鎌倉時代の武士の食事とは?
一日二食の献立や玄米・納豆などの質素なメニュー、一汁一菜の知恵を、わかりやすく解説してゆきます!

鎌倉時代の武士の食事(画像はあくまでAIによるイメージです。)
鎌倉時代の武士の食事は意外と質素?

鎌倉時代の武士の食事(画像はあくまでAIによるイメージです。)
一日二食の献立や玄米、納豆などの定番メニュー、そして武士の美徳とされた質素倹約の精神まで、当時の食卓の秘密を解説します。
なぜ質素だったのか?鎌倉時代の武士の食事の背景
鎌倉時代の武士の食事というものは、確かに当時の武士たちの食卓は、私たちがイメージするよりも意外と質素だったのでした。
源頼朝への「御恩」の、鎌倉時代の武士の食事への影響
それは、鎌倉幕府を開いてくれた源頼朝公への深い御恩があったからです。
鎌倉時代以前、すなわち平安時代の末期までは、武士たちはあくまで貴族に仕える(つまり貴族の皆さんを守るために戦う・雇われている)という、身分の低い立場にあったのでした。
しかし、源頼朝公が鎌倉幕府を開いてくれたことで、武士たちの地位が向上して確固たる生活基盤が確立されゆき、より安定した地位を築くことができたという、大きな御恩があったというわけです。
つまり鎌倉時代の武士の間では、そうした源頼朝公への恩義に報いるという意味でも、贅沢することはいけないことだと考えられていたというわけです。
鎌倉時代の基本については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

承久の乱後の変化と、質素倹約の徹底
もちろん、1221年の承久の乱で後鳥羽上皇率いる朝廷軍に勝利した後は、西国の所領(つまり、それまで朝廷が持っていた西日本にたくさんあった土地)を多く得ることになって裕福になり、例えば京都などの都(大都市)で豪遊して、散財してしまうという武士も一部には現れました。
しかし、そうした豪遊して散財した武士たちはあくまで例外的な存在でした。
基本的には、鎌倉時代の武士たちは質素倹約を基本とし、その上で贅沢をしないという極めてまじめで質実な気風を守ることで、鎌倉時代の武士の食事の質素さを維持し続けた、というわけです。
承久の乱については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

「いざ鎌倉」に備える、機能的な日常食
すなわち、いざという時には戦場で華々しく戦う武士たちですが、普段の生活においては贅沢を決して好まず、厳しく戒めていました。
そして、いざ戦が起きた時に備えて、体力を維持するための素朴な食事を徹底していた、というわけです。
- 「いざ鎌倉」とは:もしも幕府や将軍に重大な危機が起きたときに、どこにいても急いで鎌倉へ駆けつけ、命がけで戦うという武士の覚悟を表すための合言葉です。普段の倹約も、すべてこの時のためでした。
主な食事スタイルは「一日二食」

鎌倉時代の武士の食事(画像はあくまでAIによるイメージです。)
鎌倉時代の武士たちは、基本的には(忙しくない時は)朝と夕方の一日二食が基本だったのでした。
昔は今と違って電気など無かったため、夜は真っ暗だったのでした。
そのため、夕ご飯を食べたら、そのあとはもう寝るしかなかったわけですね。
夜の闇と太陽のリズムという、「本来の自然」に合わせた生活
そもそも、当時は現代のような明るい照明なんてありませんでした。
例えば、当時の明かりを灯すために必要な植物油や魚油などの灯火用油は、極めて貴重な高級品だったのでした。
そのため、普段の生活では、
- まず、日の出とともに活動を開始して、
- 朝食を摂り、
- 昼間は、武士としての務めや鍛錬に励み、
- 日没前の夕方に、二度目の食事を済ませて、
- 就寝する
という、あくまで人間や動物の本来の生き方であるような自然の太陽のリズムに合わせた生活を送っていた、というわけです。

