鉄道唱歌 北海道編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
鉄道旅行を楽しむためのノウハウを、初心者でも楽しめるよう解説してゆきます!
↓まずは原文から!
聞きつゝ上る岸づたひ
岩おもしろく山深く
若葉紅葉のながめあり
さらに読みやすく!
聞きつつ上る 岸づたい
岩おもしろく 山深く
若葉紅葉の ながめあり
さあ、歌ってみよう!
♪ききつつのぼるー きしづたいー
♪いわおもしーろく やまふかくー
♪わーかばもみじの ながめありー
函館駅→桔梗駅→七飯駅→新函館北斗駅→大沼公園駅→駒ヶ岳駅→森駅→八雲駅→国縫駅→長万部駅→黒松内駅→比羅夫駅→倶知安駅→然別駅→余市駅→蘭島駅→塩谷駅→小樽駅
※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ抜粋
長万部駅を出て、倶知安・小樽方面へ
長万部駅を出発すると、
- 倶知安駅(くっちゃんえき)
を経由し、やがて小樽(おたる)方面を目指します。
前回の歌詞にあった「南部陣屋」とは?
前回、
- 南部陣屋(なんぶじんや)
についての説明をしていませんでした。
前番(鉄道唱歌 北海道編 南の巻第11番)の歌詞では、
はや後志の黒松内
と歌われていましたね。
この歌詞によると、長万部駅を出発してから南部陣屋跡を過ぎ、
- 胆振国(いぶりのくに)との国境を過ぎて、
- 後志国(しりべしのくに)の黒松内駅(くろまつないえき)に到着する
ことになっています。

黒松内駅(北海道寿都郡黒松内町)
南部陣屋とは?
さて、南部陣屋とは一体なんでしょう・・・?
「南部陣屋(なんぶじんや)」は、簡単に言うと
- 盛岡藩(もりおかはん、現在の岩手県盛岡市)
がかつて北海道を統治するために進出してきた基地のようなものです。
「南部」とは?
「南部(なんぶ)」とは、かつて江戸時代に盛岡藩を代々治めた家系である
- 南部氏(なんぶし)
のことです。
そして、盛岡藩は別名で「南部藩(なんぶはん)」とも呼ばれていました。
幕府の命を受けて蝦夷地に進出してした、南部藩の拠点
その南部藩が、幕府の命を受けて北海道(蝦夷地)に進出し、北海道を農業的にも軍事的にも強くするために、そのための拠点が必要だったのでした。
それが「南部陣屋」というわけです。
陣屋とは?
「陣屋(じんや)」とは、簡単なお城のことです。
昔、江戸時代は「一国一城制」といって、大名といえどよほど石高の高い(現代でいえば財力のある)大名でもない限り、お城を持つことが許されませんでした。
幕府からすれば、好き勝手にお城を作られて、そこを拠点に軍事力を強められ、幕府の脅威になられてはたまったもんじゃありませんからね。
したがって、江戸幕府は各大名に対してお城を建設したり持つことは厳しく制限しました。
「大名」とは?
大名(だいみょう)とは、1万石以上の武将のことをいいます。
その中でも、お城を持つことが許されたのは3万石以上の大名だけです。
それ以外の大名は、お城ではなく「陣屋」のみ許可されていたわけですね。
かつて室蘭に存在した南部陣屋
北海道のこの近辺では、室蘭市の南部陣屋が有名です。
しかし、長万部町のこの辺りに南部陣屋があったかどうかについては、私(筆者)が散々調べた限りではわかりませんでした。
もしかしたら鉄道唱歌のあった時期(1906年)にはこの辺りに南部陣屋があったのかもしれません。
2024年追記:「南部陣屋が何か」について判明!
長万部駅のやや北西に飯生神社(いいなりじんじゃ)とよばれる神社が存在すします。
その飯生神社の近くに、かつて江戸時代に
- ヲシャマンベ陣屋
とよばれる、盛岡・南部藩による陣屋があったそうなのです。
そしてこの地域のことを陣屋町といいます。
盛岡藩(南部藩)が、北海道(蝦夷地)に進出してきた理由
ではなぜ盛岡藩(南部藩)が北海道(蝦夷地)に進出してきたのか。
それは、当時の蝦夷地は、常にロシアと軍事衝突のリスクがあったからです。
江戸時代の後半になると、ロシアとの国境に近い蝦夷地は、当時鎖国をしていた日本に対して度々「貿易をしようよ」と交渉してきました。
根室にやってきたラクスマンが有名です。
江戸時代、たびたびロシアと軍事衝突をしていた
しかし幕府は、断固として鎖国体制を守るために、ロシアを追い返したりして、そのたびに軍事衝突をしてきました。
幕末になればなるほど、こうしたロシアの動きを幕府は警戒するようになったのでした。
そのため、(蝦夷地に比較的近い)盛岡の南部藩に命じて北海道の警固にあたらせて、防御の拠点としてあちこちに「陣屋」を築かせたのでした。
これが「南部陣屋」となります。
尻別川に沿って進む

