【白米の歴史】なぜ昔は贅沢品だった?江戸の脚気や稲作の進化を徹底的に解説!

真っ白なご飯は、かつては超高級品でした。
なぜ贅沢品だったのか?脚気とは?白米が日本の歴史に与えた影響を、やさしく解説してゆきます!

かつては「贅沢品」だった白米。今回はその歴史について語ってゆきます!!(画像はあくまでAIによるイメージです。)

白米の歴史

お米の食事のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)

お米の始まり:最初は赤かった?

日本の食卓に欠かせない白米ですが、昔から今のような真っ白なご飯だったわけではありません。
縄文時代弥生時代に伝わった最初のお米は、実は赤米や黒米といった古代米が中心でした。

現代の酵素玄米(画像はAIによるイメージです)

したがって、当時はカラフルなご飯が主流だった、というわけですね!
いわゆる玄米の状態で食べられていたため、今よりもずっと硬く、ボソボソとした食感でした。

しかし、神事などではこの赤いお米が神聖視されていました。
これが、現代のお祝い事で食べる「赤飯」のルーツと言われています。

貴族のステータス:白米は超高級品!

平安時代になると、お米を精米する技術が少しずつ進歩します。
すなわち、現代の白米に近い「強飯こわめし」と呼ばれるものが当時登場したというわけです。

あまりに重労働過ぎた、精米の作業 それだけで白米は贅沢品だった

ただ、白米は信じられないほどの高級品でした。
そもそも、精米の作業が現代と比べ物にならないほど重労働で手間のかかる作業でした。
そのため、それだけの重労働手間をかけさせる(=白米を食べられる)こと自体が、ある意味では特権階級の証でもあったのでした。

江戸時代の白米を食べる武士(画像はあくまでAIによるイメージです。)

江戸時代の白米を食べる武士(画像はあくまでAIによるイメージです。)

そのため、白米というものは、例えば貴族皇族といった一握りの特権階級だけが口にできる、まさにステータスの象徴だったというわけです。

また、一般の庶民は、麦やあわひえといった雑穀に、わずかな玄米を混ぜて食べていました。
すなわち、真っ白に輝くご飯は、当時の人々にとって憧れの的だったに違いありません。

江戸時代の雑穀の例(画像はあくまでAIによるイメージです。)

江戸の病:白米ばかり食べて大ピンチ?

そして、​江戸時代中期になると、流通精米技術が劇的に大発展します。
これによって、江戸の町では庶民でも手軽に白米を食べられるようになりました。

なんと、当時の江戸の人は1日に5合もの白米を食べていたそうです!

江戸に行くと、なぜか脚気にかかる事態に

ところが、ここで大問題が発生します。
おかずをほとんど食べず、白米ばかりをドカ食いしたため、ビタミンB1致命的に不足してしまったのでした。
その結果、足がしびれたり動けなくなったりする「脚気かっけ」という病気が大流行してしまいました。

江戸時代の白米を食べる武士。「脚気にだけはならないで〜」って言いたくなりますよね(^_^;(画像はAIによるイメージです)

江戸時代の白米を食べる武士。「脚気にだけはならないで〜」って言いたくなりますよね(^_^;(画像はAIによるイメージです)

当時は原因が分からず、江戸に行くと病気になり、地方に帰ると治ることから「江戸煩えどわずら」と恐れられていたのでした。
このように、美味しい白米が、まさか健康を脅かす原因になるなんて、なんとも皮肉な歴史ですよね。

脚気かっけビタミンB1が不足することで、手足のしびれやむくみ、ひどい場合には心不全を起こしてしまう病気のことです。

​炊飯の革命:お米の炊き方は「蒸す」から「炊く」へ

昔のお米は、基本的には「蒸して」調理されていました。
しかし、江戸時代に入ると、現代のようにたっぷりの水で「炊く」方法が主流になります。

これにより、お米のデンプンがしっかりアルファ化して、ふっくらモチモチの食感が生まれました。

自動炊飯器の誕生により、白米がより簡単に食べられるように

たとえば「はじめチョロチョロ、なかパッパ」という有名な炊き方のコツも、この時代に編み出された知恵です。
さらに昭和時代になると、日本の家電の歴史を大きく変える大発明が登場することになります。
それが、東京芝浦電気(現在の東芝)が開発した「自動電気炊飯器」です。

すなわち、わずかスイッチ一つで理想的で完璧なご飯が炊けるこの機械は、世のお母さんたちを家事から解放するという、まさしく大革命となりました。
今の美味しいご飯があるのは、先人たちのあくなき「こだわり」のおかげであるというわけですね!