江戸時代の、菜種油(なたねあぶら)を使ったあかり。江戸時代もこのように、電気が発明されるまでは夜は非常に暗かったため、夜は食事の後は寝るしかなかったのでした(画像はあくまでAIによるイメージです。)
自然のサイクルと、鎌倉時代の武士の食事リズム
現代のように例えば夜中にコンビニなどで手軽に夜食を調達できる環境とは根本から異なっており、まさに自然のサイクルと完全に調和したような暮らしでした。
もっとも、「夕食後は就寝するのみ」という当時のライフサイクルは、武士に限らず、鎌倉時代の人々にも広く共通する、一般的な生活スタイルでもありました。
電気がなかったので、それは当然と言えるかもしれません。
重労働を支えた間食「小昼」
ちなみに、例えば農作業などで忙しい時期には、間食をとることもありました。
鎌倉の武士の職業や仕事内容というのは、現在のように月給だったわけではなく、あくまで自分たちの持ってる土地から採れる収穫物でした。
つまり鎌倉の武士たちにとって、土地というものは非常に命をかけるほど重要なものだったので、「一所懸命」という言葉が生まれました。
それが転じて、後に我々も知っている「一生懸命」という言葉が誕生したというわけです。
農繁期を乗り切る鎌倉時代の武士の食事の工夫
話を元に戻しますが、武士の皆さんの普段の仕事というものは、自分たちの土地から取れるための農作物の収穫にあたる仕事(もちろん、武士である自分たちが田んぼを畑を耕すわけではなく、あくまで管理業務)で忙しいわけです。
そのため、特に春から秋にかけての農繁期にあたる繁忙期には、朝から晩まで土地・農地でずっと激しい野外活動が続くため、1日に食べる量が二食だけでは、どうしてもカロリーが不足しがちでした。
そこで、鎌倉の武士たちは、忙しい時期においては大切な作業の合間に手軽な栄養補給を取り入れていたのでした。
過酷な訓練を支えたエネルギー補給
また、当時の鎌倉の武士たちは、
- 激しい肉体労働
- 戦に備えた長時間の訓練
を行うというような時には、いわゆる「小昼」と呼ばれる軽食を間に挟むことで、効率よくエネルギーを補給していたのでした。
これは現代でも多忙な合間に私たちが摂取する、ドラッグストアでも買えるようなカロリーメイトなどの栄養補助食品の役割と似ていますね。
鎌倉時代の武士の食事を支えた、手軽に補給できる携行食
すなわち、そうした合間に挟む軽食としては、冷めても手軽に食べられる焼き米や干し飯、あるいは素朴な麦団子などを携帯していました。
そして、過酷な鍛錬の合間に素早く口へ運んでスタミナを維持していた、というわけです。
このようにして、いざという時には鎌倉幕府や将軍様に対して命懸けで奉公しなければならない武士にとって、小昼という食事の存在は欠かせないエネルギー補給手段でした。
鎌倉時代の武士の食事メニューと、主食の実態
玄米や雑穀が中心だった、質素な鎌倉時代の武士の食事
また、贅沢を決してしない当時の鎌倉の武士たちにとっては、現代の私たちが日常的に口にしているような美味しい白米ではなく、ちょっとグレードが落ちる未精製の玄米や雑穀を炊いたものが主食となっていました。

「玄米」のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
精米技術の未発達と、鎌倉時代の武士の食事の「質素さ」のメリット
というのも、当時は米をついて糠を取り除くという非常にめんどくさく手間がかかる作業が必要となる精米技術が未発達だったのでした。
そのため、白米に加工するには莫大な手間と人手が必要であり、非常に高価な贅沢品だったというわけです。

江戸時代の精米の例(画像はあくまでAIによるイメージです。江戸時代の例でご了承願います)
これは逆にいえば、当時において白米を食べられるということは、
- それだけの手間をかけられる財力や人手を抱えている(つまり、それだけの人件費を払うことができる力を持っている)
ということの確固たる証拠であり、それはまさしく貴族などの特権階級に許された特権でもありました。
逆に言えば、白米ばかり食べ過ぎてビタミンB1不足に陥って、脚気という病気に苦しんだ貴族もたくさんいたわけです。
栄養価の高い主食が支えた、鎌倉時代の武士の食事
そのため、鎌倉の武士たちは質素倹約や栄養のバランスなどを重んじる観点から、ビタミンやミネラルが豊富に含まれる玄米やヒエ、アワなどの雑穀を主食として食べていたのでした。

江戸時代の雑穀の例(画像はあくまでAIによるイメージです。江戸時代の例でご了承願います)
このような(決して美味しくはないけれども)健康な食生活から、皮肉なことに、
- 贅沢な白米を食べずに、栄養満点な胚芽や糠が残っている主食を摂っていたことで、
- 武士たちは、ビタミンB群などの健康維持のために必要な栄養素を自然と補給することができ、
- 後に江戸時代の江戸(東京)などでの都市部で流行することになる、脚気といった病気を防ぐことにつながった
というわけです。
江戸時代の脚気パニックについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

