設を決めました。
弾丸列車計画という戦前の幻
しかし、
- この新幹線はゼロから突然生まれたわけではなく、
- もともとは太平洋戦争中に国が進めていた「弾丸列車」という、幻の超高速鉄道計画の構想から始まっていた
というわけです。
現在走っている東海道新幹線の線路の大部分は、実はこの戦前の弾丸列車用の線路を通すために、国によって強制的に買い上げられた土地だったというわけです。
戦争による中断と戦後の奇跡
したがって、戦争が激化したことにより工事は一度完全に中断してしまったものの、その時に強制的に買い上げられた線路の土地やトンネルなどの広大な敷地が、戦後になって東海道新幹線を建設する際に、見事に活かされていくことになったのでした。

1960年代の東海道新幹線の建設(画像はあくまでAIによるイメージです。)
すなわち、この戦前の遺産があったからこそ、戦後わずか19年という驚異的なスピードで工事を完了させて、開業までこぎつけることができたのでした。
時速200キロを超える異次元の足
当時の世界から見れば、まさに技術の奇跡とも言える偉業だったというわけです。
開通当時は時速200kmという、世界の鉄道の常識を覆すような画期的なスピードを誇り、当初は東京〜新大阪間を約4時間で結ぶことになりました。
そして翌年には、技術の安定によってわずか3時間10分で結ぶことになり、日本中から「夢の超特急」と絶賛され親しまれることになったというわけです。
初代0系新幹線が残した伝説
したがって、この「夢の超特急」として世界中にその名をとどろかせた丸い鼻が特徴の初代「0系新幹線」は、日本の高度成長期を最前線で走り続けました。
そして、多くの人々に愛され惜しまれながらも、2008年にすべての定期運行から完全に引退することになったのでした。
このように、東海道新幹線のレールには、戦前から平成にいたるまでの日本の汗と涙の歴史がギッシリと詰まっているというわけですね。
当初、不要論があった東海道新幹線
今でこそ「日本の誇り」である新幹線ですが、開業前はまさに「反対と懐疑の嵐」の中にありました。
「税金の無駄遣いだ!」などと批判されるほど、手厳しい批判を受けていた時期があったのですよ。

(画像はAIによるイメージです。実際の景色・車両等ではありませんので、ご了承ください。)
したがって、当時の世間がどのように新幹線を見ていたのか、その意外な裏側についてまとめました。
「鉄道はオワコンだ」「税金の無駄遣いだ」などという不名誉な批判
当時は
- 「鉄道はもはやオワコンだ」
- 「これからは自動車と航空機の時代だ」
- 「新幹線なんて時代遅れだ、税金の無駄遣いだ」
などのように、東海道新幹線の開通にはかなり懐疑的な意見があったのでした。
そして、実際に新幹線計画が持ち上がったときには、批判的な人々はこう言ったのでした。
「新幹線はもはや時代遅れだ」
例えば、
- 「莫大な予算をつぎ込んでも、完成する頃には時代遅れになってしまい、役には立たないだろう」
という感じで揶揄されてしまったのでした。
「鉄道はもう古い」という空気
当時はアメリカを中心に「これからは飛行機と自動車の時代(モータリゼーション)だ」という考えが主流となっていました。
モータリゼーション:自家用車が普及し、人々の生活が自動車中心に変わっていく現象のことです。
1960年代、世界中で「鉄道は終わった」というような空気になりはじめていたのでした。
実際に日本でもこの頃には自動車が普及しだして、各地のローカル線から順番に鉄道は利用されなくなり、廃線となる路線も増えていくような時代でした。
そのため、こうした世の中にあって、新幹線の建設に関しては、
と思われていたというわけですね。
猛烈な反対意見の理由:東海道新幹線
批判の内容は、今の私たちからすると驚くようなものばかりでした。
「税金の無駄遣い」
東海道新幹線は、その建設費が当初の予算を大幅に超えて膨れ上がったため、まるで「国を滅ぼすプロジェクトだ」とまで叩かれたのでした。
「スピードが危険すぎる」
そもそも時速200km以上で走るなんて技術的に不可能だし、もし事故が起きたら大惨事になると恐れられていたのでした。
- 「(そんな怖い乗り物に)誰も乗らない」
- 「そんなに速く移動してどうするんだ?」
- 「高い運賃を払ってまで、わざわざ乗る人はいない」
という、様々に冷ややかな意見も多かったというわけです。
批判を跳ね返した「十河信二」と「島秀雄」
このような、現代の我々の価値観からしたらありえないような逆風の中で、なんとか新幹線を実現させたのが、当時の国鉄総裁・十河信二と、技術者の島秀雄です。
十河総裁の覚悟
彼は国会で批判を浴びながらも、なんと(新幹線建設の)予算を通すために、あえて建設費を低めに見積もって報告するという、まるで「確信犯」的な行動までとりました(彼は後にその責任を取って、開業式には呼ばれませんでした)。
- 十河信二:「新幹線の父」と呼ばれる、第4代国鉄総裁です。
すなわち、上記のような彼の強引とも言えるリーダーシップがなければ、東海道新幹線は誕生していなかったかもしれません。 - 島秀雄:新幹線の設計を指揮した天才技術者です。
戦前の「弾丸列車計画」の技術を継承し、世界一の安全性を誇る新幹線の基礎を築きました。
歴史の皮肉「大バズリ」
そして、開業してみれば「大バズリ」。1964年10月に東海道新幹線が見事に開通すると、とにかく満員の乗客を乗せて、いわば大ヒットになったのでした。
この東海道新幹線の大ヒットを受けて、まるで手のひらを返したように日本中が熱狂し、新幹線は「奇跡の乗り物」として、世界中から絶賛されることになったのでした。
個人的な感想 「批判」という逆境に立ち向かった覚悟
こうしたことから、もしも当時のリーダーたちが批判に負けてしまって「やっぱりやめよう」と言っていたら、今の日本の風景は全く違うものになっていたはずですね。
いつの時代も、新しいことを始める時には、必ずと言っていいほど「無駄だ」という声が上がります。
しかし、それを突き抜けた情熱があったからこそ、現在の便利な新幹線があると思うと、とても興味深い話になりますね!
東海道新幹線ができるまでのストーリー
時速200kmの衝撃とブレーキの逆転発想

