【太宰治・人間失格】三枚の写真で読み解く、大庭葉蔵が歩んだ「道化」と「転落」の軌跡とは

太宰治『人間失格』を三枚の写真から徹底解説!
大庭葉蔵が辿った道化と自己崩壊の軌跡を、わかりやすく解説してゆきます!

三枚の写真で読み解く「人間失格」

大庭葉蔵が歩んだ「道化」と「転落」の軌跡

太宰治の金字塔『人間失格』と、主人公・大庭葉蔵

太宰治の代表作『人間失格』は、主人公・大庭葉蔵おおばようぞうの手記しゅきを通じて、人間社会への恐怖と自己崩壊を描いた日本文学の金字塔です。
世代を越えて非常に長く読まれ続けている作品ですが、現代人の我々から見るとちょっと難しい内容もあるかもしれませんね。

  • 大庭葉蔵おおばようぞうとは?太宰治との違いは?:大庭葉蔵は、太宰治自身の体験を投影しつつ、破滅の道を象徴する架空の人物として描かれた主人公です。太宰治の作品には、本人はじめ実在の人物をモデルにしたと思われる人物がたくさん登場しますね。
  • 手記しゅき:ここでは葉蔵自身が自らの生い立ちや心の闇などのことを、赤裸々に書き綴つづった記録のことです。ここではいわゆる自伝に近い形式をとっています。

物語の案内役「はしがき」の「私」

語り手「私」が出会った本作の最大の特徴は、手記の前に置かれた「はしがき」という導入部にあります。
語り手である「私」は、葉蔵の生涯を記録した三枚の写真を観察し、その異常な風貌にとても強い嫌悪と違和感を抱きます。

  • 「私」とは?何者?:葉蔵の手記と写真をそれぞれ(東京の京橋のバーのマダムから)預かり、読者に提示する役割を持った小説の案内役のことです。名前は作中では明かされていません。

魂の崩壊を予告する「視覚的カルテ」

この三枚の写真は、単なる大庭葉蔵の外見の様子だけを記録したものではありません。
すなわち、葉蔵の精神がどのような段階や過程を経て破壊されていったのかを冷酷に予告する、作者の太宰治が仕掛けた「視覚的カルテ」なのです。

今回は、そんな大庭葉蔵の3つの写真に刻まれた風貌を手がかりに、葉蔵の「幼年期」「学生時代」、そしていわゆる「廃人時代」の変遷を読み解いていきます。

※「廃人時代」という言葉はこちらで便宜的につけた呼称であり、一般的な呼称ではありませんのでご了承ください。

第一葉【幼年期】——「猿の笑顔」と道化の誕生

人間失格の原点:太宰治の生家と第一葉の写真

第一の写真は、十歳前後と思われる年の葉蔵が、大勢の女性たちに囲まれて庭園の池のほとりに立っている姿です。

作中では青森県の大地主の屋敷とされ、実際に太宰治の生家せいか(斜陽館しゃようかん)の見事な庭園と池を彷彿とさせる設定となっています。
つまり、太宰治の実家がモデルというわけですね。

人間失格に描かれる「猿の笑顔」の恐怖

この大庭葉蔵の「第一葉の写真」において、その風貌について語り手(私)は「不気味」「醜悪しゅうあく」と評しています。
少年の首は三十度ほど左に傾き、顔をくしゃくしゃにして笑っています。
しかし、その手はなんと、両方のこぶしを固く握りしめて笑っています。

人間は、こぶしを強く握りしめながら心から笑うことはできません。

したがって、この少年(大庭葉蔵の幼少期)の「猿の(ような)笑顔」は、決して一般的な喜びの表現ではなく、実態は極度の緊張と恐怖を隠すための演技からくる仮面からくるものだったのでした。

人間失格の根底にある、他者への底知れぬ恐怖

作者の太宰治と同じく、地方(東北地方)の裕福な大地主の家に生まれた葉蔵は、幼い頃から周囲の大人の欺瞞ぎまんや本音とタテマエが理解できず、何を考えているのかがわからない他者に対して、底知れぬ恐怖を抱いていました。