尻別川(函館本線の車窓より)(北海道)
歌詞にあるように、この区間は
- 尻別川(しりべつがわ)
に沿って進みます。
尻(シリ)とは、アイヌ語で「土地」「山」という意味
尻別川の「シリ」とは、アイヌ語で
- 土地
- 大地
- 山
という意味です。
したがって、尻別川とは
- 山を流れる(シリ・尻)
- 川(ペッ:別)
で、「山を流れる川」という意味になります。
確かに、深い山の中を流れる川なので、「尻別川」というネーミングはわかる気がしますね。
「利尻島」だと覚えやすい
北海道では、他にも利尻島(りしりとう)などで使用例があります。

利尻島(宗谷本線の車窓より)(北海道)
利尻島は、アイヌ語で
- リー:高い
- シリ:山
という意味です。
つまり、「高い山の島」という意味です。実際、利尻山(利尻富士)は、標高1,721mあるため、かなり高い山です。
ある意味、まんまのネーミングなので、これを知っておくと覚えやすいです。
他にも覚えておくと便利なアイヌ語
他にも、北海道を旅行するときに覚えておくと便利なアイヌ語を、以下に列挙しておきます。
- ワッカ(稚)→水
- ナイ(内)→川
- ペッ(別、部)→川
- サツ(札)→乾いた、水の流れが無い
- ポロ(幌)→大きな
- シャク(尺、積)→夏の
- ペンケ(辺渓)→上流にある
- パンケ→下流にある
- トー、ト→沼、湖
- サム(寒)、サップ(沙布)→~の傍(そば)に
- コタン(古潭/古丹)→村、人々の住む場所
- カムイ→神様の
- ヌプリ→山
- アイヌ→人、人間
冬の函館本線の景色は、別格

冬の函館本線の景色(北海道)
長万部駅を出発すると、一気に険しくも自然豊かな山岳地帯に入ります。その景色は、あまりに美しいです。
真冬の尻別川(しりべつがわ)の景色は、格別です。
勾配をゆるくするために、川に沿って作られた線路は多い
一般に、山岳地帯に線路を引くには、なるべく勾配を避け、平坦な地を確保しやすくしてゆきます。
そのため、川の形に添って線路を引くことが多くなると思います。
ただし、川沿いに線路を引くと、カーブが多くなるというデメリットがあります。
しかし、トンネル掘削技術がまだあまり進展していなかった20世紀初頭前後では、
ことを優先したのでしょう。

勾配のきつい区間には、特急列車は設定されにくい
上記のカーブに加えて、勾配のきつい区間となっています。
そのため、列車にとってはスピードの出にくい区間となっています。
そのため、特急列車などの速達列車は設定されていません。
したがって、特急列車は原則的に線形のいい、室蘭本線の「海側」のルートを通るようになっています。
2038年に廃止される、函館本線・山線
そして、対するこの「山側」の函館本線のルートは、2038年の北海道新幹線札幌延伸に伴って廃止されることとなっています。
※元々は2030年の廃止の予定だったのですが、様々な事情があって2038年に延期となりました。
厳密には、函館駅~長万部駅間は、第三セクターへの移行となります。
それにともない、長万部駅~余市駅間は代行バスでの運用となるそうです(あくまで未定)。
それまでに、冬の函館本線の美しい車窓を眺めておきましょう!

冬の函館本線の景色(北海道)
たくさんある、ユニークな駅名の駅たち
また、長万部駅~倶知安駅間には、ユニークで特徴的な駅名が多数登場します。
- 「二股(ふたまた)駅」(山越郡長万部町)
- 「熱郛(ねっぷ)駅」(寿都郡黒松内町)
- 「昆布(こんぶ)駅」(磯谷郡蘭越町)
- 「ニセコ駅」(虻田郡ニセコ町)
- 「比羅夫(ひらふ)駅」(虻田郡倶知安町)
- 「倶知安(くっちゃん)駅」(虻田郡倶知安町)
など、どれもユニークで一発で覚えやすいような駅名ですね!