稲作が変えた日本:定住から国家の誕生へ

弥生時代(画像はあくまでAIによるイメージです。)

また、かつて​弥生時代に大陸からお米(稲作)が伝わったことは、日本の形を根本から変える大事件でした。

すなわち、それまでの住む場所を移動して変えながらの狩猟採集生活とは違い、お米作りには同じ場所に住み続ける「定住」が必要になってきたというわけです。

お米作りしやすい場所を巡って、争いが発生

しかし、お米は貯蔵ができる「富」であるため、これが悲劇の始まりでもありました。
すなわち、お米をたくさん持つ者と、持たない者の間で、いわゆる「貧富の差」が生まれてしまったというわけです。

さらに、お米作りに絶対に欠かせない「川沿いや平野(水資源と肥沃な土地)」をめぐって、激しい奪い合いが始まったのでした。
​これが集落同士の戦争、つまり「争いの火種」となったというわけです。

やがて国はバラバラに 各地に「クニ」の誕生

やがて、このように強い集落が弱い集落を吸収してゆき、各地に「クニ」と呼ばれる小さな国家が生まれます。
そして、それらをまとめる「大王(おおきみ・のちの天皇)」や、力を持った、いわゆる「豪族」たちが登場したのでした。
豪族たちの激しい権力争いが続く中、飛鳥時代に聖徳太子(厩戸王)が登場します。

聖徳太子は、天皇を中心とした国づくりを目指す「中央集権国家」への機運をいっきに高めました。

ちなみに​中央集権国家ちゅうおうしゅうけんこっかとは、全国を一つの強力な中心(天皇や政府)が直接支配し、法律や仕組みを一律に適用する国のかたちのことです。
​このバトンを引き継いだのが、大化の改新を経て進められた律令(法律)による国づくりになります。

奈良時代により、ひとまずの国家の完成

​そして奈良時代になり、大宝律令という本格的な法律の完成や、巨大な都である平城京の建設によって、天皇を中心とした国家体制がついに「完成」を迎えたというわけですね!

お米という一つの作物が、日本に国家を誕生させる原動力になったのは本当にダイナミックで面白い歴史です。

崩れる理想:公地公民から荘園へのループ

​奈良時代に完成した中央集権国家の理想は、「すべての土地と民は天皇のもの」とする、いわゆる公地公民こうちこうみんの原則でした。

国に強制的に与えられた土地を耕し、高い税金を納める理不尽な仕組み

すなわち、政府は民にお米を作る土地を分け与え、その代わりにお米を税金として徴収していたというわけです。
しかし、人口が増えるにつれて、分け与える土地が圧倒的に足りなくなってしまいました

さらに、重い税金に耐えかねた農民たちが、自分の土地を捨てて逃げ出すという大問題が発生してしまいます。
これによって政府の収入が激減し、理想のシステムは早くも失敗してしまったのでした。

三世一身の法

​そこで政府は、必死の方向転換を試みます。
まずは

新しく開墾した土地は、3世代にわたって個人所有していいよ

という、いわゆる三世一身さんせいいっしんの法を出しました。

しかし、期限が近づくと農民たちは「どうせ国に没収されるなら」と、再び土地を荒れ放題にしてしまうことになります。

墾田永年私財法

このように、困り果てた政府は、ついに743年に

新しく切り開いた土地は、永久に自分のものにしていい

という、いわゆる墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうを打ち出しました。

墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうとは、自分で新しく切り開いて田んぼにした土地(墾田)は、期限なくずっと自分の財産にしてよいと認めた法律です。

荘園の始まり

​これに目をつけたのが、財力のある貴族大寺院でした。
彼らは貧しい農民を雇い、大規模に土地を切り開いて、自分たちだけの巨大な私有地を作っていくことになります。
これがいわゆる「荘園しょうえん」の始まりです。

平安時代の荘園(画像はあくまでAIによるイメージです。)

やがて中央集権体制の崩壊へ

国が「みんなの土地」と言っていたはずが、気がつけば「貴族の私有地だらけ」になってしまい、せっかく完成した中央集権体制はここから内側から崩壊していくことになります。

良かれと思って出した法律が、皮肉にも国の理想を壊してしまったというわけですね。

​平安貴族のステータス:命を削った「白米」への執着

平安時代真っ白な白米を食べることは、現代の私たちが想像する以上に凄まじいステータスでした。
なぜなら、当時の脱穀精米の作業は、すべて手作業で行うという超絶な「重労働」だったからです。

お米の食事(画像はあくまでAIによるイメージです。)

すなわち、うすに入れた玄米を、重い杵(きね)で何度も何度も気が遠くなるほど突いて、ようやく米ぬかを削ぎ落としていました。
したがって、「白米を食べる」ということは、

