大久野島の砲台跡の歴史を徹底解説!明治期の芸予要塞やうさぎが暮らす現在の平和な遺構の魅力を、わかりやすく解説してゆきます!

緑深い木々の中に静かに佇む、大久野島の砲台跡のレンガ遺構(画像はあくまでAIによるイメージです。)
フォーカスキーフレーズ:大久野島の砲台跡
大久野島の砲台跡とは?うさぎの島に残る、明治の歴史遺構

明治時代に築かれた歴史の面影を今に伝える大久野島の砲台跡(画像はあくまでAIによるイメージです。)
広島県竹原市の沖合に浮かぶ大久野島。
現在は「うさぎの島」として国内外の観光客に親しまれていますが、島内を歩くと、深い緑の中に重厚なレンガ造りの遺構がいくつも姿を現します。
- 大久野島:広島県竹原市に位置する、瀬戸内海に浮かぶ周囲約4キロの小さな島で、愛媛県の大三島がすぐ南に迫るという、まさに県境の海に浮かんでいます。
- うさぎの島:たくさんの野生のうさぎが暮らしており、観光客を温かく癒やしてくれます。
この記事では、大久野島の砲台跡に焦点を当て、明治時代に築かれた要塞の歴史をわかりやすく解説してゆきます!
当時の歴史の痕跡と、また愛らしいうさぎたちが織りなす不思議な風景を一緒に覗いてみましょう。

自然豊かな大久野島でのんびりと過ごす可愛らしいうさぎの姿(画像はあくまでAIによるイメージです。)
大久野島の砲台跡と瀬戸内海を守る芸予要塞の誕生
瀬戸内海を守るために作られた「芸予要塞」の歴史

瀬戸内海の防衛拠点として築かれた大久野島の砲台跡の石造り遺構(画像はあくまでAIによるイメージです。)
大久野島に今でも各地に点在している砲台跡は、今から100年以上前の明治時代に築かれたものです。
当時、日本はロシアとの緊張関係が高まっており、いずれ来るであろう戦いであった日露戦争に備える必要がありました。
呉や広島の軍港を守る防衛計画
元々は、明治政府は軍港のあった呉や、日清戦争時に大本営が置かれていた広島へと敵艦が瀬戸内海を通って侵入してくるのを防ぐため、要塞が計画されました。
広島県呉市の軍港・鎮守府としての歴史については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