すなわち、彼は普通の人々と感覚がズレていることに強い恐怖を感じ、自分の心と世間の常識との落差に深く苦悩していたのでした。
私(筆者)も、子供の時は何度周りの価値観と自分の価値観のギャップがありすぎるのに苦悩したかわからないですね(^_^;

生き残るための仮面「道化」

そんな「自分と周りが違いすぎることに苦悩した」という彼が見出した、唯一の救い・生き延びるための生存戦略というもの、自らを滑稽こっけいに見せて人を笑わせるという「道化(おどけ)」だったのです。

道化(どうけ / おどけ)とは?
本心を隠しながら、わざと滑稽でおどけた振る舞いをして周囲を笑わせ、その場を取り繕つくろう行動のことです。

この(第一葉の)写真は、生涯にわたる道化どうけの始まりと、幼少期からすでに人間性の輪郭を失っていた、彼の孤独を物語っています。

すなわち、「道化(おどけ)」とは大庭葉蔵が周囲と馴染めない違和感を抱えながら、なんとか社会に居場所を作ろうと「普通の人間」を必死に演じ続けた、悲痛な姿だったのでした。

同級生・竹一の「ワザ、ワザ」と、彼の予言

しかしながら、その「おどけ」は、後に竹一たけいちという同級生に見破られてしまい、葉蔵はありえないような恐怖を抱くようになります。

すなわち、大庭葉蔵が学校でわざと鉄棒から落ちて笑いを取ろうとしたとき、それを見ていた竹一から「ワザ、ワザ」と耳元で囁かれてしまい、そのとき「自分の本性を暴かれてしまった!」と葉蔵は青ざめてしまいました。
それ以降は、なんとか彼(竹一)をうまいこと懐柔かいじゅうしようと、必死にあれやこれやと画策する行動に出るのでした。

そして、後に大庭葉蔵は竹一を膝枕ひざまくらにして耳掃除をしてやり、そんなあまりにも優しい葉蔵に対して、竹一は

「お前はいつか、女に惚れられるよ」

という予言をするのでした。

しかもそれは(美貌すぎてモテることがデフォルトの)葉蔵にとってはあまり嬉しくなかったのですが、見事に当たってしまったのでした。

他にも、後に

「お前は、いつかきっと偉い絵描きになる」

という葉蔵からすれば嬉しすぎる予言もされるのですが、こちらは残念ながら外れてしまうことになります。

第二葉【学生時代】——「美貌の学生」と漂白された魂

第二の写真は、高等学校時代か大学時代と思われる、息を呑のむほどの美貌の学生姿です。

その写真の大庭葉蔵おおばようぞうは、洋風の部屋で籐椅子とういすに腰をかけ、足を組み、胸ポケットからは白いハンカチを覗かせています。

  • 籐椅子とういす:植物のトウ(ラタン)を編んで作られた、軽やかでおしゃれな椅子のことです。
  • ハンカチとハンケチの違い:どちらも同じで布製ハンカチのことを指し、昔の日本では「ハンケチ」とも呼ばれました。

磨き上げられた「かなり巧みな微笑」

この第二葉の写真は、さきほどの第一葉の歪いびつな「猿のような笑顔」とは異なり、今度はいくぶんか「かなり巧みな微笑」を浮かべています。

それはつまり「道化のテクニックに磨きがかかったから」と言えるでしょう。

実体のない笑顔と、完成された美青年の仮面

しかし、この写真にも生きている人間の気配がありません。
その笑顔は羽毛うもうのように軽く、白紙一枚はくしいちまいのように実体感が希薄です。

  • 羽毛うもうのように軽く:ここでは、彼(葉蔵)がふわりと表面だけで笑っており、心の重みがまるでなく、「笑顔」の実感がまるで伴っていない様子を表します。
  • 白紙一枚のように実体感が希薄:奥行きや温もりが一切なく、まるでぺらぺらの作り物のような虚しさを漂わせている、という様子を表しています。