1960年代の東海道新幹線の建設(画像はあくまでAIによるイメージです。)
当時の日本の技術者たちは、世界を驚かせる超高速列車の開発に挑んでいました。
しかし、ここに「超高速鉄道」であるがゆえの、大きな壁が立ちはだかります。
それは、
- 時速200kmで走ることはできても、緊急時にすぐ止める手段がない
ということでした。
たとえブレーキをかけても、止まるまでに、なんと数キロメートルも先に進んでしまうというわけです。
普通の線路では、「踏切での立ち往生」や「人の立ち入り」などがあれば、大惨事を避けられません。

1960年代の東海道新幹線の建設(画像はあくまでAIによるイメージです。)
そこで技術者たちは、素晴らしい逆転の発想をしました。
したがって、すべての線路を高い場所に通す「高架方式」が採用されたのでした。
高架方式:地面より高い場所に橋などを組んで線路を敷く方法)

高架の上を走る新幹線の例(画像はあくまでAIによるイメージです。)
このようにして、新幹線においては踏切を一つも作らず、人や車が絶対に進入できないという完全に守られた世界を作り上げました。
さらに、新幹線の線路への立ち入りは法律で厳重に禁止されることになり、安全性が究極まで高められたのでした。

新幹線の線路の例(画像はあくまでAIによるイメージです。)
難所「新丹那トンネル」をわずか4年で突破
もう一つの奇跡は、熱海と三島の間にある新丹那トンネルの建設でした。
新丹那トンネル:静岡県にある東海道新幹線の重要なトンネルのことです。
かつて戦前の1918年から1934年の間、在来線のトンネルを掘ったときは、大量の湧水と崩落に苦しめられることとなり、完成までに実に16年もの歳月がかかったという、超難所です。
しかし、新幹線の建設チームは最新の技術と、不眠不休の凄まじい執念で立ち向かいました。

丹那トンネルの真上にある「丹那盆地(静岡県東部)」。かつてはトンネルの地下水を無理に吸い上げて、盆地の農業用水が干上がってしまうという悲劇も起こった(画像はあくまでAIによるイメージです。実物・実際の景色ではありません)
このように、技術の進歩と人々の想いが一つになった結果、なんとわずか4年という驚異的なスピードで完成させてしまったのです!
新旦那トンネルが貫通したその瞬間、現場にいた全員が万歳をして、涙を流しながら喜び合いました。
すなわち、この瞬間に、不可能と言われた夢の超特急が、現実へと大きく近づいたのですね!
1964年10月・夢の超特急が旅立つ
そして、ついに運命の時が訪れます。
1964年10月1日、東京オリンピックの開幕を直前に控えた建国の大プロジェクトが実を結びました。
東京駅のホームは、熱気と興奮に包まれていました。
午前6時ちょうど、満員の乗客を乗せた白い車体に青いラインのひかり1号が、静かに、しかし力強く新大阪に向けて出発しました。
世界初の高速鉄道が誕生したこの瞬間は、日本の復興と未来への希望を乗せて走る、まさに伝説の始まりだったというわけです。
これほどドラマチックな挑戦の歴史を知ると、いま何気なく乗っている新幹線への感謝と感動が湧き上がってきますね!
その他、東海道新幹線の仕様をめぐる歴史など
東海道新幹線の走行には、当時の国鉄の技術者たちが「時速200km以上で走る」という(当時としてはありえないほどの)高い目標を達成するために下した、様々な深い決断がありました。
まず、レール幅の広い「広軌(標準軌)」にしたのは、
- かつて明治時代に、日本列島はカーブが多いからと理由で採用したという、いわゆる狭軌の事情とは異なり、
- なるべく直線を大きく確保し、
- 時速200kmの高速運転することを前提とした
からです。