昆布駅(北海道磯谷郡蘭越町)
「二股」という地名の由来
「二股」という地名は、全国的に二つの川が合流する地域につけられるとのことです。
二股駅の近辺では、
- 知来川(チライがわ)
- 長万部川
が合流する地点があり、そこに由来するそうです。
道が分かれる地点につけられる地名である、
- 「追分(おいわけ)」
と似ていますね。
アイヌ語由来の地名
「熱郛駅」「昆布駅」「ニセコ駅」「倶知安駅」は、アイヌ語由来です。
「比羅夫駅」は、かつて飛鳥時代にこの地域を制圧した
- 阿倍比羅夫(あべのひらふ)
という人物に由来しています。
詳細は、次回解説します。
かつて黒松内から寿都まで出ていた「寿都鉄道」
さて、前回の記事が長くなりすぎたために説明できていなかった、
- 黒松内駅(くろまつないえき、北海道寿都郡黒松内町)
の説明です。
黒松内駅(くろまつないえき)からは、その昔、
- 寿都鉄道(すっつてつどう)
という鉄道が延びていたようです。
北海道屈指の名高き港町・寿都までを結んでいた鉄道
黒松内から北西の海岸沿いに、寿都(すっつ)という港町があります。
ここは北海道屈指の名高き港町であり、
- ここで採れた大量のお魚を一旦黒松内駅まで運び、
- そこから長万部・函館・本州方面だったり、札幌方面に運ぼうとしたわけですね。
うーん、どこかで聞いた話ですね。(^-^;
そう、国縫駅(くんぬいえき)のところでも話したと思いますが、瀬棚線(せたなせん)が国縫とせたな町を結んでいた、あのような感じですね。
かつて大きく繁盛した港町・寿都
1920年頃の当時、寿都(すっつ)は港町として大きく繁盛し、
という機運が高まりました。
当時は現在のようにトラック輸送や高速道路も主流ではなく、貨物列車による輸送が主流でした。
そのため、
という声が周辺のあちこちで高まりました。
後に「国に買い取ってもらう」つもりだった
そして、この地域の財力のある人々がお金を出し合って、寿都鉄道を作り上げました。
最初は私鉄・民間鉄道としての扱いでしたが、後に「国に買い取ってもらおう」ということを想定していたようです。
後に国に買い取ってもらった(または国有化された)私鉄会社は多い
実は、現在はJRの路線であっても、こうした経緯で開始された路線って多いんです。
1880年代に、現在の東北本線の元祖となる民間鉄道会社「日本鉄道」が大ブレイクしたのでした。
それ以来、全国各地の民間会社が
といって、日本全国に民間の会社が鉄道を建設していきました。
つまり、たとえ最初は地元の財力のある人々がお金を出し合って建設した路線(民間鉄道路線)であっても、
- 明治・大正となり戦争に備えて国としての輸送力を強化するために、国が路線を買い取ったことで国鉄の管轄となり(鉄道国有化、1906年)
- やがて国鉄時代を経て、JRの路線として現在に至る
という路線は多いと思います。
国有化は実現せず、自動車の普及で衰退
しかし、その後寿都鉄道の国有化は実現しなかったようです。
また、瀬棚線のところでも解説したように、戦後、とりわけ1960年代頃になると高速道路も次々に建設され、トラック輸送が主流になってゆきました。
それに伴い、貨物列車輸送はどんどん衰退していきました。
1968年に廃止
寿都鉄道もこの例外ではなく、さらに寿都における漁業も衰退したこともあって、戦後まもなく寿都鉄道の利用は激減することになってしまいまいた。
やがて寿都鉄道は、1968年には終焉を迎えることとなりました。
寿都鉄道について詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

北海道の多くの鉄道の、廃線の理由
北海道には、現在は多くの廃線跡が残されています。
まとめると、廃線の原因は以下のようなものです。
- かつては漁業や鉱山、炭鉱などで採れた物資を運ぶための、貨物路線として栄えた。
- しかし、戦後の自動車の普及と自動車網の発達により、貨物列車がだんだんと使われなくなってきた。
- 漁業が衰退(原因は人口減少や燃料高騰、輸入品の魚の方が安い、跡継ぎがいない問題など)してしまい、運ぶ魚が無くなってしまった。
- 鉱山や炭鉱が閉鎖(安価な輸入品への置き換わりや、危険な事故の多発など)してしまい、運ぶ石炭も無くなってしまった
北海道にはこうした例は枚挙に暇(いとま)がありませんが、最も有名なのは夕張市の財政破綻でしょう。
こちらについては、以下の夕張編について解説していきます。

話がだいぶ逸れましたが、尻別川の景色はいかがだったでしょうか。
次回は、比羅夫駅へ
次は比羅夫駅に止まります!
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