広島(広島城、広島大本営など)の歴史については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

もし瀬戸内海をロシア艦隊に突破されてしまうと、日本の主要な拠点が一気に攻撃されてしまうため、島々を海の防波堤にして守ろうとしたのですね!
瀬戸内海の要所に築かれた沿岸砲台
また、日本軍は瀬戸内海の要所である大久野島や小島(愛媛県)などに、海岸防衛のための砲台が次々と設置されました。
大久野島が位置する忠海海峡と来島海峡は、瀬戸内海を東西に行き来するための船が必ず通るという、海の要所でした。
もちろん、それは敵の軍の船にとっても(この海を通るということは)同じことです。
そのため、もしここを敵艦に突破されると、呉や広島だけでなく京阪神方面へも侵入を許してしまうため、大久野島は絶対に要塞化して防衛力を固めなければならないような、まさに軍事的に重要な場所だったのでした。
すなわち、大久野島などの軍事上の要衝を、こうした狭い海の通り道に大砲をずらりと並べておくことで、敵の船が近づけないように厳重な警戒ネットワークを張り巡らせていたわけです。
当時の大砲はまだ射程距離が短かったため、広い海原よりも、むしろ船の逃げ場がない狭い海峡に砲台を構えた方が、確実に敵艦を狙い撃ちできるという戦術的な計算もありました。
芸予要塞の概要と役割
芸予要塞とは、明治時代後期、瀬戸内海の航路を防衛するために設置された、陸軍の沿岸要塞群のことです。
- 芸→安芸の国、つまり広島県のこと
- 予→伊予の国、つまり愛媛県のこと
すなわち、広島県と愛媛県の間にある要塞ということで、芸予要塞というわけですね。
このように大久野島には、かつて島内の北・中・南の位置にそれぞれ砲台が造られており、たとえ島のどこに敵の船が現れても、全方位に対して砲弾が発射できるようになっていました。
すなわち、島全体が瀬戸内海を守る巨大な軍事拠点だったというわけですね!
そもそも大久野島が要塞に選ばれたのは、秘匿・機密隠蔽しやすい地形だったから?
大久野島が「要塞」に選ばれた最大の理由は、周囲の狭い海峡を広く見下ろせるという、軍事的な立地の良さでした。
しかも同時に、大久野島は周囲わずか約4キロという小柄な離島であり、一般の船がみだりに近づかない・近づきにくい・近づくメリットがあまりないという環境も大きな決め手となりました。
そして極めつけは、要塞や砲台の配置を敵国に探られないよう、島全体を立ち入り禁止にして機密を厳重に守る上でも、大久野島の周囲の海に隔てられたポツンと独立した地形は、まさに軍事機密の秘匿の上でも最適だったのです。
大久野島がたどった要塞建設と島と地域の生活
それまでは単なる漁業の島に過ぎなかった?
もともとの大久野島は、(少なくとも江戸時代くらいまでは)数軒の農家や漁師さんたちが静かに暮らす、とてものどかな島でした。
すなわち、畑を耕したり魚をとったりして暮らしていた島民たちにとって、明治時代になって島が突如として国の軍事拠点に選ばれたことは、まさかの青天の霹靂でした。
つまり大久野島の要塞化が決まると、島民たちは土地を国に買い取られて、島を離れざるを得なくなり、それまでの平和で静かな農漁村の風景は一変して「軍の島」へと姿を変えていったのでした。
瀬戸内海のはずれの島に砲台を設置していくのは大変だった?
海に浮かぶ小さな島に巨大な大砲や頑丈なレンガ施設を造るのは、想像を絶する大工事でした。
当時は油圧ショベルなどの大きな重機もありませんから、大量のレンガやセメント、そして巨大な大砲の部品などを(海岸の忠海や竹原などから)すべて船で運び、島の急な坂道を人の力とウマ(馬)の力だけで、山の上まで引き上げたのです。
このように、何百人もの作業員がたとえ夏の炎天下であっても汗を流し、数年がかりで気合と根性だけで固い岩盤を削って、なんとか砲台を完成させたのでした。
もしこの命がけの作業をしないと、いざ戦争になったときに国を守れないという危機感から、本当に必死の思いで作っていたことが伝わってきますね。
島内に常駐した砲兵隊と物々しい軍の警戒網
こうして砲台が完成すると、大砲を管理する陸軍の砲兵隊が次々に島にやってきて駐留するようになりました。
つまり、彼ら軍関係者は自宅から島に通うのではなく、島の軍関係施設で寝泊まりしながら防衛に当たるわけですね。
それまで静かだった島には軍人たちの宿舎や見張所がズラリと建ち並び、けたたましいラッパの音や訓練の号令が響き渡るという、なんとも「いかにも軍隊」な物々しい空気に包まれました。
また、軍関係者が暮らす島内は完全な立ち入り禁止区域だったため、一般市民が自由に行き来できるような場所ではありませんでした。
それに伴う明治時代当時の経済効果は?
島の中は軍の施設でしたが、対岸の港町(忠海や竹原市など)には大きな経済効果がもたらされました。
砲台の建設中には、大勢の作業員が対岸の港町に寝泊まりし、さらにそこで食料や建築資材をたくさん買い付けたため、周辺の港町の商店や船頭さんたちは一気に大忙しとなりました。
さらに、対岸の港町では、兵士たちへの日用品の補給や船の運航などを通じて、地元の港町にお金が落ち、地域経済がとても大きく活気づくきっかけになったのです。
当時の鉄道の終着拠点であった糸崎駅が三原に近かったことも、物資や人員をスムーズに集める上で大きな後押しとなりました。
糸崎の明治時代における鉄道の町としての歴史については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

夜の港町を包んだ工夫や船乗りたちの活気
対岸の忠海や竹原といった港町は、建設関係者や軍の物資調達で大きな賑わいを見せました。
すなわち対岸の港町では、居酒屋や宿屋には仕事終わりの工夫たちや船乗りが集まり、夜遅くまで明かりが灯って大いに活気にあふれていたといわれます。
もちろん大都市の繁華街のような歓楽街・不夜城とまではいきませんでしたが、それでも港町ならではの素朴で力強い熱気が、夜の町を包んでいたというわけですね。
また、呉線との分岐でもある三原駅周辺の三原市も、大きく盛り上がった?
かつての山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が通る三原駅周辺も、瀬戸内海沿岸の交通の要衝として大きく発展していきました。
山陽鉄道の歴史については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

当時の三原の町は、呉線方面へとつながる海の玄関口として人の往来が増え、駅前には宿や商店が立ち並びました。
すなわち、当時の三原には多くの商人が集まり、軍事と商業の両面から三原の町も活況を呈していったのでした。
広島県三原市の観光・地理・歴史については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。


「軍港連絡鉄道」としての呉線開通と大久野島
元々、呉線が建設された最大の目的は、東洋一の軍港である呉と山陽本線を結ぶための軍事連絡鉄道でした。
歴史的にも、まずは広島側の海田市駅から呉へと伸びる区間(呉線西側)が軍港連絡として先に開業しています。
海田市駅をはじめ、山陽本線のこの辺りの地域の地理・歴史などについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

もちろん三原駅からの呉線は、単に大久野島への直接のアクセスだけを目的に作られたわけではありませんが、やはりそれでも(大久野島への最寄り駅である)忠海駅などを経由する呉線の開通によって、大久野島への物資や兵員の輸送(つまり軍事的アクセス)が格段に便利になったことは間違いありません。
砲弾を一度も撃たなかった「大久野島の砲台跡」

