「鉄道唱歌」の作詞者として知られる大和田建樹の生涯と功績について、わかりやすく徹底解説してゆきます!

明治時代の新橋駅を出発する蒸気機関車(画像はあくまでAIによるイメージです。)
また、明治時代の当時の近代教育戦略や、今も愛される唱歌・校歌に込められた歴史的背景についても紐解いてゆきます!
明治の文豪、大和田建樹の生涯
「鉄道唱歌」を作詞した明治の巨星

新橋駅(東京都港区)にある、大和田建樹さん直筆の「鉄道唱歌の碑」
大和田建樹は、明治時代に活躍した素晴らしい詩人であり、国文学者です。
簡単に言えば、
- 江戸時代のおわりに、愛媛県の武士の家庭に生まれ、
- 幼い頃から歴史を勉強していたため、歴史にめっちゃ詳しく、
- また詩の才能もあり、
- それが当時の明治政府に認められ、教育を目的とした多くの「唱歌」を作詞した
ことで知られる偉人になります。
彼は、私たちの心に深く刻まれている「鉄道唱歌」の作詞家として、とても有名ですね!

明治時代の上野駅を出発する蒸気機関車(画像はあくまでAIによるイメージです。)
専門用語のやさしい解説(国文学者や鉄道唱歌についてなど)
- 国文学者:日本の古い古典文学(『源氏物語』や『万葉集』など)や歴史を専門に研究する学者のことです。
当時は大学や学校で教鞭を執って給料を得たり、教科書・注釈書の執筆や出版による印税で生計を立てていました。 - 詩人:詩を作って発表する人のことです。
当時は教科書に載せる教育用の歌(唱歌)の作詞依頼を受けたり、雑誌・新聞に詩を寄稿したり、詩集を出版することで収入を得ていました。 - 鉄道唱歌:1900年(明治33年)に発表された、全国の鉄道路線の沿線風景や地理・歴史を歌い上げる、長編の教育唱歌のことです。

明治時代の蒸気機関車(画像はあくまでAIによるイメージです。)
大和田建樹の基本プロフィール
- 生年月日:1857年10月24日(安政4年)
- 出身地:愛媛県の宇和島
専門用語のやさしい解説(宇和島市についてなど)
- 安政:江戸時代末期(幕末)の年号(1854〜1860年)です。
ペリーの黒船来航直後で、開国や不平等条約の締結など、日本中が大きく揺れ動いていた激動の時代でした。 - 愛媛県宇和島市:四国の南西部に位置する城下町です。
江戸時代は伊達家が治める宇和島藩として栄え、学問や文化、蘭学などの先進的な教育が盛んな地域でした。
大和田建樹:生涯のあゆみ
彼は、伊予(現在の愛媛県)の宇和島藩士の家に生まれました。
藩士:江戸時代に特定の「藩」に仕えていた武士のことです。
「武士」は刀を差して戦う身分全体の総称であり、その中でも藩主(大名)と主従関係を結んで仕えていた武士を具体的に「藩士」と呼びました。
幼い頃から文学に親しみ、漢文や国学を学んで育ったそうです。
まさに鉄道唱歌に見られるような、豊富な文学や歴史の知識などは、この時からすでに磨かれていたというわけですね。
その後、教員として働きながら、独学で詩や短歌の才能を磨いていきました。
上京と近代文学への挑戦
1880年代に入ると、東京へ出て本格的に文学活動を開始します。
当時の日本は、西洋の文化がどんどん入ってくる激動の時代でした。
「富国強兵」と言って、いつ海外と戦争になってもいいように、日本が国を上げて産業を大量生産したりなどして、国を発展させていった時代でもあったのでした。

「富国強兵」の一環としての製糸場(画像はあくまでAIによるイメージです。)
そんな中で、彼は日本の伝統的なリズムを大切にした詩や歌をたくさん発表しました。
代表的な功績「鉄道唱歌」
この大和田建樹さんのもっとも有名な仕事といえば、やはり鉄道唱歌です。
1900年、鉄道の普及とともに、日本各地の風景や歴史を歌い上げるこの歌が発表されました。

汽笛一声新橋を 明治時代の新橋駅(画像はあくまでAIによるイメージです。)
鉄道唱歌とは、明治時代に、鉄道に乗って日本各地を旅する様子を歌った曲のことです。
地名や歴史的名所が歌詞に盛り込まれており、地理や歴史の勉強にも役立ったそうです。

筆者・新橋駅より(東京都港区)
鉄道唱歌における明るいメロディに乗せて全国を旅するような歌詞は、当時の人々に大人気となりました。
すなわち、彼はただの詩人ではなく、当時の人々の生活や好奇心に寄り添う作品を作った人だったというわけですね!

