【豊橋の歴史】旧名「吉田」の由来から徳川家康の三河統一・幕末の「ええじゃないか」まで徹底解説!

愛知県豊橋市の歴史を徹底解説!かつて「吉田」と呼ばれた宿場町の起源から、吉田大橋の由来、徳川家康の三河統一や幕末の「ええじゃないか」発祥まで迫ります。

豊橋の歴史

飯田線の旅のスタート・豊橋駅(愛知県豊橋市)

豊橋駅(愛知県豊橋市)

かつて「吉田」と呼ばれていた豊橋

飯田線・豊橋駅(愛知県豊橋市)

豊橋は、かつて「吉田よしだ」と呼ばれていました。
また、「豊橋」の地名は、街を流れる豊川とよかわに今もかかっている大きな橋(吉田大橋)に由来しています。

橋の名前に由来する地名は、結構あります。
例えば東京の日本橋にほんばし、大阪の淀屋橋よどやばしなどですね。

江戸時代、東海道のメインルート上にあった豊橋

豊橋には、江戸時代までのメインルートである「東海道」が通っていました。
東海道とは、江戸から京都まで、約20日間かけて徒歩または馬などで旅をしていた道です。

旅人たちは何日間もかけて移動するため、途中で泊まるための宿場町が必要になりました。
その東海道の宿場町である「吉田宿よしだしゅく」が豊橋にありました。

豊川にあった『渡し場』

豊川(愛知県)

また、飽海川あくみがわ(現在の豊川のことです)の河口には、かつて「渡し舟わたしぶね(※後述)」に人を乗せるための、「渡し場わたしば」が置かれたのでした。

昔は、以下の理由などにより、橋がまともにかけられなかったのでした。

  • 軍事上の都合から、橋をかけられなかった
  • 橋をかけたとしても、すぐに洪水・氾濫などで、流されたりしていた

そのため、橋をかける代わりに舟で乗せて運ぶという「渡し舟わたしぶね」があったのです。

これは「飽海川あくみがわの渡わたし」と呼ばれています。

飽海川あくみがわはその後、

  • 「吉田川」

に改称されており、さらに明治時代以降に、

  • 「豊川」

に改称されています。
住民たちを水で潤す「豊かな川」ということで、「豊川」となったのです。

吉田大橋→豊橋へ

また、橋も、

吉田大橋よしだおおはし→豊橋とよはし

のように名前が変わっています。
もちろん言うまでもなくこの「豊橋」こそが、愛知県豊橋市の市名の由来になっています。

しかし、現代の国道1号にかかる吉田大橋は、後の時代により、新しく大きく作られたものです。

「豊橋」の由来になったもとの吉田大橋は、より下流部の愛知県道496号線の橋という扱いになっています。

戦国時代 徳川家康の天下に

1560年に起きた桶狭間おけはざまの戦たたかいで、今川義元いまがわよしもとが織田信長に敗れて討たれてしまいました。
そして、それまで静岡県静岡市の地で今川家の人質となっていた徳川家康は、それまで自分を人質にしていた(いや、「人質」とは名ばかりであり、むしろ厚待遇でお世話になっていた?)今川氏をそこで見限って、今川氏からの独立を宣言したのでした。

つまり徳川家康は、今川氏の敗北とともに、晴れて「自由の身」となったというわけです。

今川家の衰退 徳川家康の時代へ

1565年には吉田城が開城し、今川家はこのあと豊橋(吉田)の地を撤退し、その後どんどん衰退していくことになります。

1566年には牛久保城うしくぼじょう(愛知県豊川市)に残っていた勢力を結集していた地元の武士たちや一族らも、徳川家康からの降伏の勧めに応じることにしたのでした。

つまり、豊橋(吉田)周辺の三河みかわの人々は、どんどん徳川家康の言うことに従っていくことになっていくのです。

徳川家康は後に関東・江戸へ

こうして三河国みかわのくに(愛知県東部)は、徳川家康によりほぼ再統一されていき、徳川家康の天下となっていったのでした。

安土桃山時代の1590年に、徳川家康は豊臣秀吉からの命令で、関東へ移ることになりました。
これがのちに江戸幕府ができる、きっかけの一つとなります。

江戸時代「吉田藩」の成立

1600年の「関ヶ原の戦い」の後、江戸時代に入ると「吉田藩よしだはん」が設置されました。

江戸時代になると吉田川(豊川)に対して、吉田大橋(現在の豊橋)の建設が行われたのでした。

幕府の直轄だった吉田大橋(豊橋)

この吉田大橋(豊橋)は、東海道における軍事面での重要性から、江戸幕府による直轄ちょっかつ(直接管理すること)の橋として管理されたのでした。

それは、江戸幕府に不満を抱く大名たちが、豊橋を通って軍を率いて江戸に侵入してくるのを防衛するためですね。

「ええじゃないか」幕末の騒ぎ

幕末の動乱が収まらなかった1867年、豊橋駅の西のエリアにあたる牟呂村むろむらにおいて、なんと伊勢神宮の「お札ふだ」が空から降ってきたといわれています。
この「お札ふだ」が降ってくるというなんとも素晴らしい噂があちこちで広まり、幕末の不安定な世の中において情緒不安定に陥っていた民衆たちが「ええじゃないか」と躍り狂ったのです。

ええじゃないかと躍り狂った運動・現象は、幕末の動乱からなんとか世の中が復活してほしいと願う人々の「世直し」の動きとなっていったのです。

「ええじゃないか」については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

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おわりに・まとめ

愛知県豊橋市は、かつて「吉田」と呼ばれ、東海道屈指の宿場町や交通の要衝として栄えた深い歴史を持っています。

徳川家康の三河統一の足がかりとなった吉田城や、江戸幕府が直接管理した吉田大橋、そして幕末の民衆エネルギーが爆発した「ええじゃないか」の発祥など、どの時代を切り取っても重要な舞台でした。
現代の街並みの中にも息づく先人たちの足跡に、ぜひ思いを馳せてみてくださいね!

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