名寄は旭川と稚内の中間点!もち米の産地や旧名寄本線・深名線の歴史、北海道の鉄道網について、わかりやすく解説してゆきます!

北海道名寄市のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。実物・実際の景色ではありませんので、ご了承ください。)
名寄駅に到着 旭川と稚内の中間点の街

宗谷本線の旅(画像はあくまでAIによるイメージです。実際の景色・車両等ではありませんので、ご了承ください。)
士別駅(北海道士別市)を出て、さらに北へと進んで行き、風連駅・名寄高校駅を過ぎると、やがて、
- 名寄駅(北海道名寄市)
に到着します。

名寄駅(北海道名寄市)
そもそも宗谷本線とは何か?や基本については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

旭川市と稚内市の、ちょうど中間点に位置する名寄市

北海道名寄市のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
北海道名寄市は、旭川市と稚内市の、ちょうど中間点にある「市」です。
名寄市を最後に、稚内市までは「市」といえる「市」は無くなります。
すなわち、今後の宗谷本線の沿線上の自治体は、ほぼ「町」か「村」のいずれかになるわけです。
「もち米」の産地・名寄市
名寄市は「もち米」の産地として有名です。
名寄市内には、もち米の水田がたくさんあります。
元々「お米」は、先述の通り寒い場所ではなかなか育ちませんでした。
北海道では稲作は出来ないため、昔のアイヌ民族は「お米」を本州からの交易に頼っていたのでした。
しかし品種改良が進むにつれ、現代では寒い北海道でも「お米」が(ある程度は)生産できるようになったのです。
お米の生産ができる北限(最も北の地域)は、名寄市の北西にある遠別町とされています。
そもそも、名寄で「もち米」が盛んな理由
逆に、そもそもなぜ名寄以外のところでそんなにもち米が盛んじゃないのか、気になりますよね。
寒さに強いもち米と、北の大地での挑戦
普段私たちが食べるご飯の「お米」は、寒さに弱く、冷え込むと実がつきにくくなってしまいます。
これも歴史的にアイヌ民族がお米作りを苦手とし、狩りや採集、魚釣りなどに命をかけてきた歴史と似ています。
一方で、「もち米」は寒さに比較的強い性質を持っています。
すなわち、
- 明治時代に北海道が正式に日本という国の一部に編入され、
- ここに入植した(つまり移住してきた)当時の日本人たちが、
- この厳しい寒さの地で、どうやったら農業で暮らしていけるだろうかと、必死に試行錯誤を重ねた結果、
- まさに、この地の気候に適した強みとなったのが、もち米だった
というわけです。
盆地の寒暖差が生む、最高品質のもち米
そして、周囲を山に囲まれた盆地にある名寄は、昼と夜の気温差がとても激しい地域です。
しかし、そんな気温差の厳しい環境にあっても、もち米にとってはかえってデンプンという栄養素をたっぷり蓄えるのにぴったりの環境でした。
すなわち、
- 昼間の暖かい時に栄養をたくさん作って、
- 夜の寒い時に、栄養を無駄にせずに蓄えておく
というわけです。
このようにして、無駄のない強いもち米が作り上げられます。
その結果、どこよりも粘りとコシがあって冷めても固くなりにくい、最高品質のもち米が育つようになったわけですね。
「名寄(なよろ)」の由来

北海道名寄市のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
つい「なよせ」「なより」などと呼んでしまいそうな地名ですよね。
もちろんこれはアイヌ語由来です。
名寄という地名は、アイヌ語の「ナイ・オロ・ペッ(川のところにある川)」がもとになっています。
アイヌ語では川を指す言葉として「ナイ(内)」と「ペッ(別)」の両方があり、北海道には「〜内」や「〜別」がつく地名が数多く存在します。
しかし、その両方の言葉が組み合わさって由来となっている地名は、道内でも比較的珍しいといえるでしょう。
天塩川と名寄川が合流する場所
名寄の街の近くでは、大きな天塩川に、支流の名寄川がちょうど合流しています。

天塩川(画像はあくまでAIによるイメージです。)
昔のアイヌの人たちは、川の合流点を大切な目印にして暮らしていました。
すなわち、「川が集まる場所」を指していた言葉が、明治時代に漢字の「名寄」と当て字され、今の地名として親しまれるようになったのです。
名寄に関連する、北海道の鉄道史
かつて名寄から遠軽方面へ結んでいた、名寄本線

かつての名寄本線(画像はあくまでAIによるイメージです。)
名寄駅から東へは、かつて名寄本線という路線がありました。
名寄本線は、名寄駅を東へと進み、オホーツク海側の
- 湧別町
を経て、やがて遠軽駅(北海道紋別郡遠軽町)に至る路線です。