筆者・新橋駅より(東京都港区)
文学と教育への貢献
大和田建樹さんは、詩や短歌だけでなく、国文学の普及にも尽力しました。
簡単に言えば、日本の正しい歴史を分かりやすく後世に教えていこうとした、というわけです。
これは彼が尊敬していた江戸時代の国学者・本居宣長の精神を受け継ぐものでもありました。

国文学者である大和田建樹さんにとっての偉大なる大先輩・本居宣長(画像はあくまでAIによるイメージです。)
すなわち、古典文学の研究や教育にも携わり、日本の古い文化を大切に守ろうとしたというわけです。
したがって、彼の活動は文学の世界を超えて、日本の教育現場にも大きな影響を与えました。
幼い頃の愛媛の宇和島時代から、歴史や文学にかなり精通して親しんで学んでいたわけなので、これぐらいのこと(子供達に歴史の教育をしていくこと)は、彼にとっては非常にたやすいことだったのかもしれませんね。
「唱歌」とは?
ちなみに唱歌とは、明治時代に学校教育のために作られた「歌」のことですね。
現代でいうところの「校歌」や「音楽の教科書に載っている歌」に、とても近い存在です。
- 我は海の子
- 箱根八里
- メダカの学校
- 赤とんぼ
- 鯉のぼり
- 各地の学校の校歌
など、誰もが小学校の時に習ったような歌です。

かつて江戸時代、「箱根の山は天下の険(けん)」とまで恐れられた、箱根八里の険しい山々(画像はあくまでAIによるイメージです。)
しかし、これらの歌詞がどこか古風ですよね。
それもそのはず、明治時代に作られたからです。
例えば、鯉のぼりの歌なんて「屋根より高い」なんて歌ってますが、それは明治時代は1階建ての家がまだ多かったので、鯉のぼりは本当に屋根よりも高かったことから、このような歌になってるわけです。
唱歌は、もともとは日本の伝統的な詩吟や、宗教的な歌を指す言葉でした。
しかし、明治時代になると、西洋音楽の理論を取り入れて、学校教育の教材として作られた「歌」を指すようになりました。
これによって、子どもたちが楽しく音楽を学ぶようになったのですね!
明治政府の狙いと「唱歌」の役割
明治時代は現在でいう文部科学省みたいな存在が、国民のレベルを上げるために、いろんな学者に対して、様々な唱歌を作成させて、国民に歌わせることを推奨していたような時代でした。
明治政府は、国力を高めて西洋の国々と肩を並べるために、教育をとても重要視していました。
国民教育の一環としての「唱歌」
明治政府は、文部省(現在の文部科学省の前身)を中心に、全国の子どもたちに新しい知識や道徳を教えようとしました。
その強力なツールとして選ばれたのが、音楽でした。
- 文明開化の推進:西洋音楽のメロディを使うことで、進んだ文化を取り入れようとしました。
- 道徳と知識の普及:歌詞には、当時の政府が大切にしていた考え方や、新しい知識を盛り込みました。
- 国民の統一感:同じ歌を全国の子どもたちが歌うことで、国民としての意識を育てようとしたのですね!
大和田建樹氏のような学者たちの役割
当時の明治政府は、大和田建樹をはじめとする文学者や音楽家に依頼して、多くの唱歌を作らせました。
それは単に楽しいだけでなく、地理や歴史、愛国心などを自然に学べるような工夫が、歌詞には凝らされていたのです。
したがって、当時の唱歌は、ただの音楽教育ではなく、国家が国民のレベルを底上げし、国づくりを進めるための「教育プロジェクト」の一種だったといえますね。
すなわち、私たちが学校で歌う歌一つひとつにも、当時の国を豊かにしたいという熱い思いが詰まっていたのですね!
今の時代から振り返ると、当時の国の熱量が伝わってきて、とても興味深いですね。
明治期に生まれた名曲たち
明治時代やその精神を汲んで作られた数々の唱歌には、今も私たちの心に深く親しまれている名曲がたくさんあります。
明治唱歌・愛唱歌としての系譜
そして、それらの楽曲の多くは、明治から大正にかけての教育環境の中で生まれ、定着したものです。
- 「我は海の子」:1910年(明治43年)に文部省が編纂した『尋常小学読本唱歌』に掲載されました。
- 「箱根八里」:1901年(明治34年)発表の『中等唱歌集』に収められています。
- 「信濃の国」:1900年(明治33年)に誕生しました。
もともとは地域の人々に愛された歌ですが、この時代の唱歌教育の雰囲気の中で、長野県民の心に深く根付きました。 - 「最上川」:1925年(大正14年)に作られました。
こちらは少し時代が下りますが、明治から始まった「唱歌」の精神を受け継ぐ作品です。
本来は教育現場で使われる歌を指しますが、当時は音楽の授業を通じて、こうした曲が国民の心に共有財産として浸透していきました。
したがって、これらの歌を聴くと、どこか懐かしく、日本人の心に響くメロディなのは、当時の教育が私たちに「共通の心の風景」を植え付けたからかもしれませんね。
日本中を旅する地理教育の教科書「鉄道唱歌」
鉄道唱歌は、大和田建樹が作詞し、多梅稚らが作曲した、全66番にも及ぶ長大な連作唱歌です。
- 概要:1900年に第1集が発表されると、瞬く間に全国で大ヒットしました。
- 目的:鉄道という新しい文明の利器に乗って、日本の各地(地理)や歴史的エピソードを楽しく学ぶために作られました。
- 影響:当時の子どもから大人まで、誰もがこのメロディを口ずさみ、遠く離れた土地に思いを馳せたのです。
すなわち、鉄道唱歌は、当時の日本における「最高の観光ガイドブック」であり、同時に「日本中を旅する地理教育の教科書」でもあったのですね!