一度も実戦で火を噴くことなく眠りについた大久野島の砲台跡(画像はあくまでAIによるイメージです。)
このような感じで、巨額の費用と様々な苦労と労力をかけて完成した大久野島の砲台跡でしたが、いざ実際に戦争が始まると活躍の機会があまりなく、ほとんど使われることがないという意外な歴史をたどることになります。
実戦で一度も使われなかった幸運
日露戦争では、日本海海戦をはじめとする主な戦いが、反対側の日本近海の日本海側で行われることになりました。
したがって、(主な戦場とは大きく離れた)瀬戸内海に対して敵艦が侵入してくることは一度もなく、大久野島の砲台跡から火が噴くことはありませんでした。
このときばかりは、平和に終わったわけです。
大正時代の要塞廃止と、大久野島の砲台跡
その後の兵器の進化や防衛方針の見直しに伴い、大正時代には要塞としての役目を終え、廃止されました。
というのも、大正時代に入ると大砲の射程距離が大幅に伸び、さらに航空機(戦闘機)も登場したため、閉ざされた内海である大久野島に小さな砲台をそのまま維持し続けるという戦略的価値が薄れてしまったからですね。

役目を終えて静けさの中に佇む大久野島の砲台跡の円形砲座(画像はあくまでAIによるイメージです。)
昭和の移り変わりと、大久野島の砲台跡を取り巻く遺構群

昭和の時代の歴史を物語る大久野島の毒ガス工場跡の遺構(画像はあくまでAIによるイメージです。)
こうして、大正期に時代とともに要塞としての役目を終えた後、昭和時代には島に電力を自給するための発電場などが置かれてゆきました。
「地図から消された島」と、徹底した機密保持
戦争中は、国際的に禁止されていた毒ガスの製造を行っていました。
現代の国土地理院の前身である陸地測量部が発行していた公式の地図(現代でいうと、例えばGoogleマップのような全世界で使われているツールよりももっと公式な国の地図)から、その存在が消しゴムのように消されてしまいました。
列車カーテンの厳戒態勢と隠された毒ガス製造
また、国民にその「大久野島」の存在そのものを知られたくなかったため、呉線で大久野島の前を通るときは、列車内のカーテンが厳重に降ろされました。
また、列車内で「カーテンを降ろせ!窓の外(海や大久野島の方)を絶対に見るな!」と命令していた憲兵や車掌も、「なぜそんな命令を出さないといけないのか(島で何が行われているのか)?」については知らされていなかったのでした。
もちろん、大久野島の毒ガス工場で働いていた人たちも、「きい薬」「あか薬」などという暗号名で呼ばれる薬品の正体を詳しくは知らされず、危険な作業に従事させられていたのです。
このように、「国を挙げて大久野島(と、作られている毒ガス)の存在を隠す」という、当時の日本軍の徹底的な機密保持の厳戒態勢がうかがえます。
戦後の再出発と、観光地化への険しい道のり
その後、戦後に大久野島は国民休暇村として再整備され、平和な観光地へと生まれ変わっていきます。
しかし、国民休暇村の整備中に前述の毒ガスの跡が出てきて事故が起きたり、また海の中からも毒ガスが出てきたため、海底に(本土と結ぶための)水道を通すことができず、本土から船で飲料水を運んでこなければいけないなど、様々な苦労がありました。

蔦や緑に覆われ静かに佇む大久野島の毒ガス工場跡の巨大遺構(画像はあくまでAIによるイメージです。)
遺構を見つめるうさぎたちと、現代の平和な風景

大久野島で元気に駆け回る可愛らしいうさぎ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
かつて緊迫した時代を過ごした大久野島の砲台跡には、現在たくさんの野生のうさぎたちがのびのびと暮らしています。
野生のうさぎたちは、レンガの壁際で丸くなったり、砲座の草を美味しそうに食んだりする姿は、思わず笑みがこぼれてしまうほど微笑ましいですね!

観光客の足元で穏やかに寄り添う大久野島のうさぎの様子(画像はあくまでAIによるイメージです。)
このように、かつての重厚な軍事遺構と愛らしいうさぎたちのコントラストは、平和の尊さを私たちに静かに教えてくれているのかもしれません。
大久野島の歴史や見どころをもっと詳しく知りたい方は、こちらの総合ガイド記事もぜひご覧ください。

おわりに・まとめ
大久野島の砲台跡は、明治時代に瀬戸内海の防衛拠点として築かれながらも、一度も火を噴くことなく役目を終えた、歴史の証人です。
現在は豊かな自然に包まれ、愛らしいうさぎたちが平和に暮らす憩いの風景へと生まれ変わっています。
島を訪れた際は、可愛い姿に癒やされながら、静かに佇む大久野島の砲台跡が語りかける歴史のロマンと平和の尊さにぜひ思いを馳せてみてくださいね!
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