栄養満点な、具だくさんの汁物
また、当時の鎌倉の武士たちにとっては、いわゆる汁物と呼ばれる、例えば味噌や塩によって味付けした野菜や海藻の汁物が中心だったのでした。
こうした汁物と呼ばれる食事は極めて簡素ながら、
- 季節の根菜類やワカメなどを豊富に煮込むことで、
- (武士が激しい鍛錬などによって生じる)汗とともに失われる塩分と栄養を、同時に補給できる
という、まさに貴重な栄養源となっていたわけです。
保存食を中心とした、質素な副菜
また、鎌倉時代の当時の武士たちにとっては、いわゆるおかず(副菜)として、干物や塩漬けの魚や、納豆、海藻、さらには梅干しといったものを食べるということが定番だったのでした。
すなわち、
- こうした腐敗を防いで長期保存ができる発酵食品や、
- 同じく、腐りにくくて丈夫で長持ちする乾物を、巧みに献立に取り入れ、
- 日々の健康管理や、いざという時の戦への兵糧の備えとして役立てていった
というわけです。
つまり「腐りにくさ」や「保存性」も、鎌倉の武士たちにとっては重要視されてたというわけですね。
狩猟と「薬喰い」:武士の日頃の鍛錬には貴重な、動物性タンパク質の補給
ちなみに肉食に関しては、仏教の不殺生戒の教えや「生命を尊ぶ」という道徳観から、肉食は公には禁忌とされ、敬遠されていました。
まあ簡単に言えば、仏教では肉食は殺傷を伴うために、厳禁とされていたわけです。
しかし、武士たちには
- 武芸の鍛錬や、軍事演習をも兼ねた狩猟という行為を通じて、
- イノシシやシカなどの野生鳥獣を仕留めて、食する
という機会がありました。
これは単なる食欲の充足にとどまらず、
- 野山を駆ける武士としての実戦能力の錬磨や
- 武士として必要な心構えを養う
という意味合いも兼ね備えていたというわけです。
富士の巻狩りと「薬喰い」の実態
このようにして、鎌倉の武士たちは、
- 武芸の鍛錬を兼ねた、富士の巻狩りなどに代表される巻狩りで獲た獲物は、
- いざという時の戦などの過酷な軍務に耐える武士たちにとって、貴重な動物性タンパク質源となり、
- 「薬喰い」として、滋養強壮を目的に食されていた
というわけです。
すなわち、栄養のためには必要に応じて、動物の肉を食べるということもあったというわけですね。
鎌倉時代の武士の食事に宿る、質実剛健の精神
質素倹約を美徳とした、鎌倉時代の武士の食事

鎌倉時代の武士の食事(画像はあくまでAIによるイメージです。)
ここまで解説してきた通り、鎌倉の武士たちの食事というものは、質素や倹約を重んじる観点から、現代の私たちが口にするような華やかなご馳走とは対極にありました。
すなわち、先ほども述べてきた通り、源頼朝公への御恩に応え、また普段の何もない時の平時の油断をしないように合戦に備え続けるためにも、あくまでも質素倹約を貫くことこそが武士の誉れであり、また至高の美徳とされたというわけです。
一汁一菜の精神と、鎌倉時代の武士の食事に通じるもの

こちらは江戸時代の一汁一菜の例。(画像はあくまでAIによるイメージです。)
このように、鎌倉の武士たちにとっては余計な贅沢をやめ、質実剛健を重んじる生活態度そのものが誇りでした。
すなわち、簡素を極めた日々の食卓作法の中にも、常に身を引き締め、強くて飾り気のない武士道を体現しようとする強い意志が、まさにそこに存在していたというわけです。
食事という行為は、単なる栄養素の補給や身体の維持というだけにとどまらず、仲間と共に同じ時間を共有することで粗食(おかずの数が少なく質素な食事のこと)を分け合って連帯感を深め、また武士としての原点を再確認するための厳粛な精神儀礼でもありました。
儀礼の場で振る舞われた、少し豪華な鎌倉時代の武士の食事
もっとも、鎌倉時代の武士たちは一年中絶え間なく禁欲を強いていたわけではありませんでした。
例えば、大事な祝儀での席や、勝鬨を挙げるための宴会などでは、後の本膳料理の原型となる格式高い料理が並ぶこともありました。
本膳料理:日本の伝統的な格式高いお膳料理のことをいいます。
決まった数の料理が、足のついたお膳に順番に乗せて出されるというのが特徴となっています。
重要なお祭りや儀式の時は、たまには贅沢することもあった
このように、鎌倉の武士たちの食事は、日常の質素な暮らしを徹底する一方で、例えば重要なお客を迎えるための儀式や、合戦の勝利を称え合う勝鬨の宴の場においては、それに応じた格式と礼節を備えた、もてなし料理が振る舞われました。
このようにして、鎌倉の武士たちは、過度な禁欲によって気力ややる気を失わないよう、たまには儀式やお祭りのときには、適度に豪華な食事をすることもあったわけです。
このようにして、鎌倉の武士たちは日常の倹約生活と祝祭の華やかさをそれぞれ明確に切り分けていた、というわけです。
おわりに・まとめ
鎌倉時代における武士の食卓は、私たちが抱く勇猛なイメージとは裏腹に、なんとも驚くほど質素で規律正しいものであった、というわけです。
玄米や雑穀、季節の野菜を中心とした一日二食の献立は、まさに質素倹約を尊ぶ武士の精神を反映していたのでした。
すなわち、彼らにとって食事は単なる空腹を満たす手段ではなく、心身を鍛える修行の一部でもあった、というわけですね。
こうした時代の「一汁一菜」の精神は、現代の私たちが健やかな生活を送るための大切な知恵として、今も受け継がれているというわけです。
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