鉄道唱歌にも歌われた、明治時代の品川駅(画像はあくまでAIによるイメージです。)
今に受け継がれる校歌と古典的日本語の美
校歌と古典的表現
現在まで残る多くの学校の校歌の歌詞も古典的な言い回しが多いですが、この時期に作られたものが多いです。
- 「我ら」というフレーズは本当に多いですよね。
学校の校歌に、古風で格調高い言い回し(七五調や、古い日本語表現)が多いのは、明治時代の教育の影響が非常に大きいですよ。
なぜ学校の校歌に、古風な表現が多いのか
- 明治期の言語教育:当時の教育は、漢文や古文を基礎としていたため、いわゆる「格調高い日本語」が「教養ある言葉」とされていました。
- 愛校心と品格:学校という場所を、地域や国家の誇りを語る場所と捉えていたため、日常語ではなく、威厳のある硬い言葉が好まれました。
- 継承された伝統:明治・大正・昭和初期に作られた多くの校歌が、そのまま大切に歌い継がれているため、現代でも古風な歌詞がそのまま残っているのです。
すなわち、校歌は単なる学校の紹介歌ではなく、その学校ができた時代の精神や、当時の人々の言葉の感性を、今に伝える「タイムカプセル」のような存在と言えますね。
したがって、古い校歌を聴くことは、その時代の人々がどんな言葉を美しいと感じ、何を理想としていたのかを垣間見る、素晴らしい体験でもあるのです!
明治時代の歌で一人称に「我」が使われていること
明治時代の歌で、よく一人称に「我」「我ら」が使われていること気になりませんか?
実はこの「我」「我ら」という言葉は、当時の日常会話で普通に使われていたわけではありません。
日常会話というよりは、詩や歌などの文学の世界で好んで使われていた特別な表現でした。
ここで、少し専門的な背景を解説しますね。
文語体:当時の書き言葉や詩歌で使われていた、伝統的で格調高い文章スタイルのことです。
日常語の「口語」と文学表現の「文語」の乖離
明治時代には、普段の話し言葉である「口語」と、文章を書くときの「文語」が大きく離れていました。
そのため、普段の生活で「我」と自分のことを呼ぶ人は、ほとんどいなかったのです。
しかし、学校で習う漢文や、伝統的な和歌、そして新しく生まれた西洋風の詩や唱歌などでは、自分のことを格好よく、あるいは感情を込めて表現するために「我」が積極的に使われました。
当時の人にとっても、「我」は日常会話の言葉というよりは、文学的で少し気取った、特別な響きを持つ言葉だったのですね!
おわりに・まとめ
明治の文豪・大和田建樹は、「鉄道唱歌」をはじめとする数々の名作を通じて、日本中に地理や歴史の面白さを広めた偉大な先駆者でした。
彼らが情熱を注いだ数々の唱歌は、西洋の文化を取り入れつつ日本の美しい伝統や文化を守り、新しい国をつくろうとした当時の熱い想いが込められています。
今度昔ながらの唱歌や校歌などを耳にしたときは、ぜひその奥にある歴史のロマンを感じてみてくださいね!
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