このように、幼少期から拙つたなく演じていた道化が、成長するにつれて、また都会での放蕩ほうとうやたくさんの女性関係を経て、より「おどけのテクニック」に磨きがかかり洗練された「美青年の仮面」へと完成した姿である、というわけです。

美青年の仮面と、拭えない罪悪感

大庭葉蔵はこの仮面・おどけによって他者を魅了し、笑わせ、好かれ、なんとか東京での生活に適応しているかのように見せかけます。
しかし、その内面は「演技」であるがゆえに実態は空虚そのものであり、誰とも本当の意味で心を通わせることができませんでした。
それが彼の(ただでさえ普通の人よりはモロい構造になっている)精神をさらに悪化・不安定にさせていったのでした。

しかしそんな精神不安定のなかで、神奈川県の鎌倉での心中事件を起こしてしまい、相手の女性だけを死なせてしまい自分だけが生き残ってしまったという罪悪感も、この血の通わない「造り物の笑顔」の奥深くに塗り込められています。

放校処分と、堕落していく東京生活

また、「第三の手記」の冒頭にもあったとおり、

  1. この事件のために高等学校も放校となり、
  2. 竹一の予言のうち、「女に惚れられる」という(あまり葉蔵にとっては嬉しくない)予言は当たったものの、
  3. 本人がなりたくて仕方なかった「きっと偉い絵描きになる」という嬉しい予言は外れてしまって、
  4. お粗末な雑誌に、ちょっとだけ連載が載った程度の漫画家になれただけだった

というわけです。

そして東北の(お金持ちの)実家の仕送りに頼りながら、東京で相変わらず堕落した生活を送り、彼の心は余計に蝕むしばまれていくのでした。

第三葉【廃人時代】——「死相」すら失った無への到達

最後の第三葉の写真は、最も奇怪で不吉な写真です。

壁が崩れ落ちた薄汚い部屋の片隅で、白髪混じりの男が、小さな火鉢ひばちに両手をかざして座っています。
男の年齢は判別がつかず、そして一切の表情を失っています。

※「廃人時代」という言葉はこちらで便宜的につけた呼称であり、一般的な呼称ではありませんのでご了承ください。

消え失せた個性と、「死相」すら超えた異様さ

語り手(私)は、この顔に「特徴がない」として驚愕きょうがくします。
というのも、「目も鼻も口も平凡」で、目を閉じると(剥がれた壁や汚い部屋のことは思い出せるのに)、すぐにこの男(葉蔵)の顔を忘れてしまうほど、もはや印象が完全に消え失せてしまっています。
それくらい特徴が無さすぎる顔になってしまっているというわけです。

いわゆる「死相しそう」にすら何らかの表情があるはずなのに、この男には生も死も感じられません。
すなわち、人間の体に駄馬だばの首を乗せたような、完全な異物感いぶつかんだけが漂っています。

  • 死相しそう:まるで死が間近に迫った人の顔に浮かぶ、独特の不気味な気配や表情のことです。
  • 駄馬だばの首:まるで荷物を運ぶための並の馬の頭(首)のように、人間らしい感情や知性が全く感じられない様子です。

「人間失格」への転落と魂の死

信頼の崩壊と、モルヒネ中毒による破滅

これら三つの手記(つまり大庭葉蔵の語り・自伝)の終盤において、葉蔵は愛する妻・ヨシ子の無垢むくが他者(他の男)によって穢けがされるという、あまりにもの悲劇に見舞われてしまいます。

  • ヨシ子:人を疑うことを全く知らない純粋な心を持ち、葉蔵の妻となった女性のことです。
  • 無垢むく:純真じゅんしんで他者を疑うことを知らない清らかな心のことです。

第三の手記・中盤の「ドスト」「シノニム」「アントニム」などとは?