明治時代の北海道の蒸気機関車(画像はあくまでAIによるイメージです。)
スイッチバックの方式・遠軽駅
遠軽駅は、スイッチバックの方式になっています。
スイッチバックとは、「人」の形をした線路のことであり、一旦先頭から突っ込んで、再びバックして反対側に進む形式の線路をいいます。
遠軽駅については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

遠軽駅がスイッチバックの形式となっているのは、かつて名寄本線が、北の湧別町・名寄方面へと出ていたからですね。
自動車の普及におされ、名寄本線は廃止へ
名寄本線は、1960年代に自動車が普及するまでは、地域住民にとっては重要な移動手段でした。
しかし時代とともに自動車が普及してゆき、また人口減少の波には勝てず、1989年には廃止となってしまったのでした。
かつて名寄から深川まで出ていた、深名線

かつての深名線(画像はあくまでAIによるイメージです。)
名寄駅からは、上記の名寄本線の他に、深名線という路線まで出ていました。
深名線は、名寄駅を南西に進んでゆき、函館本線の
- 深川駅(北海道深川市)
にまで至っていた路線です。
「深川」「名寄」の二つの頭文字を取って、深名線というわけです。
かつて深川駅から出ていた他の路線
深川駅からは、かつて
- 留萌
- 増毛
方面まで出ていた、留萌本線の分岐駅でもあります。
同じく自動車普及・人口減少により、深名線・留萌線も廃止へ
留萌本線は、今や深川駅から石狩沼田駅(北海道雨竜郡沼田町)の区間を残して、ほとんどの区間が廃止されてしまいました。
増毛駅のみならず、留萌駅も廃止になってしまったので、ちょっと寂しいですよね。
そしてこの深名線も、先述の名寄本線同様に沿線の人口減少とモータリゼーション(自動車普及)の波には勝てず、1995年には廃線となってしまいました。
北海道ではこのように、かつては現代と比べ物にならないほど数多くの鉄道路線が建設されていたのです。
石炭と鉄道で栄えた、明治時代以降の北海道の歴史
明治時代の北海道は、とにかく石炭や魚介類などがたくさん掘れる、資源の宝庫でした。
明治時代の「石炭」の重要性
石炭は現代でいうところの「ガソリン」であり、当時の世の中では鉄道・船など、何を動かすにも石炭が必要でした。
石炭は当時としては本当によく燃え、エネルギー効率がとても良いものとして認識されていました。
石炭は黒い色をしていながら、まるでダイヤモンドのように儲かる(様々な業界の人や企業が買ってくれる)資源だったため、「黒いダイヤモンド」とも呼ばれていました。
当時、掘って運ぶほど売れた石炭
そんな石炭等の資源がガッポリ掘れる北海道に移住すれば「儲かる」という意識が、当時の日本にはありました。
言ってしまえば、北海道に移住して、開拓(耕したり、掘り起こしたり、道路や鉄道を建設していく等を)すれば儲かったわけです。
すなわち、たくさんの人々や石炭などの資源を運ぶために、当時の北海道には今とは比べ物にならないほどの、鉄道の線路があったわけです。
そして多くの人々が北海道に移住したことと、当時はまだ自動車が一般的ではなかったために、鉄道があちこちに建設されていたのでした。
1960年代あたりから、石油の時代へ 石炭は衰退
しかし1960年代に入るとエネルギー源が石炭から石油に代わり(エネルギー革命)、北海道の多くの炭鉱が閉山となってしまいました。
炭鉱で働けなくなると、人々はもはやそれ以上北海道の各都市に住み続ける理由がなくなってしまい、転出が相次いでいくことで人口減少となっていくのでした。
そして”運ぶ人”も”運ぶ資源”も無くなった鉄道は「用済み」となり、どんどん廃止へと追い込まれていったのでした。
苦境に立たされる、北海道の鉄道
もちろん、現在残っている北海道の路線も、最も利用者数の多い札幌都市圏をも含めて営業係数(100円を稼ぐために必要な経費)が全て100以上であり、どの路線も苦境に立たされています。
また、北海道はすべて豪雪地帯なので、除雪作業などで多大なコストがかかるのも営業係数に響く要因となっています。
みんなで北海道に旅行へ行き、北海道を元気にしてゆきましょう。
次は、音威子府方面へ

北海道名寄市の景色の例(画像はあくまでAIによるイメージです。)
おわりに:名寄駅を出ると、次は音威子府方面へ向かってゆきます!
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