  • それだけの重労働を、他人に命令してやらせることができる

という、圧倒的な権力の証明だったというわけです。

お米の精米(画像はあくまでAIによるイメージです。)

​あの藤原道長も、ビタミン不足で脚気に苦しんだ

しかし、この憧れの白米こそが、今度は 逆に貴族たちの身体を蝕んでいくことになります。
当時、権力の絶頂を極め、豪華絢爛な宮廷に住んでいた藤原道長も、その犠牲者の一人でした。

前述の通り、白米ばかりを食べておかずをほとんど摂らない贅沢な食生活は、深刻なビタミンB1不足を引き起こします。

藤原道長は晩年、この「脚気かっけ」による激しい体調不良や足のしびれ、さらには糖尿病(当時は飲水病と呼ばれました)を併発し、目が見えなくなるほどの重病に苦しみました。

すなわち、たとえどんなに権力や富を手に入れても、毎日の白いご飯のせいで健康を害してしまうなんて、当時は誰も思いもしなかった最大の悲劇というわけですね。

​秋田の美のミステリー:あきたこまち・秋田美人・小野小町

​最後に、現代でも大人気のお米「あきたこまち」にまつわる、美しくもマニアックなお話です。

小野小町に由来する、あきたこまち

このお米の名前は、平安時代の超有名で謎多き美女、小野小町おののこまちに由来しています。

小野小町(画像はあくまでAIによるイメージです。)

小野小町は現在の秋田県湯沢市小野の出身であるという伝説があり、これが「秋田美人」の象徴とされてきました。
そこで、1984年に秋田県で新しい美味しいお米が誕生したときに、

  • 秋田ではぐくまれた、小野小町のように末永く愛されるお米になってほしい」

という願いを込めて「あきたこまち」と命名されたのでした。

小野小町については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

【小野小町とは?】絶世の美人とその衰退を、わかりやすく解説!
今回は絶世の美人と言われた小野小町について、その栄華・モテエピソード、そして切ない老衰などについて、わかりやすく解説してゆきます!本記事に掲載している画像は、あくまでAIによるイメージです。実物・史実とは異なる描写がある場合がありますので、...

「秋田美人」と「美味しいお米」の関係性

秋田美人(画像はあくまでAIによるイメージです。)

実は、この「秋田美人」と「美味しいお米」の間には、単なるイメージだけではない、とても面白い科学的なつながりがあります。

秋田県は冬に大量の雪が降る豪雪地帯です。
すなわち、春になると、その冷たくて清らかな雪解け水が山から流れ出し、お米を育てる田んぼを潤します。
すなわち、ミネラルを豊富に含んだ良質な水が、あきたこまちの抜群の美味しさ(粘りと甘み)を生み出しているというわけです。

秋田美人については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

【秋田美人とは?】歴史と美しさの秘密を、わかりやすく解説!
「秋田美人」はなぜ生まれたのか?ルーツとなる伝説や歴史的背景、気候が肌に与える影響まで、その秘密をわかりやすく解説してゆきます!本記事で掲載している画像は、あくまでAIによるイメージです。実在のものや史実とは異なる描写がある場合がありますの...

美肌を生み出す、秋田の地理と気候

そして同時に、この豪雪地帯という気候は、冬の間は日照時間が短く、紫外線が非常に少なくなります。
さらに、山々に囲まれて湿度が一定に保たれるため、肌の水分が失われにくいという、素晴らしい環境でもあるというわけです。

つまり、秋田の豊かな自然環境が、美味いお米(あきたこまち)を育てると同時に、色白でキメの細かい美肌の女性秋田美人)をも育んできたというわけですね!

このように、小野小町の伝説から始まった美の系譜が、現代のお米科学的な環境で見事に結びついているのは、とても「奥の深さ」があるお話だと思いませんか?

おわりに・まとめ

日本の人々の歴史的な営みは、いつの時代もお米とともにありました。
かつて貴族が命を削ってまで執着した白米は、江戸脚気パニックを引き起こすほどの人々の憧れとなり、やがて現代の食卓へとつながっていきます。
お米作りが国を形作り、美しき秋田の風土と秋田美人を育み、さらには小野小町伝説や歴史のドラマまでも生み出してきたのは、本当に興味深いですね!

以前にもご紹介した「江戸時代の食事」や脚気の歴史とあわせて見ると、日本の食文化の奥深さが、より一層くっきりと浮かび上がってきます。

一杯の白米に詰まった壮大な歴史の奥の深さに思いを馳せながら、今日の美味しいご飯を味わってみるのも一興かもしれませんね!

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