新幹線の線路の例(画像はあくまでAIによるイメージです。)
なぜ「広軌(標準軌)」を選んだのか
明治時代に日本の鉄道においてレール 幅の狭い狭軌を採用したのは、山岳地帯やカーブの多い独特の日本の地形に合わせ、またコストを抑えて、全国に早く鉄道網を広げるためでした。
- 狭軌:線路の幅が1,067mmのもの。日本の在来線の多くがこの規格です。
小回りが利くため、カーブに強いというメリットがあります。
しかし、高速運転には不向きです。 - 広軌はより広い幅で、新幹線がブレずに高速で安全に走るために採用されました。
一般的には「標準軌」と呼ばれます。
しかし、例えば新幹線のように時速200kmを超える高速運転となると、話は別です。
直線の確保のため
例えば、山岳地帯の多い独特の地形を持つ日本列島のようにカーブが多い線路で、無理に時速200kmのような高速走行すると、遠心力で列車が脱線する危険があります。
そこで新幹線は、可能な限り直線に近いルートを設計し、その上でなるべくカーブを緩やかにすることで、高速でも安全に曲がれるようにしました。
車両の安定性のため
また、レール・線路の幅が広いと、車体を支える土台が安定します。
そのため、高速運転の際に大きな揺れを抑え、時速200kmもの高速でも安定して走れるようになるというわけです。
したがって、新幹線にとって広軌は、高速安全走行のための「大前提」だったというけですね!

新幹線の線路・トンネルの例(画像はあくまでAIによるイメージです。)
新幹線が交流電化を採用した理由
交流電化も、新幹線の高速運転を実現するための大きな理由がありました。
交流電化:方向が周期的に変わる電気(交流)を鉄道の動力として使うこと。
一度に高い電圧で送れるため、遠くまで効率よく電力を送ることができます。
直流・交流とは何か?については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

送電の効率化のため
まず、交流電化は、はじめから高い電圧で電気を送れるため(そもそも変圧器を搭載しているため、自在に電圧を低くしたりできる)、変電所の数を減らせるというメリットがあるわけです。

変電所の例。交流電化だと、この変電所の数を減らせるメリットがある(画像はあくまでAIによるイメージです。)
高速走行に必要な電力を確保するため
また、高速で走り続けるためには、たくさんのエネルギーが必要です。
そこで交流電化ならば、大電力を安定して車両に送り込めるため、時速200km以上の走行が現実的になったというわけです。
すなわち、交流電化こそが、新幹線のスピードを支える「力強い心臓部」だったのですね!
富士川で50Hzと60Hzを分けた苦悩

富士川(静岡県)。この川を境に、東西で 50hzと60hz の周波数にそれぞれ分かれる。
また東海道新幹線の電気の供給にあたっては、明治時代に(主に静岡県あたりを流れる)富士川において、交流電化の周波数を50Hzと60Hzにそれぞれ分けてしまったことによる、大きな苦悩がありました。
- Hz(ヘルツ):電気の周波数。
1秒間に電流が流れる方向が何回入れ替わるかを表す単位です。 - 周波数:電気の波の数のこと。
この数値が地域によって異なるため、日本には50ヘルツと60ヘルツの地域があるというわけです。
歴史的な周波数の境界線
というのも、電気が日本でもつき始めた明治時代に、
- 東京側は、ドイツ製の発電機(50Hz)
- 大阪側は、アメリカ製の発電機(60Hz)
をそれぞれ輸入したため、日本は富士川を境界線にして、周波数が二つに分かれてしまったのでした。
技術的な難しさを克服
このことが原因となってしまって、日本で初めて新幹線を走らせるにあたって、電気の周波数が変わる地点で車両をスムーズに切り替えるのは、当時としては非常に高度な技術を要しました。
当時の技術者たちは、「なんでこんな場所で周波数が違うんだよ!」って思ったことでしょうね!
- 「もしここが完全に統一されていれば、どんなに楽だったことか…」
と、当時の技術者たちも頭を抱えたはずです。
しかし、彼らは「周波数変換装置」などの技術を磨き、この問題を克服して、夢の超特急を走らせました。
すなわち富士川より東側の東京側でも60hzで対応できるように、うまく変換できるようにしたのでした。
このような過去の苦労があったからこそ、私たちは今、快適な新幹線に乗れているというわけですね!
歴史の背景に、これほど緻密な計算と熱意が隠されていたなんて、本当に驚きですね!
おわりに・まとめ
日本の大動脈である東海道新幹線の誕生に隠された、熱い人間ドラマと技術者たちの挑戦、いかがでしたか?
今では当たり前のように時速200km以上で走る新幹線ですが、かつては「そんなもの作っても仕方がない」と批判されるほどの凄まじい逆境から始まったというわけですね!
また、富士川を境にした50Hzと60Hzの周波数の違いを乗り越えた苦悩や、ブレーキの逆転発想もありました。
先人たちが「安全」と「スピード」のために積み重ねた覚悟と知恵があるからこそ、今の私たちの便利な移動が支えられているのだと改めて実感します。
ぜひ、次に東海道新幹線に乗って富士山を眺める際は、この日本の奇跡を成し遂げた人々の熱い想いに、そっと耳を傾けてみてくださいね!
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