ちなみに「第三の手記」の中盤で出てくるこれらのワードは、作中で葉蔵が友人の堀木ほりきと興じる言葉遊びの場面です。

  • 堀木ほりき:葉蔵に酒や女などの遊びを教え、長く付き合うことになる悪友のことです。
  • ドストエフスキー:ロシアを代表する大作家で、人間の善悪を描いた『罪と罰』の作者です。
  • 「罪」の対義語は本当に「罰」なのか?:罰は法律が与えるもので、罪の本質的な反対語ではないと葉蔵が悩む疑問です。

すなわち、堀木と「シノニム(同義語)」と「アントニム(対義語)」をそれぞれ言い合う中で、葉蔵はドストエフスキーの小説である『罪と罰』を思い浮かべます。

これらは「罪」の対義語は本当に「罰」なのか、あるいは全く別のものなのか?ということを真剣に苦悩する、葉蔵の哲学的な問いかけを表しています。
しかし普通の人だったら「なぜそんな難しいことで悩むの?」と疑問に思うところですが、葉蔵(自分)の場合はこうした難しい思考が常に頭の中でぐるぐる回っているような、いわゆる「反芻思考はんすうしこう」のようなものがあったのかもしれませんね。

しかし、どれだけ考えても結局はこの答えが見出せず、さらに葉蔵は苦悩を深めていくことになります。

精神の完全崩壊と、精神病院への収容

先述の「ヨシ子」の件など、日常生活の様々なアクシデントなどから精神をさらに崩壊させていった大庭葉蔵は、苦痛から逃れるために手を出したモルヒネに溺れてしまい、最後は信頼していた周囲の人々の手によって精神病院(脳病院)へと収容されました。

モルヒネとは?
強い鎮痛作用を持つ医薬品ですが、依存性が極めて高く、乱用すると心身を破壊してしまう麻薬性物質のことです。

ここで廃人どころかむしろ狂人という烙印を押されてしまった葉蔵は、自らのことを「人間、失格」と断じます。

社会からの完全な脱落と手記の終幕

写真に写る白髪の男は、もはや(それまでのように)道化を演じる気力すら尽き果ててしまい、社会からも、そして人間という種族からも完全に脱落してしまった抜け殻のようになってしまったのでした。

最後は何もかもが「ただただ」過ぎ去り、今年27歳を迎えるものの、白髪が増えたせいで多くの人から40歳以上に見られると書き残し、大庭葉蔵の手記は幕を閉じます。

人間失格における「人間を降りた男」の到達点

三枚の写真を並べると、一人の人間の精神が段階的に漂白されていくまでの過程が残酷なまでに浮かび上がります。

  • 第一葉(幼年期):人間への怯えから、必死に作り出した「引きつった笑顔」
  • 第二葉(学生時代):世間を欺くために磨き上げた、実体のない「巧みな微笑」
  • 第三葉(廃人時代):演じることすら放棄し、生きながら死者となった「無表情」

結末に灯る救い:「神様みたいないい子」

物語の結末で、かつて葉蔵を知っていた東京・京橋のバーのマダムは、彼(私)についてこう語ります。

「私たちの知っている葉ちゃん(葉蔵)は、とても素直で、よく気のきく、神様みたいないい子でした」

これはなんとも「救い」ですね。

「人間失格」として堕落した男を「神様みたいないい子」というまるで対局した素晴らしい評価をすることが、この救いようのない物語における、なんともいえない救いとなっています。

おわりに・まとめ

このように、最後には周囲からは「神様のような良い人」と見えながら、その実、内面では地獄の恐怖に苛まれ、最後は顔の印象すら失って世界から退場していった大庭葉蔵。

今回紹介した三枚の写真は、人間関係の摩擦を恐れて(本来の自分のものではない)笑顔の仮面を張り付け、やがて本当の自分を見失っていく現代の私たちに対しても、静かに、そして鋭く問いを投げかけています。

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